成長を求める祈り

コロサイ1:9-10

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1:9 こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。
1:10 また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。

 私たちはよく「お祈りしています」と書かれた手紙を受け取りますし、私たちも手紙にそう書きます。山室軍平という救世軍(日本のサルベーション・アーミー)の指導者は、手紙に「祈ります」と書いたときには、実際にその人のために祈ったそうです。今も、多くのクリスチャンがそのようにしていますが、使徒パウロの場合は、手紙に「祈っています」と書くたびに、その場で祈り出し、その祈りが手紙の中に書きしるされました。コロサイ1:9からはパウロがコロサイのクリスチャンのために祈った実際の祈りが14節まで記されています。今朝は、その前半、9節と10節だけをとりあげます。ここから、祈りのまじわり、祈りの内容、そして、祈りの目的について学ぶことにしましょう。

 一、祈りのまじわり

 最初に、祈りのまじわりについて考えてみましょう。

 コロサイの人々に直接伝道したのはエパフラスで、パウロではありません。しかし、コロサイの人々が福音を聞いて信仰に導かれたのは、パウロがアジア州の拠点であるエペソの町で伝道した結果でした。アジアの各地からエペソに来ていた人たちがパウロから福音を聞き、それを学び、それぞれ自分の町で伝道をはじめたのです。ですから、コロサイの教会もある意味ではパウロの伝道の実であって、パウロは常々、コロサイのクリスチャンのことを心にかけて祈っていました。コロサイ2:1に「あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います」とあるように、まだ会ったことのない人たちのためにもパウロは日々祈っていたのです。

 「絶えずあなたがたのために祈り求めています」と訳されているのは、文字通りには「祈りを止めないでいる」と書かれています。小さなことばですが、コロサイの人々のために祈りを欠かすことのない使徒パウロの愛が伝わって来るようなことばです。顔も合わせたことのないお互いであっても、その信仰を耳にしたときから、心に覚えて熱心に祈り始めることができる。ここに、信仰のまじわりの素晴らしさがあります。

 私は、あるきっかけから、日本のある教会の牧師先生を知るようになりました。知ったと言っても、お会いしたわけではありません。この先生の書かれたものを読んだだけです。この先生はあと何年生きられるかわからないという病気をかかえながら牧会しておられます。地方の小さな村の小さな教会です。若い人はみな都会に出て行きます。二十人に満たない礼拝を守るのが精一杯です。それだけに、先生をはじめ、教会員は礼拝を守るということに真剣に取り組んでいます。先生の文章や、教会員の書いたものから「真剣」という言葉が浮かび出てくるかのようです。信仰はほんらい真剣なものであるはずなのですが、いつしかそれが生ぬるくなってきているこの時代、しかも、その生ぬるさにさえ気付かなくなっているこの国にいる私に、先生とその教会の姿勢はいつも大きなチャレンジとなっています。太平洋を隔てて遠くあっても、同じ信仰によって励まし合い、また祈り合うことができるのです。信仰のまじわり、祈りのまじわりの素晴らしさを本当に感謝しています。

 ある教会で宣教師を迎えて宣教の集まりがあったとき、ひとりのお年を召した方が「私には祈ることしかできませんが…」とその宣教師に言いました。すると、その宣教師は答えました。「祈ることしかできないなどと言わないでください。私には、なによりも、祈りが必要なのです。」祈ることは決して小さなことではありません。お年を召していろんな奉仕ができなくなったとしても、祈りの奉仕は出来ます。時が来て教会の役員や委員を退任したとしても、それで奉仕が終わったわけではありません。祈りの奉仕が待っています。

 今、私たちは、教会にもメンバーのひとりびとりにもさまざまな必要があります。さらに多くの祈りを必要しています。まだ会ったことのない人のためにさえ祈ることができるのなら、毎週顔を合わせているお互いのためにはもっと祈ることができるはずです。ともに集まって祈り合う、また、どんな集まりであれ、二人でも三人でも、集まったところで互いのために祈り合う。そのようにして、祈りのまじわりを深め、広げていこうではありませんか。

 二、祈りの内容

 次に、パウロが何を祈ったか、「祈りの内容」について見てみましょう。

 パウロが祈ったのは、コロサイのクリスチャンの健康のことでも、家庭的な幸福のためでも、また、経済的繁栄でもありませんでした。そうしたものは、すべて望ましいものであり、神もまた喜んで与えようとしておられるものですが、それは、祈りのリストの第一のものではありませんでした。パウロが何よりも祈り求めたことは、コロサイのクリスチャンが「真の知識に満たされ」、霊的に成長することでした。

 ここで「真の知識」と言われているのは、神を知り、キリストを知ることを意味しています。主イエスが「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17:3)と言われた「知識」です。それは、聖書やキリスト教のことを勉強して身につける知識のことではありません。もちろん、聖書に関する知識やキリスト教に関する知識を身に着けることは良いことですし、それは信仰のために役立ちます。広く、深い知識という基礎があってこそ、そこに正しい信仰が宿るからです。しかし、それが「神について」の知識だけで、信仰によって、体験的に「神を」知る知識でなければ、そこに救いはなく、いのちも力もないのです。「神について」だけでなく、「神を」、「神ご自身を」知ることが、私たちのゴールでなければならないのです。

