1:24 今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。
1:25 わたしは、神の言を告げひろめる務を、あなたがたのために神から与えられているが、そのために教会に奉仕する者になっているのである。
1:26 その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。
1:27 神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。
1:28 わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである。
1:29 わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである。
一、成長のための計画
聖書の真理は、しばしば誤解されることがあります。「救い」という大切なことにおいてさえ誤解があります。その誤解のひとつは、イエス・キリストの救いを、わたしたちが神を求めはじめ、信仰を言い表してバプテスマを受けるところまでに限定してしまうことです。
わたしたちの多くは、いままで神のことを考えたこともなく、聖書を読んだこともありませんでした。けれども聖書を読み、学ぶ機会を与えられ、それによって救い主イエス・キリストに出会いました。イエス・キリストがわたしの罪のために死んでくださったこと、わたしに永遠の命を与えるために復活してくださったことを信じ、バプテスマを受けることによって、その信仰を公けに言い表わしました。わたしたちのバプテスマのとき、神もまた、「あなたの罪は赦された。あなたは神の前に正しい者とみなされた。あなは神の子どもとされた」と宣言してくださったのです。聖書に「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ローマ10:9、10)とある通りです。わたしたちは、このことを「救い」と呼び、「わたしは救われました」と証しします。
イエス・キリストを信じてバプテスマを受ける。それは闇から光へ、死からいのちへ、罪の奴隷から神の子どもへという、180度の大転換です。主イエスは言われました。「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない」(ヨハネ3:5)使徒パウロも教えています。「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである」(テトス3:5、6)と教えているのは、このことです。バプテスマは聖霊による生まれ変わりを表わしています。英語で「生まれる」というのは "be born" で「受け身」です。赤ちゃんは自分の力で生まれてくるのではなく、「産んでもらう」のです。同じように、わたしたちは自分で自分を救うのではなく、「救っていただく」のです。聖書はこれを「再生」("born again")と呼んでいます。母親からこの世に生まれることを「第一の誕生」、聖霊によって神の国に生まれることを「第二の誕生」と言うこともあります。「第一の誕生」では生まれて来る人の意志は働きません。どの時代に、どの国に、どの両親から生まれるかは、だれも自分では決められないのです。「第二の誕生」は違います。「第二の誕生」では、「わたしも生まれ変わりたい。神にはそれがおできになる」という意志や信仰が必要となります。そして、そう信じて願う者に神は働いてくださるのです。「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」(ローマ10:13)とある通りです。
バプテスマはほんとうにうれしいことです。バプテスマを受ける本人や教会にとってうれしいだけでありません。天ではもっと大きな喜びが沸き起こるのです。主イエスはルカ15:10で「よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」と言っておられます。
では、救いはバプテスマで終わるのでしょうか。バプテスマが信仰のゴールなのでしょうか。教会の働きは、人をバプテスマに導くことだけなのでしょうか。キリストは「わたしのすることはここまです。あなたはもう救われたのですから、あとは自分でやりなさい」とおっしゃるのでしょうか。いいえ、そうではありません。わたしたちを救ってくださったイエス・キリストは、救われた者と常に、共にいてくださって、わたしたちを救い続けてくださるのです。そして、やがての日に、わたしたちは天で救い主をこの目で見るという最終的な救いを受けるのです。救いには過去と、現在と、将来の面があります。「すでに救われ、今救われ、やがて救われる」ということです。イエス・キリストを信じ、バプテスマを受けることはとても大切なことで、いくら強調しても、強調しすぎることはありません。しかし、「救い」はバプテスマというポイントで終わるのではありません。むしろ、そこから出発して天に向かっていく長いラインもまた「救い」なのです。バプテスマは「救い」の始まり、信仰のスタートラインです。そこからクリスチャンの成長という「救い」のもうひとつの面が広がっていくのです。イエス・キリストの救いの全体を見ていないと、わたしたちはスタートラインをゴールと取り違えてしまって、いつまでもスタートラインをうろうろするだけになってしまいます。クリスチャンとしての成長がないまま、キリストの救いの半分しか体験できないで終わってしまうのです。
