1:1 神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、
1:2 コロサイにいる聖徒たちで、キリストにある忠実な兄弟たちへ。どうか、私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
一、時と場所
今日から「コロサイ人への手紙」を学びます。古代の手紙は、差出人、受取人、そして、あいさつという順で書かれしたが、コロサイ人への手紙もまた同じパターンに従って書かれています。
現代の手紙では、「2011年2月6日、札幌にて」などと、手紙を書いた場所と年月日を書き加えるのですが、残念ながら、聖書の「手紙」には、それを書いた場所と年月日が明記されていません。それで、いつ、どこで、それが書かれたかは、本文から推測するしかないのですが、幸いなことに、「コロサイ人への手紙」にはっきりした手がかりがあります。それは、4:3にある「私は牢に入れられています」ということばです。「使徒の働き」には、パウロが二度、長い間牢にいたことが書かれています。一度目は、パウロが三度目の伝道旅行を終えた後、エルサレムで捕まえられカイザリヤで牢に入れられたとき、二度目は、ローマで裁判を受けることを願い、囚人船でローマに送られ、そこで二年を過ごしたときのことです。
パウロはローマの市民権を持っていましたので、ローマでは寛大に扱われました。パウロは裁判を待つ身で、まだ有罪になったわけではありませんでしたから、人々がパウロを訪ねることが許されて、今までパウロといっしょに伝道してきた人たちがまわりにいました。コロサイ人への手紙によると、この手紙が書かれたとき、パウロの身近には、テモテ、テキコ、アリスタルコ、マルコ、ユスト、ルカ、デマスたちがいました。コロサイの教会からはエパフラスが来ていましたし、主人ピレモンのもとから逃げてきたオネシモもいました。また、パウロは、オネシモをピレモンのもとに送り返すのに、自分のかわりにテキコに付き添わせ、このコロサイ人への手紙とピレモンへの手紙を託しています。ですから、この手紙はパウロが未決囚としてローマにいた時に書かれたことが分かります。それは紀元62年ごろのことです。このときの皇帝はネロで、パウロはこののち4~5年して殉教することになります。
これからこの手紙を読み進んでいくときに、パウロが置かれた状況を思い浮かべながら読んでいくと、より良い理解が得られることと思います。頭の片隅に、この手紙がいつ、どこで書かれたかを覚えておきましょう。
二、差出人
さて、この手紙の差出人ですが、それは言うまでもなく使徒パウロです。差出人の中にパウロの弟子で、同労者であったテモテの名前も書かれていますが、もしかしたら、パウロがこの手紙を口述し、テモテが筆記したのかもしれません。この手紙の一番最後に「パウロが自筆であいさつを送ります」(コロサイ4:18)とありますので、おそらくそうでしょう。パウロは、手紙の最後の一文を自分でペンを取り書き記したのですが、それまではずっと口述で筆記させていたのです。私などは、手紙を書くとき、なかなか考えがまとまらず、便箋を何枚も無駄にすることが多くありました。今は、コンピュータを使いますので、紙を無駄にすることが少なくなりましたが、書いては読み返し、何度原稿を書き換えるか分かりません。それでも、言葉が足らなかったり、多かったり、的確でなかったりします。ところが、パウロはこれだけの長い手紙をスラスラと口述できたのですから、すごいと思います。聖書は聖霊の霊感によってしるされたのですが、聖霊の霊感はそんなところにも働いたのだろうと思います。
この手紙でパウロは自分を「神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒」と呼んでいます。パウロが使徒であることは、この手紙を受け取る人たちはみな知っていましたから、パウロがをわざわざ自分を「使徒」と呼んだのは、現代の私たちの感覚からすると、いかにも仰々しく聞こえます。しかし、それには理由がありました。パウロはこの手紙を、たんなる挨拶や人と人とのコミニケーションで終わらせず、主イエス・キリストの代理人として、この手紙によってキリストからのメッセージを伝えようとしたからでした。この手紙を読み進んでいくと、これは手紙というよりは「教え」、「説教」であることが分かってきます。パウロは、この手紙をたんに個人的なものとしてではなく、キリストの使徒から教会への公式のメッセージとして受け取るよう願って自分を「使徒」と名乗ったのでしょう。この手紙はコロサイの教会の集まりで朗読され、コロサイの教会で読まれたなら次はラオデキヤの教会に回すように指示されています(コロサイ4:16)。このようにパウロの手紙は最初から聖書として扱われていました(ペテロ第二3:15-16)。
