キング牧師の夢

アモス5:21-24

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5:21 「わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときの香りも、わたしはかぎたくない。
5:22 たとえ、あなたがたが、全焼のささげ物や穀物のささげ物をわたしに献げても、わたしはこれらを受け入れない。肥えた家畜の交わりのいけにえを献げても、わたしは目を留めない。
5:23 あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。あなたがたの琴の音を、わたしは聞きたくない。
5:24 公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。

 明日はマーチン・ルサー・キング・ジュニアの記念日です。きょうの聖書箇所は、キング牧師がしばしば説教やスピーチで引用した箇所です。キング牧師の業績をたどりながら、この御言葉の意味を考えましょう。きょうのメッセージでは、「黒人」という言葉を使いますが、そこには軽蔑の意味がまったくないことをご承知ください。

 一、信仰と社会

 キング牧師は、1929年1月15日、ジョージア州アトランタの牧師家庭に生まれました。大学、神学校、また、ボストン大学博士過程へと進み、1954年9月、アラバマ州モンゴメリーの教会の牧師となりました。彼が牧師になって1年ほどした1955年12月、モンゴメリーで、一つの事件が起こりました。一人の黒人が白人専用のバスの座席に座り続けたため逮捕されたのです。

 南部の多くの州では、人種差別の法律がいくつもありました。フロリダでは白人と黒人の交際や結婚は禁じられ、16分の1でも黒人の血が混じっていれば、黒人とみなされました。学校は白人の学校と黒人の学校に分けられていました。ミシシッピでは、白人と黒人の社会的平等について演説したり、本を出版したりすると懲役刑や罰金刑が課せられました。「投票税」というものを課し、貧しい人が多かった黒人が投票に行くのを妨げようとしました。こうした人種による差別を定めた法律は、ひとまとめにして「ジム・クロウ法」と呼ばれました。「ジム・クロウ」というのは、白人の歌手が顔を黒く塗って歌った「ジャンプ・ジム・クロウ」という歌のタイトルから来ています。

 アラバマ州では、白人女性の看護師がいる病院には、黒人男性は患者として立ち入れない、レストランでは、白人と有色人種が同じ部屋で食事ができないなどの法律がありました。バスでは白人と有色人種とは別々の待合所から、別々の乗車券で乗り、座先も、前のほうは白人、後ろのほうは有色人種に区別されていました。それで、白人の座席に座り続けた黒人が逮捕されたわけです。

 キング牧師はこのとき、バス会社をボイコットする運動を組織し、その指導者となりました。そして、連邦最高裁判所から、こうした「人種分離」が憲法違反であるとの判決を勝ち取りました。キング牧師以前にも人種差別の法律を撤廃しょうとする「公民権運動」はあったのですが、キング牧師は、その運動に一般民衆を参加させました。人々の信仰に訴え、信仰は社会の矛盾からの逃避ではなく、むしろ、積極的に社会に良い変化をもたらすものであることを教えたのです。

 アモス5:21-24の言葉は、北王国イスラエルへの預言の言葉です。ソロモン王の死後、王国は北王国と南王国ユダとに分かれました。北王国はエルサレムにある神殿に対抗して、サマリアに自分たちの神殿を作り、レビ人ではない人たちを祭司にしました。そして、神殿での祭りを盛んにし、朝に夕にいけにえをささげていました。しかし、それはまことの神を正しく礼拝するものではありませんでした。そのような間違った信仰が、正しい社会を生み出すはずがありません。アモスが預言したとき、北王国は領土を広げ、国は栄えていましたが、社会は悪に染まっていました。「魚は頭から腐る」と言われるように、社会の腐敗は、権力を持つ人たちから始まり、民衆に広がっていきました。王やその一族は勝手気ままなことをし、官僚たちは賄賂を要求し、地主は小作農から収穫を奪い、金持ちは人々をタダ働きさせて富を増やしていました。裁判に訴えても、裁判官は賄賂の額によって判決をくだしました。正義が失われ、民衆もまた、互いに不正を働きあうようになっていました。