二、成長のための願い
子どもが生まれる。それはうれしいことです。けれども、もし、生まれた子どもがいつまでたっても体重が増えない、ハイハイしたり、歩いたりできない、言葉を話せないとしたら、両親はどんなに心配なことでしょうか。健康に育ったとしても、両親に反抗したり、兄弟をいじめたり、家族のルールを平気で破るようになったら、どんなに心を痛めることでしょうか。同じように、イエス・キリストを信じ、「第二の誕生」をしたクリスチャンに霊的な成長が、しかも、健全な成長がなかったら、それはとても悲しむべきことなのです。
使徒パウロは、コロサイ1:28に「わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである」と言いました。ここで「全き者」と訳されている言葉は、「成人」、「おとな」という意味です。パウロはキリストを知らない人々にイエス・キリストを知らせることだけが自分の使命だとは考えていませんでした。神の子どもとされた人々がおとなのクリスチャンへと成長していくよう、人々を教え導くこともまた自分の使命だと考えていました。パウロは福音を世界に広めるために、迫害、妨害、脅迫、投獄など、あらゆる苦しみを受けましたが、クリスチャンの霊的成長のためにも、それに劣らない内面の苦しみを味わいました。パウロはコロサイ1:21で「キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている」と言っていますが、これは、クリスチャンの霊的成長のため、パウロがどんなに苦闘したかを表わしています。
「全き人」という言葉はエペソ4:13-15にも出てきます。「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。こうして、わたしたちはもはや子供ではないので…」とあって、子どもの状態にとどまっていてはいけないと教えられています。そうではなく、「キリストの満ちみちた徳の高さにまで至る」と言って、そして、クリスチャンの成長のゴールはイエス・キリストです。イエス・キリストが神の子どもたちの中でいちばん上のお兄さんで、弟分であるクリスチャンは、このビッグブラザーを目標に成長するのです。クリスチャンは神の子どもとされたとはいえ、神に造られた者、被造物にすぎません。キリストは神の御子で、創造者です。わたしたちとキリストは本質的に違います。キリストはわたしたちとは桁違いのお方なのに、あえて、わたしたちのビッグブラザーとなり、わたしたちの霊的な成長の目標、また、導き手となってくださっているのです。なんという恵みでしょう。
イエス・キリストの救いは恵みです。わたしたちが神の子どもとされるために、神はすべてを備えていてくださいました。わたしたちが神の子どもとして成長し、おとなのクリスチャンになるためにも、神はすべてをあらかじめ備えていてくださっています。わたしたちに求められているのは、神が備えていてくださるものをよく知り、それを受け取り、用いることなのです。
三、成長のための恵み
今朝は、クリスチャンの成長のために神が与えてくださった恵みのうち、三つのものに心に留めたいと思います。
その第一は「御言葉」です。ペテロ第一1:23-25にこうあります。「あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。『人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る。』これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。」ここでは、この世の栄光は草花のようにはかないが、神のことばは永遠のものであり、人を生まれ変わらせる力があると教えられています。神の言葉はわたしたちの心に植え付けられた「種」だと言われていますが、御言葉の種にはいのちがあり、その永遠のいのちが成長していくのです。世界を「言葉」で創造された神は、わたしたちを神の言葉で再創造してくださるのです。続くペテロ第一2:1-2では「だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである」と教えられています。神の言葉によって神の子どもとされたクリスチャンは、同じ神の言葉によっておとなのクリスチャンへと成長していくのです。
