1:23 ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。
1:24 ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。
一、苦しみと信仰
2011年3月11日、大きな地震が東日本を襲い、大津波が東北地方の海岸沿いの町を呑みつくしました。一万人以上の人命が一瞬にして失われました。原子力発電所がダメージを受けました。放射能漏れが起こったため、発電所周辺に住む人たちは不便な避難所生活を強いられています。ふるさとを捨てて、他の県に移り住んだりしています。嘆き、悲しみ、不安、怒り、失望が日本列島を覆っています。私たちもそういうことを見聞きするたびに心が痛みます。日本に家族、親族を残してアメリカに来ている者ばかりでなく、家族や親族を日本に送り出している人々たちもどんなに心配なことでしょうか。
こうした災害が起こるたびに、「神がいるなら、なぜこんなひどいことが起こるのか。」「神が愛なら、なぜ人間が苦しむのを黙って見ているのか。」「神が全能なら、なぜ災害を食い止めないのか」などという声を聞きます。その気持ちが分からないわけではありませんが、私たちは、この世界が、もはや神の定めた秩序の中にはなく、混乱の中にあるということを忘れてはならないと思います。人間の作り出した社会、国家には、完全なものはどこにもありません。戦争、内乱、不正、差別、圧迫はどこにでも見られます。人類は愛と正義において進歩してきたかと思えばまた逆戻りしています。なるほど、科学技術は進歩し、便利になりました。しかし、その便利さが人間の精神を蝕み、私たちはストレスいっぱいの生活をしています。物質的には豊かになりました。けれども、かつて見られた、人の心の豊かさ、温かさが失われてきているように思います。
傷つき、苦しんでいるのは、自然界も同じです。歴史の中で火山の噴火、地震、洪水、嵐、旱魃、飢饉などが起こらなかった時代はありませんでした。人類はいつの時代も、自然の災害に、国と国との争いに、社会の不正に、家族の問題に、そして自分自身の内面にある罪に苦しんできました。神は、そうした人々の苦しみを知っていてくださり、その苦しみから人々を救おうと、常に手を差し伸べてくださいました。
旧約時代、ご自分の民として選んだイスラエルが、神から離れ、苦しみに陥ったとき、神は彼らに手を差し伸べられました。「わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。」(イザヤ65:2)とあるとおりです。なのに、イスラエルは神に逆らい続け、その呼びかけに耳をふさいだのです。イスラエルがアッシリヤやバビロンに滅ぼされたとき、外国の人々は、イスラエルの神には自分の民を救う力がなかったのだと物笑いにし、イスラエルの人々は神の愛を疑いました。しかし、そうしたことが起こったのは神にイスラエルを救う力が無かったからでも、神がイスラエルを救おうとしなかったからでもありませんでした。神がイエスラエルを呼んだのにイスラエルはそれに答えず、神がイスラエルに手を差し伸ばしたのに、イスラエルは、その手を振り払ったのです。「なぜ、わたしが来たとき、だれもおらず、わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか。わたしの手が短くて贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないと言うのか。」(イザヤ50:2)神の手が人を救います。神は人を救うためにさまざまな仕方でその手を差し伸ばしていてくださいます。私たちが神に向かって信仰の手を差し出すなら、神がその手を握りしめて救ってくださるのです。
もし、私たちがそうした神の呼びかけ、さし出された神の手に気付かなかったり、それを無視してきたとしても、まだ遅くはありません。それに気付いたなら、その時点で神に助けを呼び求めれば良いのです。神に助けを求めるのに遅すぎることはありません。神は言われます。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇50:15)ふだんまじめに神を信仰していないのに、苦しみにあって、はじめて紙に祈り始める。人はそれを軽蔑して「苦しい時の神頼み」と言うのでしょうが、神は「苦しい時の神頼み」を軽蔑なさいません。むしろ、「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい」(ヤコブ5:13)と言って、「苦しい時の神頼み」を奨励しておられます。「苦しみ」は人を痛めつけるだけのものではありません。そこから祈りが生まれ、信仰が芽生えます。「苦しみ」はいやしの第一歩になるのです。そこから始まった信仰を大切に育て、祈りを続けていけば良いのです。そうするなら、自分の受けたあの「苦しみ」が実は神からの愛の呼びかけであったということが後になって分かるようになります。どんな形であれ、神の呼びかけに答える者、「主の名を呼ぶ者はすべて救われる」(ローマ10:13)のです。
二、苦しみと神
