1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。
1:19 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、
1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
私たちはいろんなものに順番をつけたがります。スポーツの世界がその典型でしょう。トップクラスの選手が出場する水泳競技では、目で見て誰が一着で誰が二着、三着だかわかりません。0.01秒の差で順番が決まります。1秒以内なら、みな一着にしてよいと思うのですが、そういうわけにはいかないようです。芸術のコンクールとなると、そこには審査員の主観が入りますから、納得のいかない結果になることもあります。
人が順番をつけたり、人から順番をつけられたりするのを嫌がる人であっても、じつは、毎日の生活で、さまざまなものに順番をつけているのです。一日のうちにしなければならないことがたくさんある中で、どれから先に手をつけるか、私たちは自分で意識していなくても、順番を決めて、ものごとをしているのです。健康を第一に考える人はそのような生活をし、身だしなみを第一に考える人は、そのことに時間もお金もかけます。仕事を第一にするのか、家庭を第一にするのかで悩む人も多いでしょう。優先順位が違えば、生き方も違ってきます。
では、イエス・キリストを信じる者にとって第一にすべきものは何でしょう。それは、言うまでもなく、イエス・キリストです。きょうの箇所ではイエス・キリストが、「造られたすべてのものより先に生まれた方」(15節)、また、「死者の中から最初に生まれた方」(18節)と呼ばれています。原語ではどちらも同じ、「長子」(firstborn)という言葉ですが、ここは「第一の者」という意味で使でわれています。きょうは、イエスが「第一のお方」であることと、そのことが私たちに与えてくれる恵みを受け取る方法について学びます。
一、創造者であるキリスト
最初に15節をとりあげます。「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です」とあります。「造られたすべてのものより先に生まれた方」という部分は、キリストが造られたもの以上のお方、つまり、「造り主」であることを言い表しています。続く16節と17節に、こう書かれています。「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」
聖書は、神がすべての物を造られたと教えています。この大宇宙も、地球も、そこに生きるすべての物もです。天使も、人間も神によって造られました。しかし、聖書のどこにも、神の御子キリストが「造られた」とは書かれていません。イエスは人となってお生まれになりましたから「生まれた」と言われています。しかし、「造られた」とは言われていません。神の御子キリストは造られた物のひとつではなく、すべての物をお造りなった創造者です。すべてのものは「キリストによって」、「キリストのために」、「キリストにあって」造られました。このことはヨハネ1:3に、次のように書かれています。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」
イエス・キリストは神の御子として神と等しいお方であり、創造者である。これは聖書が教える信仰の出発点です。それで「ニカイア信条」は、イエス・キリストについて、こう告白しています。「わたしたちは、唯一の主、神の独り子、イエス・キリストを信じます。主はすべての時に先立って、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られました。」ほんとうに「アーメン」、その通りです。被造物は被造物を救うことはできません。イエス・キリストは創造者であるからこそ、人とこの世界を救うことがおできになるのです。
初代のキリスト者たちは、大きな迫害に遇いましたが、それに屈しませんでした。それは、イエス・キリストをあらゆる被造物の上におられる「第一のお方」、創造者と信じたからです。ローマ8:38-39にこうあります。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」ここに「どんな被造物も」とありますが、キリスト者に敵意をいだく勢力や、ローマの権力がどんなに強かったとしても、それらは「被造物」です。ローマ皇帝はみずからを「神」にし、皇帝崇拝を強要しましたが、ローマ皇帝も「被造物」のひとつにすぎないのです。信仰者たちは、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません」(マタイ10:28)と、イエスが教えられたことを守りました。創造者であるイエス・キリストを「第一のお方」として、迫害を乗り越えたのです。
ある時、牧師たちのための集まりで、司会者が、きょうの聖書箇所コロサイ1:15-20を含む、コロサイ1章のかなり長い部分を暗誦しました。身振り手振りを加えての暗誦でした。それが終わると会場から大きな拍手が沸き起こりました。私も感動しました。この箇所は何度も読んでよく知っている箇所です。しかし、信仰の告白として、この御言葉を暗誦するのを聞いたとき、神の言葉の力に改めて触れることができ、心の中でイエス・キリストを賛美する、ほんとうに幸いな体験をしました。
