ほんとうの敬虔

コロサイ2:16-23

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2:16 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。
2:17 これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。
2:18 あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、
2:19 かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。
2:20 もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、
2:21 「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。
2:22 そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。
2:23 そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。

 一、不敬虔の罪

 神は私たちに敬虔であるようにと望んでおられます。「敬虔な」というのは英語で godly(神のような)と言います。これは、人間が神になるとか、神に等しくなるということではありません。神は造り主であり、人間は被造物ですから、そんなことはできません。しかし、私たちが神を仰ぎ見、神を大切に思っているなら、知らず知らずのうちに、神の心が私たちの心になって来る、人となられた神、イエス・キリストに似たものになって来るのです。

 今回の夏期修養会の聖会講師、郷谷一二三先生のお話を伺いながら、私は、郷谷先生の口調が村上宣道先生に似ているなと感じました。郷谷先生は、坂戸教会の信徒として村上先生の説教に養われてきた方ですので、知らず知らずのうちに村上先生の口調を吸収してしまわれたのでしょう。人は自分がいつも見ているもの、聞いているものから影響を受けます。ですから、私たちには、何を見るか、何に聞くかが大切になってくるのです。価値あるものに目を留めれば、私たちは価値あるものとなり、虚しいものに目を留めれば、私たちもまた虚しいものになってします。「敬虔」とは、そのように神のお心がいつしか自分の心になって来るまでに、神を畏れ、敬い、神を見上げ、キリストに習っていくことなのです。

 敬虔の反対は「不敬虔」です。そして、聖書は、不敬虔は罪、神に対する罪だと教えています。不敬虔が罪だということを、はじめて聞く人もあるかもしれません。それは、日本の文化では、長い間、神をないがしろにしたり、神のことばに従わないことが罪だとは考えられてこなかったからでしょう。今では日本の社会も変化しましたが、かつて、イネつくりを中心にムラができあがってきたころには、イネつくりのためのムラのルールに従わないことは、重大な罪でした。水路の堰を勝手に切って自分の田んぼに水を引くようなことをしたら、それこそ、死をもって償わなければなりませんでした。その人がどんなに真面目に働く人であっても、家族を大切にしていても、それで罰が軽くなるわけではありませんでした。逆に、ムラのルールを守って、他の人に合わせていさえすれば、どんなにいいかげんで、はた迷惑な人でも、それで罰を受けることはありませんでした。ムラ社会では、共同体の秩序が絶対でした。それで、まわりの人の顔色を伺い、まわりの人に合わせて生きるというのが日本人の習性になってしまいました。何かをするとき、それが正しいか間違っているかよりも、それがまわりと同じか違うかで判断するという行動パターンが出来上がってしまったのです。

 日本の文化では、聖なる神がおられないので、そのかわりに、世間が基準となり、神になるのです。それでいつしか人々は「世間」に「様」をつけて「世間様」と呼ぶようになりました。「渡る世間に鬼はなし」などということわざがあって、世間に人情がまったくないわけではありませんが、しばしば、世間の風は冷たく、何も悪いことをしていないのに、他と違っているというだけで、非難され、攻撃され、追放される、自殺や心中に追いやられ、「世間様」の犠牲になっていくということがありました。いや、今もあるかもしれません。若い人なら流行のものを身につけていなければ、恥ずかしいことであり、こどもなら、みんなが持っているゲームを持っていないと仲間外れにされるというようなことがあるかもしれません。

 日本でも信仰の対象となるものを侮辱した場合、それは「礼拝所不敬罪」という犯罪になります。神聖なものは、国の法律によっても守られています。しかし、日本の文化で「罪」と考えられているのは、神に対するものではなく、人に対するものです。人に失礼なことをしたら厳しく責められることはあっても、神に対して不遜であったり、不忠実であっても、そうしたことが問題にされることはあまりないのです。しかし、聖い神に出会うとき、私たちは、人との関係における罪だけでなく、神との関係における罪に気付きます。自分が、聖なる神に対して罪を犯している者、不敬虔な者であることが分かるのです。そしてそれが分かってはじめて、真実な悔い改めに導かれ、キリストの救いに導かれます。

