2:6 あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。
2:7 キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。
2:8 あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。
2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。
2:11 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。
2:12 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。
2:13 あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、
2:14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。
2:15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。
2:16 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。
2:17 これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。
2:18 あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、
2:19 かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。
一、キリストにつながる
今、「人生の五つの目的」のおさらいをしています。「人生の五つの目的」の第一は「礼拝」でした。第二は?「まじわり」ですね。リック・ウォレンの本では「まじわり」(Fellowship)は「教会に属すること」として教えられています。しかし、教会に属するとはいったいどういうことなのでしょうか。「まじわり」とは何なのでしょうか。「まじわり」というと、いろんなひとびととの「おつきあい」ということを真っ先に思いうかべ、「教会」というと、人々のグループだと思っている人も多いと思います。しかし、聖書は、教会は「キリストのからだ」であると言っています。
こどもたちに「教会って何だと思う?」と聞いてみると「神さまのお家!」などという答が返ってきます。ある日のこども礼拝で「教会って何?」と聞いたら、ひとりのこどもが「キリストの body」と答えたそうです。すごくいい答ですね。こどもたちはどこでそれをならったのでしょうか。まじめに先生の話を聞いていないように見えても、ちゃんと聞いていて、心に留めているのです。だから、やっぱり、こどもたちにきちんと聖書を教えてあげなければなりません。ですが、それは別として、「キリストのからだ」ということばが「教会とは何か」ということを、もっとも良く表わしていると思います。私は今、「『キリストのからだ』ということばが、教会を最も良く表している。」と言いましたが、もっと正確に言えば、教会は「キリストのからだのようなもの」であるというのでなく、「キリストのからだそのもの」です。さらにつっこんで言えば、教会はキリストそのものなのです。
ですから、「教会に属する」ことは、キリストに属することだと言うことができます。もっと具体的に言えば、私たちは、教会のかしらであるキリストに属することによって、キリストのからだである教会に所属するのです。それは、単に教会のメンバーシップをとるとか、教会で何かの役割を果たすとか、教会のいろんな人とつきあうとか以上のものです。
皆さんは、「クリスチャン」という言葉に「キリストに属するもの」という意味があることをよくご存知ですね。ですから新改訳聖書では、英語で「クリスチャン」とあるところを「キリスト者」、つまり、「キリストの者」と訳しています。こどものノートブックなどに "This belongs to" とあってそこに名前を書き込む欄があります。"This belongs to Mark" なら「これはマークのものです」、"This belongs to Christy" なら「これは クリスティのものです」という意味になります。じつは、クリスチャンひとりびとりにも "This belongs to" というレーベルが貼ってあるのです。みなさん、そこに誰の名前が書かれていると思いますか。"This belongs to Christ" と書かれているのです。クリスチャンは、キリストの所有物、キリストに属する者です。では、どのようにして、私たちは「キリストの者」、「キリストに属する者」となるのでしょうか。
二、キリストにつながる以前