「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」詩篇126:5のみことばです。信仰者たちは、神にあっては苦しみが喜びに変わることを知っています。しかし、その苦しみがあまりに大きく深いと、「苦しみを通して悔い改めに導かれますように」といったことを聞くと自分が責められているように感じてしまいます。また、「他の人は私と同じ苦しみを体験していないから、何とでも言えるのだ」などと、人からの慰めや励ましを素直に受け取れなくなってしまうこともあります。「私の苦しみは神にさえ分からない」と思ってしまうことがあるかも知れません。
しかし、本当に、神に分からない苦しみといったものがあるのでしょうか。いいえ、ありません。神は、人間の苦しみを高いところから眺めておられるだけのお方ではなく、人間とともに苦しんでくださるお方だからです。イスラエルはかつてエジプトで奴隷であり、さまざまな苦しみを通って、やっと自分たちの国を作りあげていきました。しかし、まわりの大きな国にいつも苦しめられました。神はそんなイスラエルの苦しみを見て知っておられただけでなく、彼らの苦しみ、痛みをご自分のものとして感じ取っていてくださいました。イザヤ63:9に「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」とある通りです。神は、人間の痛みや苦しみを超えたところにおられて、それが分からないというのではありません。聖書は、いと高い天におられる神は地上にいる人間の思いを知ってくださり、痛みや苦しみ、悲しみさえも感じ取ってくださるお方、いや人間とともに苦しんでくださるお方であると教えています。
私たちと共に苦しんでくださる神、このお方を、私たちはイエス・キリストに見ることができます。神の御子は人となって、人が味わうすべての苦しみ、痛み、悲しみを味わってくださいました。イエスは生まれる前からも、また、生まれてすぐ後にも死の危険にさらされました。貧しい大工の子として育ち、ヨセフが亡くなったあとにはその手で一家の生計を立てるため、懸命に働きました。父なる神のみこころにしたがって宣教を始めると、たちまち反対が起こりました。故郷の人たちに追放され、会堂で教えることができず、野宿をしながら野外で説教を続けました。多くの弟子たちが去り、残った十二弟子でさえ、ひとりはイエスを裏切り、他の弟子たちはイエスを見捨てました。理不尽な裁判によって有罪とされ、十字架に引き渡されたのです。
十字架は歴史上最も残酷な処刑です。それは人を時間をかけて、じわじわと殺していくもので、肉体の苦しみはもちろん、精神的にもこれ以上のものがないほどに人を苦しめます。十字架にかけられた罪人の中にはその苦しみのために発狂する者も多かったそうです。受難劇や映画で俳優が十字架にかかる場面があります。わずかな時間の演技でも、ものすごく大きな苦痛を感じるのだそうです。肉体的、精神的苦痛に加えて、イエスにとって最も大きな苦しみは「神から見捨てられる」ことにありました。イエスはあの十字架の上で人類の罪を背負い、その罪のために神の裁きを受けたのです。それまで神を「父」と呼び、神との交わりの中にあった神の御子が、罪びととなって、神から見捨てられる、その苦しみをイエスは味わったのです。神から見放された世界、それを、聖書は「地獄」と呼んでいますが、イエスは十字架の上で、まさに地獄の苦しみを味わったのです。
このイエス・キリストが、私たちの苦しみを知らないはずはありません。コリント第一10:13に「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」とあります。苦しむ者にとっての慰めのことばです。このことばの中に「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません」とありますが、この「人」とは、イエスのことであると考えてよいでしょう。イエスの知らない試練、苦しみはありません。神が人となられ、人とともに苦しみ、それによって、人を苦しみから救ってくださる。ここにこそ、私たちの救いがあり、慰めがあります。人はなぜ苦しむのか。神はなぜ人が苦しむのを許しておられるのか。聖書はそれに対して理論で答えようとはしていません。理論だけで人の心は慰められず、励まされることもないからです。神は「苦しみ」の問題に対して、理論ではなく「解決」を示してくださいました。イエス・キリストが十字架で私たちのために苦しみ、その復活によって私たちを苦しみから救ってくださるのです。
三、キリストのための苦しみ
キリストは私たちのために苦しんでくださいました。そこに「苦しみの問題」への回答があるのですが、聖書は同時に、キリストを信じる者たちに、キリストのために苦しむことも教えています。コロサイ1:24に「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです」とあります。「あなたがたのために受ける苦しみ」というのは、パウロが福音を宣べ伝えたために牢につながれていることや、人々が正しい信仰を保つために、間違った教えと戦い、人々を教え続けていく労苦のことを言っているのでしょう。パウロは、正しい信仰から離れてしまったガラテヤのクリスチャンのために「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」(ガラテヤ4:27)と言っていますが、人々が霊的に成長するため、また、そうした人々によって教会がキリストのからだとして成長していくためには大きな苦しみが伴うのです。
