1:19 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、
1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
1:21 あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、
1:22 今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。
KFAX というクリスチャンの放送局が、毎年、ベイエリアの牧師たちのために朝祷会(Prayer Breakfast)を開いてくれています。昨年は出席できませんでしたので、誰が司会をしたのか分かりませんが、それまでは KFAX 総支配人の Ron Walters さんが司会を勤めていました。2008年と2009年に、彼は、開会の祈りの前に、コロサイ1:13-18を暗記して唱えました。
天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。彼がこう宣言すると、会場から大きな拍手がわき起こりました。その拍手は、万物の主であり、教会のかしらであるキリストをあがめる拍手でした。そこに集まった牧師たちは、このみことばに励まされて、あらゆるものの主であるお方が教会のかしらとなって、教会を守っていてくださることを感謝し、すべてにまさる最高のお方にお仕えすることができることを共に喜びあいました。
一、和解の必要
このように、コロサイ人への手紙はイエス・キリストの素晴らしさをほめたたえていますが、イエス・キリストの素晴らしさは、イエスが神の御子、最高のお方、第一のお方であるということだけではありません。この神の御子が人となられた。すべてのものの造り主が、造られた者となってくださった。最高のお方が貧しく、低くなってくださった。第一のお方が、しもべとなってくださったことにあります。22節に「御子の肉のからだにおいて」とあるように、神の御子は人となられました。そして、20節に「その十字架の血によって」とあるように、そのからだから血を流し、その命を投げ出してくださいました。もし、イエス・キリストが人となってくださらなければ、また、十字架の上で血を流して死んでくださらなければ、イエス・キリストがどんなに素晴らしいお方であったとしても、私たちは、イエス・キリストとは何の関係もありません。いや、関係がないどころか、私たちは、神の敵として神の裁きを受けて終わる者だったのです。エペソ人への手紙に次のようにある通りです。
あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ2:1-3)
人は生まれながらの罪人であり、神の敵であり、御怒りを受けるべき子らであるというのは、多くの人には受け入れにくい教えです。それよりも、人はみな善い性質を持って生まれて来る。人はみな神の子であり、誰もが愛されるために生まれたのだという教えのほうが、人気があります。
たしかに、アブラハムは「神の友」と呼ばれ、イエスも弟子たちを「友」と呼びました。また、神が、生まれる前から人々を愛してくださったことも書かれています。しかし、それは、人に罪がないとか、人は神に当然愛される資格があるということではありません。アブラハムが「神の友」と呼ばれたのは、アブラハムが何の落ち度もなく、ずば抜けて優れていたからではありませんでした。アブラハムも多くの罪を犯し、不信仰になり、失敗を重ねています。けれども、アブラハムは、そのつど悔い改め、神に信頼し、神との友情を保ちました。アブラハムと同じように、神に愛されたダビデも、自分は神に愛されて当然だなどとは、一度たりとも言ってはいません。むしろ、羊飼いの少年をイスラエルの王としてくださった神のあわれみを、王になってから犯した大きな罪をも赦し、その王位を保ってくださった神の恵みを、いつもほめたたえていました。「あわれみ」とは傷つき、苦しむ者に対する神の愛、「恵み」とはそれを受ける値打ちのない者に対する神の愛と言ってよいでしょう。聖書で神の友と呼ばれた人たち、神に愛された人たちは、自分たちの受けた愛が、あわれみの愛、恵みの愛であることを良く知っていました。
パウロも、同じように神のあわれみと恵みを知っていた人でした。パウロはコロサイのクリスチャンに「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあった」と書きましたが、そう書いたとき、「私もそうでした。私はもっとキリストに敵対していました」と言いたかったのだろうと思います。ご承知のように、パウロはもと、キリストに敵対し、教会を迫害した人でした。クリスチャンを捕まえては牢に入れていました。パウロは、使徒になって、キリストのために大きな働きをした後も、自分がキリストの敵であったことを忘れないでいました。
そうしたパウロについて、「パウロのようにいつまでも過去にとらわれているのは良くない。もっと積極的な物の考え方をしなければならない」と批評する心理学者たちもいますが、その批評は的を得ていません。パウロは自分の過去にとらわれていたのではなく、罪を赦し、和解を与えてくださった、神の大きなあわれみ、恵みをほめたたえるために、自分の過去を覚えていたのです。自分の過去を見つめることは、決して消極的、後ろ向きなことでも、マイナスなことでもありません。それをごまかさず、それに向き合うことによって神の恵みを覚えることができるからです。あるテレビドラマで「マイナスとマイナスを掛けたらプラスになる」というせりふがありました。自分の罪の大きさを認めたからこそ、パウロはより大きな神の恵みを受けることができ、他のどの使徒よりも大きな働きをすることができたのです。
私たちも、聖書が教えるように、素直に神との和解が必要なことを認めましょう。それができたらなら、それからあとの和解のプロセスを心配することはありません。それはすべて神のほうで準備済みです。
二、和解の手段
ほんらい「和解」というものは、損害を与えた人のほうから損害を受けた人に対して「ごめんなさい」とお詫びをし、償いをし、赦しを請い、仲直りを願い出るものです。それが人に対するものや社会に対するものであったとしても、すべての罪は、最終的には神に対して犯すものです。罪は人を傷つけ、社会を傷つけ、罪を犯しているその人自身を傷つけるばかりでなく、神の栄光や栄誉を傷つけるものです。ほんとうは、人間の側から神に和解を申し出て当然なのですが、残念ながら、人間はそれほど素直ではありませんでした。自分がこんなひどい目にあったのは両親が悪いから、教師が悪いから、上司が悪いから、夫が、妻が悪いからなどと、まわりの人のせいにしたり、ひいては、神のせいにまでしてしまう、それが人間の罪深さであるように思います。