ですから、私たちも、この手紙を「パウロが紀元62年にコロサイの教会に宛てて書いたもの」としてだけでなく、今、この教会に、この私に神が語り、教えようとしておられるものとして読んでいきたいのです。地域は違っても教会の本質は変わりませんし、時代が変わっても人間の基本的な必要に変わりはありません。神の教会に対するみこころは変わりませんし、神が人間の必要に答えてくださる方法も変わりません。何もかも激しく変わっていくこの時代だからこそ、変わらない神のことばに聴きながら、迷うことなく、神の国に向かって進んでいきたいと思います。
三、受取人
次に、この手紙の受取人がどう呼ばれているかを見ましょう。コロサイの教会のクリスチャンは「聖徒たち」(コロサイ1:2)と呼ばれています。コロサイの教会ばかりでなく、ローマの教会のクリスチャンは「召された聖徒」(ローマ1:7)、コリントの教会は「聖徒として召された人々」(コリント第一1:4)、エペソの教会とピリピの教会は「聖徒たち」(エペソ1:1、ピリピ1:1)と呼ばれています。エペソとコロサイの教会には「忠実な聖徒たち」、「忠実な兄弟たち」という呼びかけがあって、「忠実な」という言葉が付け加えられています。クリスチャンが「聖徒」と呼ばれ「忠実な者」と呼ばれているのにはどんな意味があるのでしょうか。
第一にこれは、神の恵み、あわれみを表しています。「聖徒」というのは、神に選ばれ、神のものとされた人々という意味です。旧約時代には、「聖徒」と呼ばれたのはユダヤの人々だけでした。ユダヤの人々以外は「異邦人」と呼ばれ、「望みもなく、神もない」(エペソ2:12)者たちでした。コロサイの人々もかつてはまことの神を知らず偶像を拝む人々でした。そんな人々が神の民としてこの世から選び出され、「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」(ペテロ第一2:9)とされたのは、まったく神の恵み、神のあわれみによることでした。
コロサイのクリスチャンはまた「忠実な兄弟たち」と呼ばれています。「忠実な」といういう言葉にふたとおりの意味があります。そのひとつは「信じている」「信仰を持っている」という意味です。「忠実な」(ピストス)という原語は「信仰」(ピスティス)という言葉から来ています。英語でも「忠実な」("faithful")という言葉に "faith" が入っていますね。イエスは、イエスの復活を信じなかったトマスに「信じない者にならないで信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)と言われましたが、ここで「信じる者」と訳されている原語は「忠実な」と同じ「ピストス」です。聖書では、この言葉は「信じる人」、「信者」という意味で数多く使われています(使徒16:15、テモテ第一4:10、4:12、5:16、テトス1:6等)。私たちがかつて、「望みもなく、神もない」者だったのは、信仰を持たなかったからです。頑固に信仰を拒んでいた人もいたでしょうし、無関心だった人もいたでしょう。そんな私たちも、信仰を持つ者、"faith-ful" な者とされたというのはなんと大きな神の恵み、あわれみでしょう。ペテロ第一1:8-9に「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです」とあるように、クリスチャンは信じる者とされた喜びを味わっています。神がクリスチャンを「忠実な聖徒たち」と呼ばれるたびに、クリスチャンは、「信じる」喜びを与えてくださった神に感謝しないではいられなくなるのです。
第二に、クリスチャンが「聖徒」と呼ばれているのには、クリスチャンに対する神の期待が含まれています。神は、クリスチャンをこの世から選び出し、ご自分の民とし、「聖徒」と呼んでくださいましたが、そう呼ばれる者たちが、その名にふさわしく聖いものとなっていくことを願い、期待しておられます。クリスチャンの救いは、生まれ変わりを体験して終わるのではなく、「新生」から「聖化」へと進んでいくことなのです。「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです」(ペテロ第一1:15ー16)とのお言葉が心に響きます。
同じように、神は「信じる者」となった者たちが「忠実な者」になっていくことを期待しておられます。「忠実な」(ピストス)ということばの第一の意味は先ほど話しましたように、「信じている」「信頼している」という意味でしたが、第二の意味は「信頼できる」、「信頼に足る」という意味です。聖書では、「信じる」という言葉は、人間が神に信頼するときばかりでなく、神が人間を信頼してくださるときにも使われています。実際、神と人との関係は、人が神を信頼し、神が人を信頼される関係です。神と人間以外の被造物との関係は、神が命令し、被造物が従うという一方向の関係です。自然界は神が定められた法則のとおりに服従して動いています。しかし、神と人との関係は違います。神は人に命じられますが、同時に、人の願いをも聞き入れてくださいます。神が人を愛されるばかりでなく、人もまた神を愛します。人は神を信頼するだけでなく、神からも信頼され、多くのものを神から任せられているのです。私たちの人生は、神から任せられたものを忠実に用いて、神の信頼にお応えするためにあるのです。