そのことを考えるために、クリスチャンはキリストに属する以前、何に属していたのかを考えてみましょう。聖書は、クリスチャン、つまり、「キリストに属する者」は、「真理に属する者」(ヨハネ第一3:19)、「霊に属する者」(ローマ8:5)、「天に属する者」(ピリピ3:20)だと教えています。ということは、キリストに属するまでは「地に属する者」(ヤコブ3:15)、「肉に属する者」(コリント第一3:1)だったということになります。エペソ2:1~3によれば、「自分の罪過と罪との中に死んでいた者、この世の流れに流されていた者、不従順の霊に従っていた者、肉と心の望むままを行っていた者、生まれながら神の怒りを受けて当然の者」とあります。ある聖書学者は、エペソ人への手紙全体の主題を「教会」としたうえで、エペソ2章に「教会の材料」というタイトルをつけました。神は、信仰深く、良い行いに励む、有能な人々で教会をつくりあげたのではなく、神から捨てられてもやむをえないような人々で教会をつくりあげてくださったというのですが、ほんとうにそのとおりですね。イエスの最初の弟子たちは、田舎者の漁師たち、嫌われ者の取税人、「罪びと」や「遊女」と呼ばれた人々だったのです。
では、旧約のイスラエルは「神の民」と呼ばれていたから、もっと立派な人々だったかというと、そうではありませんでした。イスラエルはもとはといえば、アブラハムからはじまった小さな部族にすぎませんでした。しかも、イスラエルはエジプトで奴隷だった人々です。世界にはもっと強い国もあったでしょうが、神はわざわざエジプトの奴隷にあわれみをかけ、そこから救い出し、「神の民」、神のものとされたのです。申命記には「主はあなたがたを取って、鉄の炉エジプトから連れ出し、今日のように、ご自分の所有の民とされた。」(申命記4:20)とあります。「ご自分の所有の民」ということばは、どんなものよりも大切なもの、まるで宝のように、目の中に入れても痛くないものということを表しています。実際、申命記には「あなたは宝の民だ。」ということばが3回も繰り返されています(申命記7:6、14:2、26:18)。「目の中に入れても痛くない」という神の愛は、「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。」(申命記32:10)ということばがよく表現しています。
クリスチャンは新約の神の民です。イスラエルがエジプトで奴隷だったように、私たちも、罪の奴隷でした。「罪の奴隷」というと、ふつう、金儲けのためになりふりかまわないことをしたり、アルコールやドラッグにコントロールされたり、欲望におぼれたりするようなことだと考えます。たしかにそうしたものは「罪の奴隷」の姿をはっきりと表していますが、そのようにはっきりしたものでなくても、心の中にいつも劣等感があり、ねたみがあり、また、他の人の言おうとしていることをまっすぐに聞けないで、批判的にしか受け取れない、何を見ても、聞いても、それに怒り散らすといったことも、やはり罪の奴隷の姿です。いつも不安や心配にふりまわされている、人の目に左右されるなど、罪の奴隷の姿はいろんなところに表れます。
ある人が「イエス・キリストはあなたの罪を赦してくださる。」と聞いたとき、「とんでもない、私に罪なんかない!」と反論しました。すると「では、あなたが今までしてきた間違ったこと、口に出した悪いことば、心の中にわいてきた醜い思いを紙に書いてごらんなさい。」と言われました。その人は、最初、「書くものなんか何もない。」と頑張っていたのですが、こどものころからのことを思い出していくと、いろんなときについた嘘、家のものを勝手に持ち出したこと、約束を守らなかったこと、人を傷つけたことなどを、次々と思い出し、一枚の紙にはとても書ききれなくなってしまいました。そして、「ああ、私は、聖書が言っているとおりの罪びとです。イエスさま、私の罪を赦してください。私を罪の奴隷から解放してください。」と祈ったそうです。
神は、そんな罪びとを赦してご自分の民とし、キリストは、罪の奴隷であったものを解放してご自分のもの、クリスチャンにしてくださるのです。聖書は言います。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」(ペテロ第一2:9-10)クリスチャンもまた、イスラエルと同じように「神の所有とされた民」です。神のもの、キリストの者なのです。「おまえはわたしのものだ。」と言われるほどに、神に愛され、キリストに守られているのです。あなたは「クリスチャン」ですか。「クリスチャン」という名前には、こんなに素晴らしい意味があることを知っていましたか?あなたはまだ、「クリスチャン」ではありませんか。もしそうなら、あなたも、クリスチャンになりませんか。あなたの罪を赦すために十字架に死んでくださったイエス・キリストを信じ、罪を悔い改めるとき、あなたは「クリスチャン」になり、「キリストの者」となることができるのです。キリストに属する喜びを味わうことができるのです。
三、キリストにつながってから
キリストに属し、教会に属したなら、どのようにすればよいのでしょうか。キリストにつながり続けることです。イエスは言われました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。…わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(ヨハネ15:4-5)キリストを信じたから、もうキリストのまじわりはいいから、こんどは教会の大勢の人とのおつきあいに励みましょうというのは違います。教会は第一にキリストとまじわるところであり、キリストにあって、他の人とまじわるところです。いつ、どんな場合でも、キリストとのつながりが先で、人とのつながりが後です。この順序を間違えると、人とのつながりもうまくいかなくなります。
