キリストにある成人

コロサイ1:24-29

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1:24 ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。
1:25 私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。
1:26 これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。
1:27 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
1:28 私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。
1:29 このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。

 一、出発点―あるがままの自分

 NHKラジオに「英語会話」という番組があります。みなさんの中にも、これで英語の勉強をした方が多いと思います。私は、松本亨さんが講師の時にこの番組を聞き始め、松本亨さんから東後勝明さんに講師が変わった頃まで聞いていました。今月の「ゼロ会」で、東後勝明さんの著書が紹介され、それを貸してもらいました。その本によると、東後さんは1972年から13年間、「英語会話」のラジオ番組を担当したとあります。

 東後さんはNHKの講師をやめてから10年後にクリスチャンになりました。そのきっかけは娘の登校拒否にはじまる家庭内の問題でした。東後さんが十七歳のとき、お父さんが亡くなりました。お父さんは死ぬまぎわに、「勝明、おまえ、出世しろよ。」と言い残していきました。東後さんは、その言葉を守り、必死に勉強し、留学もし、大学教授への道を登っていきました。NHKの番組「英語会話」の仕事はとても大変なもので、時間に追われる生活をしていました。そのため、娘が不登校になり、家族の信頼関係が大きく揺らぐようになっていました。家族と口をきくのがおっくうになり、仕事が終わって家に帰ろうとすると足がすくむようになったと、東後さんはその本に書いています。

 そんな時、大学の教授会で報告を読み上げていた東後さんが、急に、極度の貧血で倒れたのです。救急車で近くの病院に運ばれました。どこかの動脈が切れ、血液がおなかの中に貯まっていたのです。すぐに手術ということになったのですが、そのとき、出血が止まり、病室に戻されました。奥さんの教会の牧師が東後さんを病室に訪ねました。牧師は東後さんの枕元で詩篇23篇を読みはじめました。東後さんは、聖書のことばを聞くうちに、今までとは違う生き方があることに気付いたのです。今まで父親のことばに従って、出世のために頑張ってきたのですが、神に信頼して生きるという、人間の頑張りを超えた、信仰の世界があることが分かってきたのです。それは、ちょうど東後さんの56歳の誕生日のことでした。

 それから、東後さんは、奥さんといっしょに教会に行くようになりました。それまでの東後さんの信条は「人より一歩でも前に出る」ことでした。彼は、人一倍の努力家でした。しかし、その努力は、家族であれ、友だちであれ、職場の同僚であれ、常にその中心に自分がいたいという願い、「この世の中すべてが自分中心に回って欲しい」という思いから出たものでした。聖書を学ぶにつれて、東後さんは、自分がいかに自己中心的で、他者に対する配慮を持たない人間であるかが分かってきました。たとえば、家族の誰かが「夏休みぐらい家族でのんびり海にでもいきたかったな!」と言うと、東後さんは、「行ったじゃないか、千葉の海に。俺はどんなに忙しくても、原稿用紙を抱えてでも家族サービスは欠かさなかったはずだ。」と声を荒げてきました。家族にとっては「忙しさにかかわらず連れていってやった」ということが問題であり、ほんとうに家族でうちとけて、リラックスしたかったのですが、そのときの東後さんにはそれが分からなかったのです。

 そのころは、NHKの「英語会話」の仕事は終わっていましたが、NHKの仕事のあとは、そのためにできなかった大学での研究に没頭していたため、家庭を顧みることがありませんでした。家庭が崩壊寸前というところまで来て、東後さんは、研究をとるか、家庭をとるかの決断を迫られました。聖書の光を受けていた東後さんは、家庭を選びました。その決断は神の助けなしはできない決断でした。そして、東後さんは、あの入院から一年後のクリスマスに洗礼を受けました。1995年のことでした。洗礼のあと、信仰を学ぶとともに、クリスチャン・カウンセリングも学びました。東後さんは、大学で学生担当教務主任になり、学生たちの相談にのるようになったのですが、信仰を持ったことと、クリスチャン・カウンセリングを学んだことが用いられ、いままで「怖い先生」だった東後さんが大学でも評判の「優しい先生」に変わっていったのです。もちろん、東後さんの家庭が一変したことは言うまでもありません。

 東後さんが母校の高校に招かれたとき、「ありのままを生きる」というテーマで講演しました。「みんなそれぞれ神さまから尊い命を頂いているのだから、自分らしい人生を生きればいい。ありのままの自分でいい。勉強ができようが、できまいが、歌が上手であろうが、なかろうが、容姿がよかろうが、そうでなかろうが、そんなことは問題ではない。あなたの真の価値、命の重みは変わらない。」と話しました。講演のあと、目を真っ赤に泣きはらした女子生徒がやってきて、東後さんにこう言いました。「私はこれまで十七年間、『そのままでいい』と言われたことは一度もありませんでした。そんなことばを聞いたのは、今日がはじめてでした。いつも『ここが駄目、あそこが駄目』『こうしなければ、ああしなければ』と言われ、本当に自分は駄目な人間と思っていました。」そして、あたりかまわず泣いたそうです。