 北王国の神殿では、なるほど、お祭りは盛んに行われており、そこでは歌の声、琴の音がさかんでした。しかし、それはまことの神をたたえるものではなく、人間のためのエンターテーメントでしかありませんでした。犠牲が献げられてもそこに信仰はなく、香が炊かれてもそこに祈りはなかったのです。それで神は、「わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときの香りも、わたしはかぎたくない。たとえ、あなたがたが、全焼のささげ物や穀物のささげ物をわたしに献げても、わたしはこれらを受け入れない。肥えた家畜の交わりのいけにえを献げても、わたしは目を留めない」(21-22節)と言われたのです。そして神は、お祭り騒ぎから目覚め、自分たちの現状に目を向け、悔い改めてまことの神に立ち返り、社会に公平と正義をもたらせと言われました。「あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。あなたがたの琴の音を、わたしは聞きたくない。公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。」(23-24節)

 これは、礼拝や祈りはどうでもよい、社会活動が大切だということを言っているのではありません。神への礼拝と祈りはなくてならないものです。それは、信仰者にとって活動の力の源であり、また指針です。神への礼拝や祈りのない活動は、やがて力を失い、また、神のみこころから離れたものとなり、この世に呑み込まれこそすれ、決して社会を変えていくものにはなりません。キング牧師は、多くの人々と街頭に出て、差別の撤廃を訴えましたが、街頭に出かける前に教会に集まり礼拝の時を持ちました。また、街頭での行進が終わると再び教会に集まり、祈りの時を持ちました。

 キング牧師に限らず、社会に大きな貢献をしたキリスト者は、「神を愛し」、「隣人を愛する」という二つの戒めを別々のものと考えませんでした。神を愛する愛は、隣人への愛となり、社会に正義と公平をもたらそうとします。また、隣人への愛は、神からの愛によって支えられ、神を愛する愛へと帰っていくのです。

 信仰者が社会に公正と正義を求めるのは、公正で正義である神が、それを社会に求めておられるからです。キング牧師の公民権運動は、たんに自分たちの人種の権利を主張するだけのものではありませんでした。すべての人が人としての尊厳を認められ、良心に従って生きることのできる自由な社会を目指していました。それは、社会に神の正義を求めるものでした。「公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。」この聖句は、ワシントン D. C. にあるキング牧師のメモリアル・モニュメントの壁に刻まれています。公正と正義は、神への信仰によってもたらされることを覚えたいと思います。

 二、非暴力

 次に、社会に正義と公正をもたらす方法ですが、キング牧師は徹底して「非暴力」によってそれを達成しようとしました。主張が正しければ、手段は間違っていてもよいとは考えませんでした。正義を訴えるのに、正義にもとることをしてはいけないと人々に教え、自らもそれを実行しました。

 アラバマ州バーミングハムでの公民権運動では、警察が人々に警察犬をけしかけたり、警棒で叩いたり、消防で使うホースで水をかけたりなどしました。それでも、人々は警察に手向かいませんでした。その様子はテレビで放送され、警察のしたことは心ある人々の怒りを買いました。キング牧師自身もバーミングハムで逮捕され、独房に入れられました。1962年のグッドフライデーでした。キング牧師は、その町の8人の牧師たちが手紙を届けてくれたので、それへの返事を書くためペンと紙を求めましたが、看守は「ここは図書館じゃないんだ。そんなものを持つことはできない」と言って、許しませんでした。それで、キング牧師は新聞の切れ端や、サンドイッチ・バッグなどに返事を書き、面会に行った弁護士がそれを持ち出しました。人々はバラバラの紙切れをつなぎ合わせ、やっともとの文章にたどりつきました。それが有名な「バーミングハム監獄からの手紙」で、最近、その手紙をタイプしたウィリー・マッキンニーさんの証言を読む機会があり、そのことを知りました。