からだの各器官はそれぞれ頭脳からの神経で動いています。だから、手足がバランス良く動くのです。キリストのからだである教会でも、そこに属するひとりびとりはキリストにつながっており、かしらであるキリストからの指令によって動いています。これを空港にたとえてみましょう。空港には、各地からさまざまな飛行機が着陸し、またいろんな場所に飛び立っていきます。あんなにたくさんの飛行機がぶつからないで無事に離陸したり着陸したりできるのは、どうしてでしょうか。飛行機同士が互いに連絡をとりあっているからですか。そうではありません。すべての日広義が空港にあるコントロールタワーからの命令にしたがっているからです。教会も同じです。キリストのからだに属するお互いが、キリストの命令に聞き、キリストに従うことによって、そこに調和と一致が生まれるのです。お互いに他を生かしあい、励まし合い、慰め合うことができるようになるのです。キリスト以外に誰かがかしらになろうとしたり、誰かをかしらにしようとしたりすると、たちまち教会に混乱が起こります。口は目より下にあるからといって目に支配されているわけではありませんし、足は、手より下にあるからといって手が言うままに動かなければならないというのではありません。人間の結びつきだけで動いていると、長く教会にいて人間のつながりを多く持っている人は大切にされても、新しい人や目立たない人は忘れられていきます。なによりも、人間関係を優先するあまり、大切にされなければならない真理がおきざりにされてしまい、教会は本来の使命を果たせなくなってしまうのです。
キリストとのまじわりを求めましょう。そして、それに基づいた互いのまじわりを育てていきましょう。人は、ひとりでいると寂しいものです。それで、人の集まるところにやってきます。アメリカで英語の世界に囲まれていると、日本語が通じるところが欲しいと思うものです。それだけに、アメリカにある日本語の教会は、信仰によるつながりよりも、日本人のつながりのほうが強くなってしまう危険があります。以前いた教会で、長く教会から離れていた人が礼拝に来ました。その人を知っている人たちは「あの人が神さまのところにもどってきた。」と言って喜んでいましたが、その人は、礼拝が終わってから私のところに来て、「どうしてきょうはスミスさんが来ていないのですか。」と怒って言うのです。その人は、スミスさんと教会で会う約束をしていたのですが、スミスさんに会えなかった不満を私にぶつけてきたのです。その人は、人に会うために教会に来たのであって、イエスを求めてではなかったのです。
考えてみてください。教会で人に会うだけで良いのでしょうか。人に会って、好きなことを言って、「ああ、楽しかった。」と、表面では満足できるかもしれませんが、それだけでは、私たちの心の奥深いところにあるものは決して満足することはありません。私たちのたましいは、偉大な人格に会うことを願い求めています。私たちの人格はよりすぐれた人格とまじわることによって成長しますが、そうした人に出会うことが少なくてがっかりすることもあるでしょう。また、教会に人格的にすぐれた人たちが多くいたとしても、誰も完全ではありませんから、人と会って、話して、失望することも多くあるでしょう。しかし、教会にはイエスがおられます。こどもたちが「教会ってどんなところ?」という質問に「神さまのお家!」と答えたように、教会は神としても人としても完全なお方、イエス・キリストがおられるところです。私たちのたましいは、このお方とのまじわりによって、はじめて満足を得ます。このお方にお会いし、語り合い、このお方とともに時を過ごすとき、人格を成長させることができます。クリスチャンであることの幸いを味わいます。そして、この幸いを、イエスを喜びとする人々とともに語り合い、さらに喜びに満たされるのです。それが教会です。
コロサイの教会にはさまざまな哲学や思想、そして間違った教えが入りこんでいました。それで2:18-19に「あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。」という注意が書かれました。現代は聖書の教えがもっと曲げられている時代です。私たちもこの警告をしっかり心に留めましょう。そして、まことのかしらであるキリストに堅くむすびつきましょう。2:6-7に「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」とあります。神が大きな愛とあわれみで私たちを「キリストの者」とされたのですから、そのことに大いに感謝して、いよいよキリストとのつながりを深めていきましょう。
(祈り)
父なる神さま、私たちが「クリスチャン」と呼ばれるために、あなたはどんなに大きな愛で愛してくださったことでしょうか。あなたは福音を聞き、信じる者に、「あなたは神の宝の民、神の所有の民」と呼びかけてくださっています。どうぞ私たちのこころに、絶えず「キリストの者」であることの喜びを満たしてください。クリスチャンであること、キリストの者であることを恥じることなく、この喜びを、まず教会の中で互いに分かち合い、そして、人々にあかしすることができるようにしてください。教会のまじわりが、互いに「キリストの者」であることを喜びあうものとなりますように。私たちのただひとりのかしら、イエス・キリストのお名前で祈ります。
4/27/2008