 神は、あるがままの私たちを愛しておられます。それは、聖書の素晴らしいメッセージで、クリスチャンは、そのことを良く知っています。ビリーグラハムの伝道集会では、かならず「いさおなきわれを」という賛美歌が歌われます。「いさおなき我を 血をもて贖い イエス招き給う み許にわれゆく。」英語では "Just as I am, without one plea, But that Thy blood was shed for me, And that Thou biddest me come to Thee, O Lamb of God, I come, I come!"(あるがままで、何の言い訳もなく、あなたの血が私のために流されたゆえに、あなたが私を「来なさい」と招いておられるゆえに、神の子羊よ、私は行きます。私は行きます。)と歌われています。神の前には、どんなに自分を立派に見せようとしても無駄です。神はあなたの心の奥底まで見抜いておられます。逆に自分を卑しめるのも間違っています。神は、あなたのあるがままを認めおられるのですから。私がダラスでお世話になった教会のモットーは "We love you as you are!" でした。"Just as I am" あるがままのあなたを愛しておられる神に、あるがままで飛び込んでいきませんか。それが、神を信じるということなのです。

 二、目標―キリストにある成人

 「あるがままの自分が神に受け入れられている。」これは聖書の素晴らしいメッセージです。しかし、それが聖書のメッセージのすべてではありません。その続きがあるのです。「あるがままの自分」は信仰の出発点です。聖書は出発点だけでなく、ゴールも示しています。出発点は、ゴールがなければ意味がありません。そのゴールとは、コロサイ1:28の「キリストにある成人」です。「成人」というのは、「おとな」という意味です。イエス・キリストを信じるとき、人は聖霊によって、新しく生まれ変わります。霊的に誕生するのです。東後さんは57歳になって、その誕生を体験しました。生まれたばかりの人はみな赤ん坊です。東後さんのように、大学教授として第一線で活躍していた人であっても、今から13年前には、霊的には赤ん坊だったわけです。東後さんは、その後の教会生活によって、出世街道を突っ走る人から、心から家族を愛する良き夫、父親となり、自己中心的にものごとを動かす人から、学生たちの立場にたって物事を考えることのできる愛される教授に変えられ、キリストの証人として、霊的に成長して行ったのです。

 「あるがままで愛されている」ということは尊い真理ですが、同時に誤解されることもあります。「あるがまま」というのは、救われる前の状態にとどまっていて良いということでは決してありません。「あるがまま」ということが、罪を悔い改めないことの言い訳に使われたとしたら、それは、私たちを「あるがまま」で救ってくださった神をどんなに悲しませることでしょうか。それはまた、私たちが神のこどもとして成長しなくて良いということでもありません。いったいこどもの成長を願わない親がどこにいるでしょうか。私たちの父である神は、神のこどもたちの成長を心待ちにしておられるのです。聖書では、キリストは神の長子であると書かれています。私は、こどものころ、兄と背比べをするたびに、早く兄の背丈に届きたいと思っていました。同じようにキリストによって神のこどもとされたクリスチャンにも、キリストの背丈にまで、成長したいという願いが与えられるのです。

 神は、神のこどもたちが成長して「おとな」になることを願っておられ、神のこどもたちも、それを願っています。神は、教会という神の家族に、使徒たちや、使徒たちの後継者である牧師たちを立ててくださいました。彼らは、クリスチャンひとりびとりが「キリストにある成人」になるために働く人々です。使徒パウロはその働きをすることによって「キリストの苦しみの欠けたところを満たしている。」(コロサイ1:24)と言っています。このことばの意味は深く、今は詳しくお話しできませんが、キリストは、私たちが救われるためだけでなく、私たちが成長するためにも苦しまれたということだけは、知っていていただきたいと思います。神も、キリストも、そして聖霊も、私たちの成長を心から願い、そのために、私たちの人生に、生活に、また内面に働き続けておられるのです。もし、私たちがあるがままで神の前に出るという出発点は持っていても、神のこどもとして成長していくというゴールを見失っているとしたら、それは、どんなにか神を悲しませることになるでしょうか。

 成長を願わないクリスチャンは誰もありません。しかし、霊的な成長は、すぐに目に見えて現れるものではありませんので、「自分はなかなか成長しない。」「私はダメ・クリスチャンだ。」などと言って失望している人もいるかもしれません。それは、「私は十分成長している。誰からも、何も教えられる必要はない。」と言うよりも、ずっと良いことだと思いますが、「失望」は信仰の敵ですから、そうした失望を乗り越えて、成長を目指していきましょう。そうでないと、ますます自分を傷つけ、神の栄光を傷つけることになります。