「今生まれたばかりの乳飲み子のように…霊の乳を慕い求めなさい」と言われているのは、クリスチャンになったばかりの人に対してだけでなく、クリスチャンになって年月の経った人に対しても語られている言葉です。クリスチャンになったばかりのころは、すこしでも聖書を知りたいと思って一所懸命聖書を読み、学びます。読むたび、学ぶたびに新しい発見があります。ところが、聖書をひと通り読んで、いろいろな知識が身につくと、以前のようには熱心に聖書を読み、学ばなくなってしまいます。説教を聞くときも、「この箇所の説教は以前聞いたことがある」などと言って、興味を示さなくなってしまうのです。それは良いことではありません。聖書をひととおり学んだなら、それで終わらず、今度はそれを深く学ぶ必要があります。神の言葉にはいくら掘っても掘りつくせない宝が埋められています。それを発見していく喜びを味わってください。聖書を学ぶことと、日常の生活がバラバラにならないよう、聖書の言葉を実行することも忘れないようにしたいと思います。
第二は「祈り」です。神が聖書によってわたしに語りかけておられるのですから、わたしたちにはそれに答える責任があります。神の語りかけに知らんふりしてはなりません。神が聖書によってわたしたちに語りかけ、わたしたちは祈りによって神に返事をする。御言葉と祈りの双方向のまじわりの中で、わたしたちは成長していくのです。「祈り」というと、すぐに「願いごと」になってしまうことが多いのですが、御言葉への応答の祈りをこころがけていくと、祈りによって神とまじわるということが体験として分かるようになってきます。最初は、聞いた聖書の言葉どおり、オウム返しに神に祈ればよいのです。たとえば、先週聞いた御言葉ですが、「わたしはあなたを忘れない」(イザヤ44:21)という言葉を読んだなら、「神さま、わたしはあなたを忘れることがしばしばですのに、あなたはわたしを忘れないと言ってくださいます。なんと素晴らしいことでしょう。ほんとうにありがとうございます。わたしも、あなたを忘れることがないように助けてください」との祈りが出てくるでしょう。そのように祈れば良いのです。どの聖書の箇所が開かれても、同じ祈りしか出てこないわけがありません。祈りの習慣を身につけるのは良いことですが、だからといって習慣的に祈るのではなく、御言葉を心の中でよく反芻し、御言葉に応答する祈りをささげるよう、努めてみてください。
第三は「教会」です。最近は、片親だけのところに生まれてきたり、虐待やニグレクトをする親のもとに生まれてくるなど、不幸な生まれ方をする子どもが多くなりました。子どもには、自分を愛し、守り、支えてくれる家庭が必要なのです。それは、神の子どもとして生まれたクリスチャンにとっても同じです。わたしたちをご自分の子どもとして生んでくださった父なる神は、そのことを一番よくご存知で、神の子どもが成長する場所として教会を備えてくださいました。神は、神の子どもたちを、神の家族、教会の中に生んでくださるのです。バプテスマを受けた人は、教会のメンバーとして迎えられ、そこで育てられていくのです。
宗教改革者たちは「教会とは、神の言葉が神の言葉として語られ聞かれ、聖礼典が正しく守られているところである」と定義しました。教会には、とりわけ礼拝には御言葉があり、御言葉への応答としての祈りがあります。バプテスマと主の晩餐のふたつの礼典が守り行われます。さらに、そこには、クリスチャンの証しがあり、神とのまじわりと共に、他のクリスチャンとのまじわりがあります。礼拝は神の家族としての教会がいちばんよく表わされているところだと思います。家庭で家族みんながそろうのはダイニングルームだと思いますが、礼拝はいわば教会のダイニングルームです。実際、礼拝堂には主の晩餐のテーブルが備えられているではありませんか。神の家族はこのテーブルを囲み、御言葉の糧を受け、パンと杯を受け、詩と賛美と霊の歌をもってまじわるのです。ここでたましいの飢えを満たされ、渇きをいやされ、温められ、励まされ、祝福に生かされるのです。
クリスチャンの成長、それはオプションではありません。それはイエス・キリストの救いの大切な一部です。また、それは若い人のためだけのものではありません。クリスチャンの成長は年齢に関係なく、誰もがあずかることができるものです。高齢の人も、もうこれで良いと落ち着くことをしないで、若い人々といっしょに成長し、若い人たちの良い手本になりたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、あなたはわたしたちをあなたの子どもにし、わたしたちの成長を願って、わたしたちに御言葉と祈りを与え、教会を備えてくださいました。わたしたちが、その恵みに感謝し、教会を通して与えられる御言葉の導きに従い、祈りの訓練に励み、さらなる成長を目指すことができますよう、助けてください。わたしたちの成長の目標である主イエスのお名前で祈ります。
1/11/2015