キリストにある成長

コロサイ1:24-29

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1:24 ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。
1:25 私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。
1:26 これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。
1:27 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
1:28 私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。
1:29 このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。

 一、成長を目指して

 信仰者には二つのゴールがあります。一つは「キリストを知らせる」ことで、もうひとつは、「キリストのようになる」ことです。「キリストを知らせる」のだと言って、「キリスト、キリスト」と叫んだとしても、もし、語る人がキリストの姿から程遠いとき、果たして、人々はキリストを知ることができるのでしょうか。それはただ騒がしいだけのものにならないでしょうか。コリント第一13:1に「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」とあります。この「愛がないなら」を「キリストのようでなければ」に換えて、「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、〝キリストのようでなければ〟、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」と言うことができるかもしれません。

 しかし、はたして、私たちはキリストのようになることができるのでしょうか。イエス・キリストは神の御子、創造者で、私たちは被造物です。イエス・キリストは聖なるお方で、私たちは罪人です。キリストと私たちとはあまりにもかけ離れていて、なんの接点もないように見えます。

 ところが、神の御子は、人となってこの世界に来てくださいました。創造者が被造物になられた、聖なるお方が、汚れた世界のまっただ中に降りて来られ、神と人との接点が作られたのです。マタイ8章に、イエスが、「らい病」の人に触れて、彼を癒やし、きよめてくださったことが書かれていますが、私は、そこをはじめて読んだとき、とても感動し、「イエスは私のようなものにも触れて、きよめてくださる」ことが分かりました。また、イエスは、復活の後、弟子たちに言われました。「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。」(ヨハネ20:17)イエスを神の御子と信じる者は、「神の子ども」とされ、イエスとともに神を「父」と呼び、また、「神の民」とされるのです。

 神は、キリストを信じる者をキリストに結びつけることによって、人を救ってくださいます。ですから、キリストを信じる者たちは「キリストにある者」、「キリストの者」、「キリスト者」、「クリスチャン」と呼ばれるのです。この「キリストにある者」は、誰も最初は「キリストにある幼子」(コリント第一3:1)なのですが、そのままずっと「幼な子」でいていいはずがありません。神は、「キリストにある幼子」が「キリストにある成人」(コロサイ1:28)へと成長していくことを望んでおられます。

 信仰者が「キリストにある成人」に成長していくことを、エペソ4:13では、キリストと同じ背の高さを目指していくことであると言っています。「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」ルカ2:52に「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された」とあり、そこではイエスの実際の身長のことが書かれていますが、エペソ4:13の「キリストの身たけ」は、イエス・キリストの実際の身長のことではありません。人格の高さのことを言っています。目指すゴールはその「きりストの身たけ」です。

 日本には5月5日にせいくらべをする風習があります。私も、子どものころ、兄とせいくらべをして、いつも負けていました。柱の上のほうにある兄の背丈のしるしまで、早く届きたいと願ったものです。兄の背丈が私のゴールでした。私は中学生ごろから急に身長が伸び出し、そのゴールは達成されたのですが、その後、イエスを信じた私に、神は「キリストの身たけ」というゴールを与えてくださいました。私たちは、どんなにしてもキリストと肩を並べるようにはなれませんが、イエスを目標にして、去年より今年は、たとえ1インチでも、いや4分の1インチ、8分の1インチであっても、成長したいと願っています。

 二、成長のための御言葉

 神のみこころは、私たちが「キリストにある幼子」から「キリストにある成人」へと成長していくことです。赤ちゃんが子どもになり、子どもは若者になり、若者は大人になっていきます。そのように、神の子どもとして生まれた者たちも、赤ちゃんの段階から子どもの段階へ、子どもの段階から若者の段階へ、若者の段階から成人(おとな)の段階へと進んでいくのです。もし、赤ちゃんがいつまでもハイハイしかできずに立てなかったら、泣くばかりで言葉をしゃべれなかったら、ミルクばかりで堅い食べ物を食べることができなかったら、親はどんなに心配なことでしょう。私たちが「イエスを信じて神の子どもになった。これで天国に行けるのだから、このままで大丈夫です」と言って、なんの成長も願わないとしたら、父なる神はどんなに悲しまれることでしょうか。

 神は、神の言葉によって、信仰者に成長を与えてくださいます。人の身体が食べ物から摂り入れる栄養素によって成長していくように、信仰者の内面、霊やたましい、人格は、神の言葉という食べ物によって養われ、それが血となり肉となっていくのです。ペテロ第一2:1に「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」とある通りです。ここに「生まれたばかりの乳飲み子のように…」とあるので、この勧めは、信仰を持ったばかりの人に対するものだと思う人がありますが、それだけではありません。信仰を持って年月が経ち、聖書が「一通り」分かるようになると、「ここは読んだことがある。この話なら知っている」などと言って、神の言葉をさらに深く知ろうとする熱意が小さくなっていくことがあります。この言葉は、そんな人に対しても言われている言葉でもあるのです。信仰を持ったばかりのころ砂が水を吸い込むように御言葉を吸収した、あの初心を忘れないようにしたいと思います。