 では、どのようにして、クリスチャンとして成長していけば良いのでしょうか。第一に、「成長させるのは神である」ということを覚えましょう。コリント第一3:6に「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」とあります。クリスチャンとしての成長を目指すことは、一所懸命背伸びをすることでも、他の人と競争することでもありません。なんの努力もいらないというのではありませんが、人間の努力だけでできるものではありません。成長の原動力は、人間の努力にあるのでなく、神が与えてくださった命にあります。命のないものは、どんなに努力しても成長しません。しかし、命があれば、かならず成長します。罪を悔い改め、イエス・キリストを信じ、新しい命を受けた者は、かならず成長します。しかし、造花に水をやっても決して成長しないように、神からの命がなければ成長することはありません。私たちは信じています。神が、クリスチャンに成長を命じておられるなら、かならず、それに必要なものを与えてくださるということを。神のこどもの成長を願っておられる愛の父が、私たちの成長に必要なものをくださらないはずがないのです。成長を願っておられる神にたいして、私たちも「私を成長させてください。」と願い求めましょう。そして、私たちを成長へと導いてくださる神に信頼しましょう。

 第二に、「神はみことばによって私たちを成長させてくださる」ことを心に留めましょう。私たちの肉体の命が、毎日ものを食べることによって支えられているように、霊の命も、霊の食べ物によって支えられ養われます。その霊の食べ物とは、「神のことば」です。ペテロ第一1:23-25にこうあります。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」ここでは、神のことば、つまり、聖書と説教が、人を生まれ変わらせると教えられています。それで、続く2:1ー2は「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」と言って、神のことばによって命を与えられたクリスチャンは、神のことばによってその命を育てなさいと教えているのです。神のことばによって与えられた命は、神のことばによってしか成長していくことができないのです。親は赤ちゃんがミルクを勢いよく飲んでくれると安心しますが、少ししかミルクを飲まず、体重が増えないと心配します。私たちは赤ちゃんが、おなかがすいたと言って泣いてミルクをほしがるように神のことばを求めているでしょうか。それとも、すこしも神のことばを求めずに、神に心配をかけているでしょうか。

 第三は、「従順なこどもになること」です。こどものいちばんの特徴は「素直であること」「従順であること」です。現代のこどもは、それすらも失いかけていますが、それは、大人が悪いからで、こどもは本来は素直で、従順です。こども罪がないわけではありませんが、こどもは大人のようにそれをごまかしません。私の友人が「こどもは純粋な罪人だ。」と言いましたが、その通りですね。ところが、大人になると、自分の意見を主張し、素直に人の言うことも、神が語ることも聞けなくなってしまいます。その意見が深い神とのまじわりの中から生まれてきたものであれば良いのでしょうが、たいていの場合、テレビで見た、新聞や雑誌で読んだ、あるいはまわりの人から聞いたことを鵜呑みにしてしまい、一方的で、浅い、断片的な知識でしかないのに、その「知識」をふりまわすということがあります。たんなる「好み」を、論理的な「意見」と取り違える場合もありますので、注意しなければなりません。現代、私たちは、テレビ、新聞、雑誌、インターネットなどから様々な「声」を聞いています。騒がしくてたまらないほどです。しかし、肝心の神の声を聞き逃していないでしょうか。また、神の声を耳で「聞く」だけで終わっていないでしょうか。主の母マリヤが「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)と、従順な心で「聴く」者でありたいと思います。ペテロ第一1:13-15は、「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。」と教えています。

 このようにクリスチャンとして成長していくこと、それが、『五つの目的』の第三の目的、「弟子訓練」なのです。「弟子訓練」というと、何かいやなことを無理にやることのように思われがちですが、決してそうではありません。本当の訓練とは、神の愛の中で、神のことばに養われ、「キリストにある成人」として成長を目指すことなのです。今日は、三位一体後第一主日で、教会の典礼色が緑に変わり、私のストールも緑になりました。緑は、「成長」を表わします。アドベントまで、半年の間「緑」の期間、「成長」の期間が続きます。この期間、成長させてくださるのは神であることを忘れず、私たちを成長させる神のことばを慕い求め、神のみこころに従順に従い、「キリストにある成人」として成長させていただきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちは、こどものころから「こうでなければいけない。」「あんなふうでなければいけない。」という「要求」や「期待」の中で育ってきました。自分ではそうしたものを嫌いながらも、他の人には平気で「要求」や「期待」を押しつけるという矛盾したことをしてきました。あなたが私たちの成長を望んでおられることを、まるで「厳しい要求」や「押しつけ」のように考え、自分自身の内面の成長から目をそらせてきました。しかし、あなたが私たちの成長を願われるのは、あなたの愛から出たことであり、その愛に答えることの中に私たちの成長があることを、今朝学びました。私たちを「あるがまま」で受け入れてくださったあなたの大きな愛に信頼します。私たちを従順なこどもとし、あなたの愛の中に成長させてください。主イエスのお名前で祈ります。

5/25/2008