信仰・希望・愛

コロサイ1:3-8

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1:3 私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。
1:4 それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです。
1:5 それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。
1:6 この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。
1:7 これはあなたがたが私たちと同じしもべである愛するエパフラスから学んだとおりのものです。彼は私たちに代わって仕えている忠実な、キリストの仕え人であって、
1:8 私たちに、御霊によるあなたがたの愛を知らせてくれました。

 一、パウロとコロサイの人々

 コロサイ人への手紙は、1-2節の挨拶から始まっています。「神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、コロサイにいる聖徒たちで、キリストにある忠実な兄弟たちへ。どうか、私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」

 日本の手紙は「拝啓」で始まり「敬具」で閉じます。本文が終わってから、差出人の名前を下に、受取人の名前を上の方に書きます。相手を高め、自分をへりくだらせるのです。日本の手紙では、最後まで読まないと、誰から誰への手紙か分かりませんが、パウロが手紙を書いた1世紀のローマでは、手紙の最初に差出人と受取人の名前を書くのが普通でした。ここでも「パウロからコロサイにいる聖徒たち、忠実な兄弟たちへ」とありますが、この形式は「〝わたし〟から〝あなた〟へ」と、差出人の受取人への愛情を表現しているのです。

 パウロはエペソという大きな町で伝道し、そこで毎日福音を宣べ伝え、聖書を教えていました(使徒19:9-10)。人々がエペソに来てパウロから学び、それぞれ、自分の町に帰って、そこで福音を宣べ伝えるようになりました。エペソから内陸に150マイルほどのところにコロサイの町がありました。今でなら車で3時間もかからずに行けますが、当時は歩いて3〜4日はかかったでしょう。そこからエパフラスという人が来てエペソに滞在し、パウロから聖書を学んでいました。エパフラスは、自分の町、コロサイに帰り、そこで福音を伝えました。そうして、コロサイの町にも、教会が生まれました。7節に「これはあなたがたが私たちと同じしもべである愛するエパフラスから学んだとおりのものです」とあるのは、そのことを言っています。

 パウロは、このコロサイの人たちを「兄弟たち」と呼んでいます。パウロは、エパフラスは知っていても、エパフラスの伝道によってクリスチャンになった人たちとは顔を合わせていないのです。そうなのに、まるで子どものころから一緒に育ってきた兄弟姉妹のように、親しみを込めて「兄弟たち」と呼んでいます。それは、神の御子であるイエス・キリストを信じる者が父なる神の子どもとされ、お互いが兄弟姉妹になるからです。お一人の父なる神のもとに、一つの神の家族とされている。国境を超え、人種や民族を超え、また、時代さえも超えてです。「キリストにあって一つ」となるところ、それが「教会」なのです。今日、「分断」という言葉がやたらと使われるようになりましたが、「分断」が癒やされるのは、「キリストにあって」です。キリストにあって、聖霊による真実な愛に導かれることによってだと信じています。

 二、パウロの感謝

 さて、パウロがコロサイの人々のことを聞いて、最初に口にしたのは「感謝」という言葉でした。3節に「私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています」とある通りです。

 私たちが神にささげる祈りには「賛美」、「感謝」、「悔い改め」、「願い」、「とりなし」が含まれます。神の素晴らしさをあがめる「賛美」、神がくださった恵みや祝福への「感謝」、神を悲しませるようなことをしてしまったことへの「悔い改め」、神にかなえていただきたい「願い」、他の人の幸いを祈る「とりなし」。祈りには、そうした要素がありますが、その中で、忘れていけないのは「感謝」です。

 パウロは、ローマで囚われの身となってた自分をエパフラスが訪ねてくれたことを感謝しています。けれども、それはエパフラスひとりでできたことではありません。コロサイからエペソまで出て、エペソから船に乗り、ローマに向かうのは生涯のうちに一度あるかないかの「大旅行」でした。大変な時間も、費用もかかったことでしょう。それをサポートしたのはコロサイのクリスチャンたちでした。自分たちの指導者が長い間コロサイを留守にするのは、人々にとって大きな痛手でしたが、コロサイの人々は、そうした犠牲をも惜しまなかったのです。パウロはそのことを感謝して、コロサイの人々に宛ててこの手紙を書きました。

 人から受けた親切を感謝で返す。それはとても麗しいことです。それによって人の心は豊かになります。家族や親しい間がらでは、「してもらってあたりまえ」という気持ちになることもありますが、いつも、お互いに「ありがとう」と言いあって過ごすことができたら、お互いの関係はどんなに良くなることでしょう。それは自分にも相手にも祝福を与えます。

 パウロはコロサイ3:15-17で、こう言っています。「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、《感謝》の心を持つ人になりなさい。キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、《感謝》にあふれて心から神に向かって歌いなさい。あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に《感謝》しなさい。」1節ごとに「感謝」という言葉が出てきます。パウロがこうしたことを書くことができたのは、パウロ自身が「感謝の心を持つ人」だったからでしょう。