 しかし、感謝なことに、神は、不敬虔な者を救ってくださいました。ローマ5:6には「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました」とあります。ここにはキリストが罪びとのために死んでくださったとは書かれず、わざわざ「不敬虔な者」のために死んでくださったとあります。社会の道徳に反したことをしてしまった、他の人に迷惑をかけてしまったというだけではなく、神なんかいらないと神に背を向け、神に対して無礼で、反抗的で、不敬虔な者のために、キリストは死んでくださったというのです。なんと大きな愛、温かい愛でしょう。たとえ、世間は冷たくても、この愛の神によって、この神の愛によって温められるなら、私たちはこの世で敬虔に生き抜いていくことができるようになるでしょう。

 二、敬虔への挑戦

 神は、私たちに敬虔を追い求めるよう命じておられ、私たちも、敬虔な生涯を過ごしたいと願っています。しかし、敬虔に生きるというのは、簡単にできることではありません。現代では「敬虔な人」は少しも人気がありません。かえって人々から敬遠されてしまいます。また、ほんとうの敬虔さを身につけるには、日々の積み重ねと忍耐が求められます。それで、てっとり早く敬虔になりたいという誘惑に直面します。みせかけだけの偽物の敬虔さに心が惹かれてしまうのです。

 コロサイをはじめとするアジアの諸教会には、「グノーシス」という宗教がはびこっていました。「グノーシス」は、既成の宗教だけでは、真理に到達することはできない。自分たちこそ隠された真理を知る知識を持っていると主張しました。「グノーシス」というのはギリシャ語で「知識」を意味し、神秘的な知識を売り物にしていました。

 グノーシスは既存の宗教と結びついて、既存の宗教の「グノーシス版」というものを作りました。ですから、ギリシャ的グノーシスもあれば、ユダヤ的グノーシスもありました。使徒たちの後の時代にはキリスト教的グノーシスが幅をきかせるのですが、それは、使徒の時代にすでに始まっていました。使徒パウロが戦ったのはユダヤ的グノーシスとキリスト教的グノーシスでした。「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません」(16節)というのは、さまざまな食べ物の規制や特別な日を守ることが定められていたユダヤ教に関係があります。ユダヤ教を取り入れたグノーシスは、自分たちこそ旧約聖書を発展させ、旧約に隠されていた真理を明きらかにしたと言って、クリスチャンの信仰を批評し、挑戦してきたのです。

 「あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません」(18節)というのは、ギリシャ的なグノーシスを指しています。ギリシャの哲学には禁欲的な要素が強く、「すがるな。味わうな。さわるな」(21節)というのは、彼らの合言葉だったようです。

 18節後半の「彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り」とあるのは、グノーシスに共通した神秘体験のことをさしています。

 こうしたものは、一見して、とても敬虔そうに見えます。クリスチャンのシンプルな礼拝にくらべて、ユダヤ的グノーシスの礼拝はきらびやかで魅力的なものだったでしょう。クリスチャンは神に選ばれた者として度をすごした享楽から遠ざかってはいましたが、だからといって社会から浮き上がったような生活はしませんでした。天に国籍を持ち、地上では旅人であったとしても、ローマの市民として義務を果たし、真面目に働き、隣人を愛する生活をしてきました。そうした普通の生活とくらべれば、グノーシスの難行苦行は、それをやり遂げたという満足感をひとびとに与えるものでした。さらに幻を見るという神秘的な体験は、誰もがあこがれることで、キリストを信じる信仰と、グノーシスとの違いが分からない人たちはグノーシスのほうが敬虔そうに見えたことだろうと思います。