パウロが教会のために苦しんだ苦しみは同時に、キリストの苦しみでもありました。パウロがまだ「サウロ」という名前で、教会を迫害する者だったとき、キリストはサウロに現われて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」(使徒9:4)と言われました。サウロが迫害していたのは「教会」でした。しかし、キリストは「なぜ教会を迫害するのか」とは言わず、「なぜわたしを迫害するのか」と言われました。キリストの「からだ」である教会を迫害することは、教会の「かしら」であるキリストを迫害することと同じだからです。キリストは教会をご自分と同一視するほどまでに、教会を愛され、教会の苦しみをご自分の苦しみとしてくださっているのです。
パウロが「キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」と言ったのは、キリストの十字架での苦しみが不十分であったという意味ではありません。キリストの十字架の苦しみは、あらゆる人を救ってあまりあるものです。私たちの罪の負債はイエス・キリストの十字架によってすべて支払われました。キリストの十字架の苦しみに何かをつけ加える必要はないのです。しかし、キリストを信じる者は、キリストを苦しませるだけで、自分たちは安楽椅子に寝そべっていることはできません。キリストの苦しみが自分の罪のためであったことを知っている者は、キリストが今も、この世のために心を痛め、教会の苦しみをご自分の苦しみとしてくださっているのを黙って見ていることができないのです。主イエスといっしょに苦しみ、悲しみを共にしたいのです。主イエスは日々にそのお心に私たちの痛み、苦しみ、悲しみを加え続けておられます。その一部でも自分のものにしたいというのが、「キリストの苦しみの欠けたところを満たしたい」という願いなのです。
使徒パウロは、「キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したい」(ピリピ3:10-11)と願いました。それは、とても高い、神秘的とも言える信仰の境地です。誰もが、一気にそういうところまで行くことができないでしょうが、イエスが自分のために苦しんでくださったことを深く思い見て、イエスの苦しみの神秘を少しでも理解したいと思います。日本の震災で不安の中にいる人たち、アフリカで十分な食べるものもなくやせ衰えていく人たち、アジアで親に見捨てられ、物乞いと盗みをして生きているこどもたち、そうした人たちの苦しみを、たんなる人間的な同情からではなく、イエス・キリストの苦しみを通して理解していきたいと思います。マザー・テレサが苦しむ人々の姿の中にキリストを見、キリストの姿の中に苦しむ人々を見たようにです。
そして、自分にとって「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」ことがどんなことかを考えてみましょう。自分に欠けたところがあることを認め、霊的に満たされることを求めることは良いことです。それはかならず満たされます。そして、そこからキリストの苦しみの欠けたところを満たそうとする思いと力とが生まれてきます。しかし、自分の願い、自分の計画、自分の好み、自分の気分だけが満たされることをだけを求めるなら、そこには、キリストの苦しみの欠けたところを満たすという喜びは生まれてきません。
キリストの苦しみの欠けたところとは、具体的には、教会に欠けているもの、また教会が必要としているものかもしれません。私たちには何が欠け、私たちは何を必要としているでしょうか。多くは霊的な、内面のものでしょう。もしそれが祈りであるなら、信仰を持ち、忍耐を尽くして祈ることによって欠けを満たしたいと思います。それがみことばであるなら、ひとりびとりがキリストのことばを豊かに住まわせるために、何ができるかを考えて実行したいと思います。世の中は就職難ですが、神の国はいつも求人難です。教会の奉仕にはいつも人が足りません。今、理事が二名足りません。もうすぐ四人の執事が任期を迎え、執事が足りなくなります。この欠けが満たされるように、キリストと苦しみを共にしていきましょう。ある教会で奉仕する機会がありましたが、バスルームにみことばの入った置物が飾られ一輪挿しが置かれていました。どなたかがそっとしてくれているとのことでした。身近なところで「これがあったらいいな」と気付いたら、そのことから「欠けたところを満たす」ことを始めていきましょう。
このレントの期間、イエスの十字架への足跡をたどり、その「苦しみ」にあずかることがどんなことなのかを少しでも体験していきましょう。そして、その体験をもって、私たちにできる一歩を踏み出していきましょう。
(祈り)
父なる神さま、聖書に「被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている」(ローマ8:22)とあります。今、まさに、そのうめきが誰の耳にも聞こえるほど大きなものとなりました。あなたはそのうめきに決して耳を塞ぐことのないお方です。あなたの御霊はうめき苦しむ人と共にうめいておられます(ローマ8:26)。日本の多くの人々が苦しみ、世界中の心ある人々がその苦しみを共にしているこの時に、イエス・キリストの苦しみの意味をさらに深く教えてください。レントのこの時、キリストの苦しみにあずかることがどんなことなのかを、聖霊によって教え、体験させてください。主イエスのお名前で祈ります。
3/20/2011