 私たちは、自分が不平や不満を持っていると感じるとき、「感謝しなければ…」と思いなおして、感謝しようと努力します。努力は良いものです。もし、神を信じ、キリストに従うということが、「私はこうすべきなのだ」と自分に圧力をかけることだけであるなら、信仰生活から喜びがなくなります。「こんな時はこうしなければならない」ということに従うだけなら、それは「行動主義」(Doing)の世界で生きることになります。それが極端になると、「こうしなければならない」ということが「律法」になり、「感謝する」という良いことが、それができない自分を責める重苦しいものになってしまいます。しかし、聖書が教えるのは、「感謝の心を持つ人になる」(Being)ことを教えています。「感謝の心を持つ人」になれば、おのずと感謝が捧げられるようになります。キリストによって私たちの存在(Being)が変えられ、変えられた存在(Being)から行動(Doing)が生まれて来るのです。これが信仰の歩み、本当の感謝への道です。

 三、信仰・希望・愛

 パウロが感謝したのは、コロサイの人々が、自分のためにエパフラスを送ってくれたことでしたが、それと同時に、コロサイの人々に与えられた神の恵みを感謝しています。その恵みとは、「信仰」と「希望」と「愛」です。4-5節にこうあります。「それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの《信仰》と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている《愛》のことを聞いたからです。それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある《望み》に基づくものです。」同じような言葉は、テサロニケのクリスチャンに宛てられた手紙の中にもあります。「私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの《信仰》の働き、《愛》の労苦、主イエス・キリストへの《望み》の忍耐を思い起こしています。」(テサロニケ第一1:1-2)コロサイのクリスチャンにも、テサロニケのクリスチャンにも「信仰・希望・愛」の恵みが与えられていました。それはすべてのクリスチャンに共通したもの、クリスチャンの「ブランド・マーク」です。

 「信仰」と「希望」と「愛」、これは、当たり前のことですが、人間だけに与えられたものです。人間だけが「神のかたち」に造られたからです。「神のかたち」とは神を表すものです。ということは、神が「信仰」と「希望」と「愛」を持っておられるもので、神が人間に分け与えてくださったものであることを教えています。神は「愛」の神です。私たちが神を愛する以前に、まず、神のほうから私たちを愛してくださいました。そして、人間がそれに応えることができるために、人にも「愛」をお与えになったのです。また、神は真実なお方であり、私たちに真実を尽くしてくださいました。言い換えれば、神が人を信じてくださったのです。人が神を信じるのであって、神が人を信じるというのは、逆ではないかと思われますが、そうではありません。聖書では、神の「真実」を表す言葉と、人の「信仰」を表す言葉はく同じ言葉を使います。つまり「信仰」とは、神の神の真実に、人の真実をもって応えることなのです。「希望」についても同じことが言えます。キリストによる救いは、じつは、人がそれを望んだので、神がその願いに応えてお与えになったものではありません。人の救いを「望み」、計画され、実行されたのは神です。人々は、「救いなんかいらない」とうそぶいていたのです。神は、そんな人間が自分に救いが必要なことに気付いて、救いを求めるようになるのを、神は忍耐深く待っていてくださるのです。

 「信仰」も「希望」も「愛」も、神から出て、人に与えられたものです。罪によって「神のかたち」を傷つけ、失ってしまうことによって「信仰・希望・愛」をも失ってしまったのです。神は、イエス・キリストによって、もういちど「神のかたち」を取り戻すことができるようにしてくださいました。パウロがコロサイのクリスチャンの「信仰」と「希望」と「愛」について聞いたとき、それを感謝せずにはおれなかったのは、コロサイの人々がキリストを信じて、救われ、神のかたちを回復し、人が本来もつべき「信仰」と「希望」と「愛」を得たからでした。

 コリント第一13:13に「いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です」とあります。その通りです。地位や名誉、財産は多くの人が求めているものですが、そうしたものは「いつまでも残るもの」ではありません。時が経てば消えていくものです。それは地上だけのもので、天にまで持っていくことはできません。しかし、信仰と希望と愛は永遠です。「信仰の働き」、つまり、信仰をもって行ったこと、「愛の労苦」、つまり、神や人のために払った犠牲、そして「望みの忍耐」、つまり、神からの報いを待ち望んで耐え忍んだことは、すべて、天で報われます。今、私たちは、肉眼でイエス・キリストを見ることはできませんが、神の言葉に導かれ、心にキリストの姿を描き、信じ、従っています。そのような人は、天でイエス・キリストにまみえることができます。この世で愛のゆえに払った犠牲のすべては天で報われます。神ご自身が報いてくださるのです。神の国を待ち望んで生涯を送った人は、その成就を見るようになります。天で、信仰は完成し、愛は報われ、希望は成就するのです。

 私たちは、まず、なによりも、「信仰」と「希望」と「愛」を頂いていることを大いに感謝しましょう。そして、「信仰」と「希望」と「愛」によって、人々に神の真実、忍耐、そして愛を証ししたいと思います。やがて天で、信仰の働き、希望の忍耐、愛の労苦の報いを受け取りたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、私たちに「信仰」と「希望」と「愛」をお与えくださいました。あなたに造られ、「神のかたち」を回復していただいた者として、「信仰」と「希望」と「愛」によってあなたを表すことができますよう助けてください。「信仰・希望・愛」によって、多くの人があなたに感謝をささげることができますよう、助け、導いてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

9/4/2022