しかし、神は、そんな頑固な人間に対しても、ご自分のほうから和解の手を差しのばしてくださいました。アダムが罪を犯して、神の目から隠れようとしたとき、神はアダムに「あなたはどこにいるのか」(創世記3:9)と呼びかけられました。ご自分の民として選んだイスラエルが、神から離れて行ったときも、神はイスラエルに「背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう」(エレミヤ書3:22)と語りかけてくださいました。イスラエルは自分からまことの神を捨て、偶像の神々を礼拝し、それに従いました。そしてその結果、様々な災いにあいました。いわば自業自得、自ら蒔いたものを刈り取っているのですが、それでも、神はイスラエルが苦しむときには、心を痛め、イスラエルと共に苦しみ、イエスラエルをあわれみ、イスラエルに手を差しのべ続けてこられました。
そして、最後に神は、ご自分の御子を世に遣わしてくださいました。キリストは罪ある人間が聖なる神と和解することができるために、ご自分のいのちを私たちの犯した罪の償いとし、私たちが神に対して支払わなければならないもののすべてを支払ってくださったのです。22節に
神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。とある通りです。
今日の裁判では、和解のために多額の「和解金」を用意しなければならないことがあります。もし、神が人に和解のための支払いを要求されるとしたら、いったい誰がそれを支払うことができるでしょうか。私たちが神に与えた損害は計りしれないものであり、それは私たちの何によっても償うことができないからです。それができるのはただひとり、イエス・キリストのみです。そして、イエスはそれを十字架の上で成し遂げてくださいました。和解のためのすべての道筋は、神が備え、キリストが成し遂げてくださったのです。私たちはただそれを受け取るだけです。神との和解を受け入れ、和解の実である神との平和、神からの平安を、信仰によって受け取るだけなのです。
三、和解の範囲
では、神が御子によって和解させてくださったのは、人間だけでしょうか。いいえ、20節の後半に「御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです」とあるように、神は「万物」をも、キリストにあって和解させてくださったと教えられています。
このことは、キリストを信じる人も、信じない人も、自動的に罪赦され、神と和解しているということを言っているわけではありません。聖書は、罪の赦しと和解を受けるためには、人間の側の悔い改めと信仰が必要だと教えています。聖書は「万人」が救われるというのでなく、「万物」が救われると言っています。ここは、人間以外の被造物のことを言っています。万物が、「御子によって造られ、御子のために造られ…御子にあって成り立ってる」のなら、万物はまた、「御子によって和解させられる」はずだからです。
近年、「エコロジー」という言葉が頻繁に使われ、誰もが地球環境のことを考えるようになりました。人間が救われるだけでなく、自然界も、地球も、宇宙も救われる必要があると考えられるようになってきました。人々は「エコロジー」を新しい思想だと思っていますが、そうではありません。聖書は、「エコロジー」が叫ばれる何千年も前から、人間の救いだけでなく、自然界や地球の救いを、宇宙規模の救いを教えていました。神は、この世界を造り、人間を造り、人間に世界の管理を任せられました。しかし、人間は罪を犯し、そのため世界は混乱しました。今日の環境の破壊は、人間の罪の結果引き起こされたもので、被造物、自然界の責任ではありません。ですから、被造物、自然界もまた救いの時を待ち望んでいるのです。ただ、神の救いには順序があって、最初に、イエス・キリストの十字架による人間のたましいの救いがあり、次にイエス・キリストの再臨のときの、からだの救いがあります。そのとき、被造物の救いも完成するのです。ローマ8:19-22にこう書かれています。
被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。キリストは、キリストを信じ、キリストに従ってきた者たちに栄光をお与えになる時に、被造物をも、その栄光にあずからせてくださいます。すべての被造物、万物が、新しい秩序の中に入るその時を、私たちも待ち望んでいます。
イエス・キリストによる「和解」、それはなんと素晴らしいことでしょうか。それは、私たちと神との関係、私たちと他の人との関係を変えるばかりか、私たちとこの世界との関係をも変えるものなのです。やがて来る日の栄光は想像することができないほど素晴らしいものですが、その素晴らしさの一部は、今でも、味わうことができます。それは、イエス・キリストが十字架の血で作ってくださった平和、平安を受けることによってです。20節に「その十字架の血によって平和をつくり」とあるように、和解の実、結果は神との平和、イエス・キリストにある平安です。それは、この世が決して与えることのできないもの、人の力では作り出すことのできないものです。今日の社会は競争社会です。現代は不安な時代です。誰もが平和を求め、平安に飢え渇いているのに、それが得られないでいます。なぜでしょうか。神との和解が成立していないからです。ほんとうの平和、平安は神との和解からしかやってきません。ほんとうの平和、平安を得るために、神との和解を自分のものとしましょう。
パウロはコリント第二5:18-20でこう言っています。
神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。パウロは「神が懇願しておられる」と言っています。神は主権者ですから、私たちに命令すればそれで良いのに、「お願いだから、和解を受け入れて欲しい」とでも言うように、それを勧めておられるというのです。そうした神の熱い心を知って、誰がそれに応えずにいられるでしょうか。この日、神の懇願に答え、キリストが備えてくださった和解を、信仰をもって受け取ろうではありませんか。
(祈り)
あわれみ深い神さま。私たちは自分の罪の大きさ、深さを思うとき、同時に、あなたの恵みの大きさ、あわれみの深さをほめたたえずにはおれません。あなたが、あなたに背を向けて遠く離れていた私たち、いや、あなたの敵でさえあった私たちに、和解の手を差しのばしてくださったことを感謝します。あなたが備えてくださった和解を受け入れ、和解の結果である平安と平和を豊かに受け取ることができる私たちとしてください。恵み深い主、イエス・キリストによって祈ります。
3/13/2011