二、復活者であるキリスト
さて、次に、18節を見ましょう。「御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方」とあって、15節で「先に生まれた方」と訳されていた言葉は、ここでは、「最初に生まれた方」と訳されています。これは、イエスの復活のことを言っています。イエスが復活においても「第一のお方」だというのはその通りです。エノクやエリヤのように死なないで天に上げられた人はいましたが、イエスが復活されるまでは、誰ひとり復活した者はありませんでした。創世記5章には人類の系図が書かれています。古代の人はみな長生きしたのですが、アダムから始まって、どの人物についても「こうして彼は死んだ」と書かれています。「罪の支払う報酬は死」であって、この死を克服した人、死に勝利して復活を成し遂げた人は誰もいなかったのです。
神は旧約の時代にも「復活」について教えておられ、聖書を信じる敬虔な人たちは、それを世の終わりに起こることとして待ち望んでいました。確かに「復活」は世の終わりに起こります。しかし、イエスはそれに先んじて、十字架の死から三日目に復活なさいました。イエスの復活は、イエスが神の御子であることを証明し、十字架の救いが確かなものであることを確証するものですが、それは、同時に、イエスを信じる者たちも、イエスに続いて復活することを保証するものなのです。
コリント第一15:20に「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」とあります。この「眠った者の初穂」と、「死者の中から最初に生まれた方」とは同じ意味です。初穂のあとに畑全体の収穫が続くように、イエスの復活のあとに、イエスを信じる者たちの復活が続くのです。つまり、キリストが「死者の中から最初に生まれた方」、「第一のお方」と呼ばれているのには、その後に、キリストを信じる者たちもまた、「死者の中から生まれた」第二の者、第三の者となって、「第一のお方」であるイエス・キリストに続いて、復活に与るからです。イエスは、私たちをご自分に続く者とするため、「第一のお方」となられました。
「イエスは第一のお方。」現代、このことが忘れられています。確かに、アメリカでは「イエス」のお名前は「ビッグ・ネーム」です。最も有名で、尊敬の的です。しかし、イエスへの信仰が失われ、「イエス・キリストが神であるかどうか、復活したかどうかは問題ではない。イエスの教えに従い、イエスの生き方に倣えば、それで良いのだ」と考えられるようになりました。しかし、「イエスの教え」とは何でしょう。イエスが一番大切なこととして教えられたのは、イエスが神であり、罪からの救い主であることだったではありませんか。「イエスに倣い、イエスに従う」といっても、イエス・キリストの復活のいのちによって救われ、新しい人に生まれ変わることなしには、誰もイエスのように、またイエスが教えられたとおりに生きることはできないのです。
イエス・キリストは造られた者ではなく創造者です。たんなる教師やリーダーではなく、贖い主です。なによりも、二千年前に墓に葬られたままの過去の人物ではなく、復活され、今、生きて、働いてくださっているお方です。イエスを「第一のお方」とするとは、イエスをそのようなお方として、聖書が教えるとおりに信じ、従うことです。
私たちは使徒信条で「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の命を信ず」と告白します。聖霊、教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の命。これらは、すべて、イエスを「第一のお方」として、信じるときに与えられる恵みです。私たちはこの部分を告白する前に、イエス・キリストについて、こう告白します。「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。」このイエス・キリストへの信仰の告白によって、聖霊、教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の命という恵みを受け取ることができるのです。イエスは「第一のお方」だからこそ、私たちにこれらの恵みを与えることがおできになります。イエスを「第一のお方」として、信じ、信頼し、このお方からいただく救いの恵み、いのちの恵みに満たされ、それを証ししていく私たちでありたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、あなたは私たちにイエス・キリストを第一のお方としてお与えくださいました。イエスを第一のお方として信じることによって、私たちに救いが与えられ、確信が与えられ、守りが与えられ、希望が、私たちに与えられます。私たちの日々の生活で、また人生で、イエスを第一のお方とすることができますよう、助け、導いてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
9/11/2022