 また、御言葉を学ぶとき、御言葉の主題がキリストであることを覚えていましょう。キリストに集中して、御言葉を読むのです。キリストを目指して成長することは、キリストを深く知ることによって成し遂げられるのです。コロサイ1:26-27に「これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」とあります。キリストは旧約時代にすでに預言されていましたがキリストは「奥義」であって、隠されていました。旧約聖書を与えられたユダヤの人々は、唯一のまことの生ける神を知ってはいましたが、「キリスト」を知りませんでした。しかし、新約の時代になって、神の奥義である「キリスト」が明らかにされました。ところが、ユダヤの多くの人々は、キリストを受け入れませんでした。それで、キリストは異邦人の間に宣べ伝えられるようになりました。「奥義」というのは、かつては隠されていたが、今は、明らかになったものです。しかし、新約時代の今日も、キリストは自動的に知られるのではなく、依然として「奥義」です。キリストは、「キリストを知りたい」と願い求めない人たちには、今も、隠されているのです。キリストは今も「奥義」です。新約時代の私たちも、キリストを知るためには、そのことを願い求める必要があります。きょうの箇所では、キリストは、「私たちの中におられるお方」、「栄光の望み」であると言われています。私たちは「私たちの中におられるキリスト」を知っているでしょうか。キリストが「栄光の望み」となっているでしょうか。御言葉によって養われること、「キリストを知る」ことには限りがありません。絶えず求め、絶えず成長したいと思います。

 三、成長のための苦闘

 このような信仰者としての成長は、多くの場合、祝福のうちに順調に進みます。聖書を読むことが日々欠かせないものになり、聖書のメッセージを聞くことが楽しく、新しく発見し、体験した真理を互いに語りあうことが、他のどんな会話より喜びとなります。

 しかし、信仰生活はいつも順調とは限りません。大きな試みがやってくるとき、ほんとうは、そんなときこそ、御言葉が必要なのですが、聖書を開くことも、祈ることもできなくなってしまうことがあるかもしれません。聖書は、かならずしも、読めばすぐ分かるというものではありませんから、この言葉とこの言葉は矛盾しているのではないか、このような教えは現代では通用しないのではといった疑問も湧いて来るでしょう。信仰を失くさないようにとあせり、苦しむこともあるでしょう。そのようなときにも、あきらめないで、逃げ出さないで、成長に向かっていくことが大切です。こうしたことは、みな、成長に伴う苦しみ、痛みです。それを乗り越えるとき、大きな祝福が待っています。

 御言葉を学ぶ者にはそのような苦しみがありますが、御言葉を教える者にも苦闘があります。パウロは、きょうの箇所で、御言葉を教える者としての苦しみについて触れています。24節には「あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです」とあり、29節には「このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています」とあります。「パウロの苦しみ」と聞くと、パウロが鞭打たれたり、投獄されたりといった迫害のことを思い浮かべますが、ここでの苦しみは、外部からの苦しみではなく、信者たちを「キリストにある成人」として成長させるための苦しみのことです。28節にあるように、パウロはキリストを「宣べ伝え」、人々を「戒め」、御言葉を「教え」ましたが、そこには苦闘があったのです。パウロほどの人から教えもらっても、少しも信仰に成長しないばかりか、その教えから離れていく人もいました。パウロは、そうした人たちのことを嘆いて、「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」(ガラテヤ4:27)と言っています。

 このパウロの嘆きは、そのまま、神の嘆きです。聖書は、私たちが神のみこころに従わないとき、聖霊が私たちの内にあって悲しまれると教えていますが(エペソ4:30)、私たちが成長をあきらめるとき、それを最も悲しまれるのは、聖霊であると思います。もちろん、聖霊は、私たちのことを嘆き、悲しむだけではなく、私たちを励まし、助け、成長の原動力となってくださいます。イエス・キリストは私たちのゴールですが、同時に、私たちと一緒に信仰の競走を走ってくださるお方、「伴奏者」でもあるのです。私たちの罪のために十字架で苦しみ抜いてくださったイエス・キリストは、私たちの成長のための労苦をよくご存知で、今も、私たちとともにそのような苦しみを苦しんでくださるのです。だから、このお方は「私たちの中におられるキリスト」なのです。キリストから目を離さず、進んでいくとき、私たちはキリストの栄光に与ります。まさにキリストは「栄光の望み」です。この週も、キリストを見上げ、新しい信仰の一歩を踏み出しましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは私たちをあなたの子どもにし、御子イエス・キリストに似た者へと成長させようとしておられます。それは、あなたが私たちを愛して、私たちをご自分のものとなさりたいためです。あなたは、私たちが成長のために奮闘するときも、ともにいて助け、支えてくださいます。あなたの愛を知る私たちは成長のための労苦をいとうことなく、一歩一歩着実に、ゴールを目指していきます。私たちを御言葉によって導き、聖霊によって力づけてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

9/18/2022