 このように、キング牧師や公民権運動に携わった人々は、暴力は受けても暴力で返しませんでした。それは、イエスが教え、使徒たちや、使徒たちのあとに続いた教父たちが教えたことでした。近年の BLM では、町が焼かれ、商店が略奪され、人々が殺されました。それは、正義を求める正義の運動というよりは、憎しみに駆られた暴動でしかありませんでした。「差別をなくせ」と言いながら、「逆差別」がなされ、公正であるべき司法が、一方の重い犯罪を見逃し、他方の軽い犯罪に厳しくするようなことも起こっているのは、残念なことです。キング牧師が導いた公民権運動は、それとは全く違っていました。キング牧師はこう言っています。「闇は闇を追い出すことはできません、それができるのは光だけです。憎しみは憎しみを追い出すことはできません、それができるのは愛だけです。」

 三、夢と忍耐

 公民権運動の指導者の中には、キング牧師の「非暴力」を生ぬるいと考える人たちもありました。しかし、彼は、それが遠回りに見えても、一番確実な道であることを信じていました。そして、人々に夢を持ち、そのために忍耐することを教えました。それが、あの“I have a dream” のスピーチでした。

 このスピーチは、リンカーンによる奴隷解放宣言からちょうど100年目の1963年に語られたものです。その一部を紹介します。

私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。私には夢がある。それは、いつの日か、不正と抑圧の炎熱で焼けつかんばかりのミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスに変身するという夢である。私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。…私には夢がある。それは、邪悪な人種差別主義者たちのいる、州権優位や連邦法実施拒否を主張する州知事のいるアラバマ州でさえも、いつの日か、そのアラバマでさえ、黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹として手をつなげるようになるという夢である。…私には夢がある。それは、いつの日か、あらゆる谷が高められ、あらゆる丘と山は低められ、でこぼこした所は平らにならされ、曲がった道がまっすぐにされ、そして神の栄光が啓示され、生きとし生けるものがその栄光を共に見ることになるという夢である。これがわれわれの希望である。この信念を抱いて、私は南部へ戻って行く。この信念があれば、われわれは、絶望の山から希望の石を切り出すことができるだろう。

 キング牧師の運動は政治を動かし、1964年、「公民権法」が制定されました。しかし、差別的な法律が失くなったからといって差別が終わったわけではありません。キング牧師は、その夢の実現を見ることなく、夫人と4人の子どもを遺し、1968年、テネシー州メンフィスで暗殺されました。まだ39歳の若さでした。

 すべての人に「尊厳、平等、自由」が行き届くのを見るまでには、挫折があり、失望があることを、彼はよく知っていました。それで、“I have a dream” のスピーチで、「この信念があれば、われわれは、絶望の山から希望の石を切り出すことができるだろう」と言って、人々に「夢」とともに、それを実現するための忍耐を持つようにと説いたのです。キング牧師は信仰による忍耐について、こう言っています。「しかし、私は、非暴力の真実と無条件の愛が現実に最後の決定を下すだろうと信じています。これが、一時的に敗北した正義が、勝利した悪よりも強い理由です。」「正義は勝つ」と言われますが、現実はそうではありません。正義が敗北しています。しかし、神にあっては、「一時的に敗北した正義は一時的に勝利した悪よりも強い」のです。

 私たちは、アメリカに、また世界に、公正と正義が川のように流れ、その地を潤すように願っています。アメリカの現状、世界の状態を見るとき、そんなことを願っても無駄ではないかという思いが先に立つかもしれません。しかし、主にあっては無駄ではありません。どんな祈り、願いも、神に届かないものはなく、神を愛し、隣人を愛して行ったことが用いられないことはないからです。私たちも、神にあって、夢を持ち、忍耐をもって御言葉の実現を祈り続けましょう。アメリカの信仰的な復興と世界の平和のため、祈り続けたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたはアメリカをあわれんで、よき指導者を数多く与えてくださいました。きょうは、キング牧師の27歳から39歳までの働きを振り返りました。わずか12年の間でしたが、彼は、多くのものを遺して、あなたのもとへと帰っていきました。私たちは彼の業績だけでなく、彼を動かしたあなたの言葉と、それを握りしめた信仰に目を留め、そこから学び、遺してくれたものを引き継ぎたいと願っています。どうぞ、私たちを御言葉によって教え、導いてください。主イエス・キリストによって祈ります。

1/14/2024