 しかも、神が唯一のまことの神であることを知っていればそれで良い、キリストが私の救い主であることを知っていれば、それ以上のことはいらないというのではありません。そういうことなら、クリスチャンなら誰もが知っています。神が唯一のまことの神であることを知ったからこそ、神に立ち返り、キリストが私の救い主であることを知ったからこそ、キリストを心に迎え入れたのです。パウロが祈ったのは、私たちが救われるために必要な最低限の知識だけでなく、そこから出発して、さらに神を知り、その知識が成長し、それによって私たちのたましいが満たされることだったのです。

 パウロは、同じことを、エペソのクリスチャンのためにも、ピリピのクリスチャンのためにも祈りました。エペソ1:17には「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」との祈りがあり、ピリピ1:9には「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように」との祈りがあります。パウロばかりでなく、エパフラスもまた、コロサイのクリスチャンが神のみこころを知るようにと祈っていました。コロサイ4:12に「あなたがたの仲間のひとり、キリスト・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼はいつも、あなたがたが完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます」とあります。使徒ペテロもまた、「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」(ペテロ3:18)と教えています。

 コリント第一14:20に「兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい」とあり、エペソ4:14には「それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」とあります。聖書は、私たちにこどものようなへりくだった心を持てと教えています。しかし、神を知ることにおいては、いつまでもこどものようであってはいけない。そこから成長するようにと教えています。

 皆さんの中にはサンデースクールの時に信仰を持ち、そこで育てられてきた人がいると思います。そこで教えられたことは、大人になっても真実なことでしょうが、社会に出、家庭を持ち、複雑な社会でなお神のみこころに従って生きていくには、サンデースクルールで習ったこと以上のものが必要なことを感じてきたことと思います。赤ちゃんはミルクだけで満たされるかもしれませんが、成長するにつれ、もっと食べ物が必要になってきます。同じように、信仰の成長とともに私たちはさらに、神を知る知識に満たされていく必要があるのです。

 神は無限のお方ですから、私たちは「もうこれで十分に神を知った」と言うことはできないはずです。有限な私たちが無限の神を知り尽くすことはできないからです。「神を知り尽くすことができないのなら、何も無理をして神を知ろうとしなくても良い」などと考える人がいるかもしれませんが、神を愛するたましいは、決してそうは考えません。神のかたちに造られた私たちのたましいは、常に神を求めて飢え渇いているのです。さらに神を知りたいという祈りがそこにはあるのです。スプライトのコマーシャルに "Obey your thirst." ということばが出てきます。「喉が渇いたら我慢しないで、冷えたスプライトの缶を開けて飲みなさい」というのですが、私たちも、自分のたましいの渇きを素直に認めましょう。 "Obey your spiritual thirst." 神を知り、キリストを知る「真の知識」で満たされることを、さらに祈り求めていきましょう。

 三、祈りの目的

 最後に「祈りの目的」について短くお話して終わります。

 パウロは9節で「どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように」と祈り始めましたが、続いて10節で「また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように」と祈っています。10節は、9節とは別の新しいことを言っているのではなく、真の知識に満たされた結果を語っています。真の知識に満たされ、神のみこころを知るなら、そこからみこころにかなった歩みが生まれ、良い行いの実を結ぶようになる。そして、その歩みや行いによって、さらに神を知り、神を知れば知るほど、私たちの生活が変えられていくという良い循環(サイクル)が私たちのうちになされるようにとの祈りなのです。

 神を知るようにとの祈りは日常の生活に無関係なことではありません。その祈りは、必ず、生活の中に反映し、そこに実を結ばせます。「祈り」は日常から一時、離れることです。私たちが祈りのとき、膝を折って座るのは、「私はきょう行かなければならないところがいっぱいあります。しかし、今は、どこにも行きません。神様、あなたの前にこうして座っています」ということを表わしています。目を閉じるのは「他に会いたい人がいても、今は、神さま、あなたに会うために、あなたの御顔を仰ぎ見るために目を閉じています」と言うためです。手を合わせるのは、「しなければならないことが山ほどありますが、私は、今、それを止め、あなたに寄り頼んでいます。あなたの御手を動かしてください」と願うためです。礼拝も同じです。いったん日常から離れ、神の家に集い、神を仰ぎ見るのです。しかし、そうしたことは、決して日常生活を妨げるもの、時間を無駄にするものではありません。日常から離れることによって、日常がもっと豊かになり、日常の働きを休むことによって、日々の働きのための力が与えられるのです。祈りは決して日常からの逃避ではありません。それは私たちが神のみこころに従って日常を歩むための力を与えるものです。もし、私たちの日常に何か問題があるとしたら、はたして、祈りや礼拝をあるべきところに置いてきたか、それをどれだけ重んじてきたか、その力を小さく評価してこなかったかを問い直してみると良いでしょう。そして、「真の知識」を願い求める祈りに励みましょう。神はそのような祈りに必ず答えてくださいます。祈る者を満たし、祈りによって導かれる生活に実を結ばせてくださるのです。

 (祈り)

 父なる神さま。私たちは、人々がこの世の知識だけを誇り、あなたを知らないことを恥ずかしいとも思わない時代に生きています。そんな中で、私たちも、あなたを知ることに対する飢え渇きをなくしかけているかもしれません。聖書に「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです」(コリント第一8:2)とあります。私たちの高慢や怠慢が、あなたを知り、それによって生活が変えられていく祝福のサイクルを妨げているのかもしれません。あなたはご存じです。私たちを取扱い、あなたを知ることが私たちの祈りの第一のものとなりますように。そして、私たちがそれによって霊的に成長し、私たちの日々が約束のように、実を結ぶものとなりますように。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

2/20/2011