 現代も同じような誘惑が満ちています。23節では見せかけの敬虔が「人間の好き勝手な礼拝」「謙遜」、そして「肉体の苦行」の三つに要約されています。「好き勝手な礼拝」というのは、聖書に基づかないもので、神をあがめるというよりは、自分たちの感情を満足させるだけの礼拝のことかもしれません。コンサートでは、オーディオ・ビジュアルの技術が駆使され、その道の専門家は、そのコンサートのムードを音響テクニックで操作できるという話を聞きました。本格的な設備を備えた教会では、そういうテクニックを知っている専門家が機械を操作しますので、そこに聖霊の働きではない人工的なムードが作られてしまうことがあります。ハイテックによって生み出された、バーチャル・スピリッチャリティが、聖霊の働きにとって替えられるとしたら、それは恐ろしいこと、不敬虔の極みだと思います。「謙遜」と言われているのは、神の前にへりくだるほんとうの謙遜ではなく、人の前で謙遜ぶってみせるみせかけのもののことです。さらに「肉体の苦行」もみせかけの敬虔のしるしです。「肉体の苦行」は良くないから、朝早く起きて祈りの時をもつ、時には断食したり、夜を徹して祈ることもしてはいけないとしたら、それは違っています。聖書は「敬虔のための鍛錬」を教えています。なんの自己訓練もなく、だらしなくしていて良いということではありません。ここでの「肉体の苦行」というのは、自分の努力で霊的なものを勝ち取ろうとして、不必要な苦痛を強いることを意味しています。そうしたものによって天国への保証を手にしようとすると、神の恵みにより頼む信仰から離れてしまいます。

 敬虔というものは一朝一夕で出来上がるものではありません。霊的な生活へと導くセミナーや修養会に出席して、帰ってきたら、もうすぐに敬虔な人になっていたということは普通はないでしょう。それは、セミナーや修養会で教えられたことをその後も忠実に実践し続けることからはじめて生まれるものです。さまざまな信仰の戦いを、忍耐深く乗り越えていくことによって、はじめて身に着くものです。しかし、せっかちな今の時代は、インスタントな敬虔さを求め、何か特別なことをすればそれで敬虔になれるかのように錯覚してしまうのです。私たちは、そうしたものに惑わされることなく、本物を求め続けていきたいと思います。

 三、ほんとうの敬虔

 では、ほんとうの敬虔とは何なのでしょうか。それは、一にも、二にも、キリストにつながっていることです。18節の後半から19節にかけて「彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません」とあります。ここで「かしら」呼ばれているのは、イエス・キリストです。コロサイ人への手紙は、イエス・キリストを第一のお方、あらゆるものの上に立つお方、すべてにおいてかしらであると教えています。キリストは世界を造られたお方として、この世界の上に立つお方です。キリストは、死を打ち破って復活された第一のお方であり、キリストを信じる者たちもまた、やがて復活にあずかることができるよう、そのさきがけになってくださいました。そして、キリストは、ご自分のからだである教会のかしらとして、教会を治め、養い、導いていてくださいます。かしらであるキリストにからだの器官のひとつとして、しっかりとつながっていること、それが「敬虔」です。キリストのからだである教会につながらないでかしらであるキリストにつながることはできません。かしらであるキリストにつながることなしにからだである教会につながることはできないのです。しかし、しばしば、キリストにつながっていると言いながら、教会につながっていないことがあります。教会につながっていると言いながら、キリストにはつながっていないということも起こるのです。それで、コロサイ人への手紙では、まず第一に「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい」(2:6-7)と、キリストにつながるようにと教えているのです。そして、キリストとのつながりが確立してはじめて、そこに「キリストにある」他のひとびととのつながりが生まれてきます。キリストとのつながりがなければ、そこには、どんなに良い人たちがいて、どんなに仲良くやっていたとしても、それは単なるコミュニティ、フェローシップであり、お互いがお互いに元気をわけあって動いているだけで、キリストのいのちによって生かされ、成長するキリストのからだにはならないのです。

 しかし、教会に集うひとりびとりがキリストにつながっているなら、そこには、生きたキリストのからだができあがり、成長していきます。19節に「このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです」とあるように、そこにキリストのからだがしっかりと作り上げられていきます。キリストのからだの成長のために貢献しながら、自分自身も、キリストにあって成長していくこと、それがほんとうの敬虔です。この敬虔を追い求め、それを神の恵みによって育てていきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちに偽物の敬虔とほんとうの敬虔の違いを教えていただき、ありがとうございます。しかし、知識だけでは、ほんとうの敬虔を体験することはできません。私たちのかしらであるキリストにしっかりとつながり、日々歩むことができますよう、助けてください。そして、そのようにして体験する敬虔によって、さらに、偽物と本物を見分けながら、聖書が教える、ほんとうの敬虔へと進ませてください。主イエスによって祈ります。

7/10/2011