パウロはテモテ第一1:12で「私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです」と言っています。パウロはかつて、教会を迫害する人でした。なのに、キリストはパウロを選んで、ご自分の使徒にしてくださいました。パウロの心にはこのキリストの愛が燃えていました。それがパウロの伝道の原動力であり、パウロの人生の目的は、神から委ねられた務めを忠実に果し、神の信頼に応えることでした。
パウロはテモテを「主にあって私の愛する、忠実な子」(コリント第一4:17)と呼び、テキコを「忠実な奉仕者」(エペソ6:21、コロサイ4:7)と呼び、エパフラスを「忠実な、キリストの仕え人」(コロサイ1:7)と呼び、逃亡奴隷のオネシモのことをも「忠実な愛する兄弟」(コロサイ4:9)と呼んでいます。これらの人々は、神がその人たちを信頼してくださった、その信頼に応え、その名のとおり「忠実な者」となっていった人々です。私たちも、そのようでありたいと心から願います。
私の部屋には「神はあなたが成功することに関心をお持ちなのではない。あなたが忠実であることだ」という、マザー・テレサのことばが飾ってあります。確かにその通りです。この世で成功した人、大きなことを成し遂げた人でなければ御国で報いられないというのではありません。むしろ、どんなに小さなことであったとしても、地上で神に忠実であった人に、神は報いてくださるのです。私が神学校で最初に習ったのは葬式の仕方でした。そのとき習ったことは何一つ覚えていませんが、「結婚式はいつあるか分かるから前もって準備ができるが、葬式はいつあるか分からないから普段から良く準備しておくように」ということばだけは今も覚えています。それで、葬式のプログラム用紙などを常時買い備えておいてあるのですが、その中のひとつに「よくやった。良い忠実なしもべだ」(マタイ25:23)というみことばが書かれたプログラム用紙があります。私たちの誰もが、神からこのように言っていただきたいと願っていることでしょう。神がそのしもべたちに求められるのは「忠実」であることだけです。結果は、神に任せていきましょう。
第三に、クリスチャンが「聖徒」や「忠実な者」と呼ばれるのは、それによってキリストを信じる者たちのまじわりが広がっていくためです。パウロはコロサイばかりでなく、エルサレムにいるクリスチャンを、コリントにいるクリスチャンを、ローマにいるクリスチャンを、みな「聖徒たち」と呼びました。「聖徒」という言葉には、世界規模の、大きなまじわりが意味されています。コロサイのクリスチャンは「<コロサイにいる>聖徒たち」と呼ばれているように、世界に広がる大きな聖徒のまじわりの一部、コロサイ支部なのです。クリスチャンは自分が「聖徒」と呼ばれるとき、地域を越え、時代を越えた一体感を感じます。日本にいても、アメリカにいても、アフリカにいても、すべての真実なクリスチャンは霊的には同じところにいて、同じいのちで生きているからです。コロサイのクリスチャンが「コロサイにいる聖徒たちで、<キリストにある>忠実な兄弟たち」と呼ばれているように、すべてのクリスチャンは「キリスト」にいるのです。キリストのうちに生かされ、同じ主を信じ、同じ主に忠実に仕えているのです。「聖徒たち」という呼びかけは、地域や制度、伝統や組織を超えた大きなまじわりへと、私たちを招いてくれます。そこから互いを「兄弟」と呼び合い、祈り合い、学び合い、助け合う関係が生まれてきます。
人は、自分がどう呼ばれるかによって、自分を形作っていきます。ある国に王子様がいました。この王子様はちょっと落ち着きのない人で、町に出ると、いつもキョロキョロまわりを見回します。そこで、お付きの人が「殿下、ご身分を」と注意をします。すると、この王子様は姿勢を正して、きちんとしました。この王子様は、王子であることの特権と責任を自覚し続けることによってだんだんと、その国を治める者にふさわしくなっていったというのです。クリスチャンも同じです。「聖徒」、「信じる者」、「忠実な者」という神からの呼びかけを聞き続けることによって、聖徒としての使命に目覚め、信じる喜びを増し加えられ、忠実な奉仕をささげることができるようになるのです。聖書を開くとき、そこで、自分が神によってどう呼ばれているのかをしっかりと聞き取りましょう。そして、そこにある神の愛を知り、それに応えて変えられていく私たちとなりたく思います。
(祈り)
父なる神さま、あなたはキリストにある者を「聖徒」と呼び、「信じる者」、「忠実な者」と呼んでくださいます。そうした呼びかけが、どんなにか、あなたの愛とあわれみを表わしているかを、もっと教えてください。私たちが、キリストにあって、ほんとうは、どんな者なのかを知らせてください。そして、あなたを知り、自分を知ることによって、あなたの呼びかけに応えて生きる私たちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。
2/6/2011