御名のために示した愛

使徒9:36-42

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9:36 ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せば、ドルカス)という女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた。
9:37 ところが、そのころ彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。
9:38 ルダはヨッパに近かったので、弟子たちは、ペテロがそこにいると聞いて、人をふたり彼のところへ送って、「すぐに来てください。」と頼んだ。
9:39 そこでペテロは立って、いっしょに出かけた。ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。
9:40 ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい。」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。
9:41 そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちとを呼んで、生きている彼女を見せた。
9:42 このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。

 「使徒の働き」はルカが「ルカの福音書」の続編として書きました。この書物のタイトルは「使徒の働き」となっていますが、イエスの十二弟子たちがしたことがすべて書かれているわけではありません。使徒の働きの前半は主にペテロの伝道が、後半はパウロの伝道が描かれていて、他の使徒たちのことはほとんど出てきません。伝説によれば、アンデレはロシアに、バルソロマイはペルシャに、トマスはインドに、マッテヤはエチオピアに伝道したと言われていますが、「使徒の働き」は、エルサレムから北、南、東への伝道についてはほとんど触れておらず、エルサレムから西に、ローマへと向かう伝道だけが詳しく描かれています。そして、パウロが囚人としてローマに到着したところで終わっています。こうした「使徒の働き」の構成には、理由があり、そのことは7月からはじまる Pastor's Bible Study で学ぶことになっていますが、今朝、こころに留めたいのは、ルカが記録しようとしたのは、使徒たちの業績ではなく、キリストご自身の救いのみわざだったということです。

 使徒1:1-2に「テオピロよ。私は前の書で、イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書き、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。」とあります。イエスは、十字架と復活によって救いのみわざを成し遂げられ、天にお帰りになりました。しかし、イエスはそれで私たちとこの世界を救う働きをすべて終えられ、もう何もしておられないというのではありません。イエスは、弟子たちに約束したように、教会とともにおられ、教会をとおして働き続けておられるのです。主イエスがこの地上に来られて「行い始め、教え始められた」ことを、天にお帰りになったあとも、聖霊によって、教会を通して、今も続けておられるのです。そんな意味では「使徒の働き」"Acts of the Apostles" は、「キリストの働き」"Continuting Acts of Christ" というタイトルにしてもよいほどです。「使徒の働き」は、口語訳では「使徒行伝」という名前でしたが、実際は「聖霊行伝」であると言われてきました。ルカは、誰がどんなことをしたかというよりも、主イエスがご自分の働きを地上で継続なさるために、どのように人々をお使いになったかを書こうとしました。聖書のすべてがキリストを預言し、証言しているように、「使徒の働き」の主人公も主イエス・キリストを指し示しています。主人公は主イエス・キリストで人々は、主イエス・キリストに奉仕し、仕える人々なのです。今日も、ひとびとがどのように主イエスに仕えたかを学ぶことにしましょう。

 この箇所にはふたりの奉仕者が出てきます。ペテロとタビタです。ペテロは男性でタビタは女性、ペテロは使徒でタビタは信徒でした。全く違うふたりで、それぞれ違った方法で主に仕えていますが、このふたりには共通点があります。それは何でしょうか。まずは、ペテロの奉仕から学んでみましょう。

 一、ペテロの奉仕

 ペテロは、ヨッパの女の弟子、タビタが病気で死んだという知らせを聞いて、タビタの家に向かいました。ペテロが到着すると、そこにはタビタを慕う人々が集まっていて、彼女がどんなに愛にあふれた人であったかをペテロに話しました。ペテロはその話を聞くうちに、主がタビタを生き返らせようとしておられることを悟りました。ペテロは、人々を外に出し、ひざまずいて祈ってから「タビタ。起きなさい。」と言いました。すると、タビタの冷たくなったからだがふたたび赤みを帯び、彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がったのです。そこで、ペテロはタビタに手を貸して彼女を立たせ、ひとびとに生きている彼女を見せました。

 これは、イエスが会堂司ヤイロの12歳になる娘を生き返らせたのととても似ています。そのときも、イエスは人々を外に出して、両親と、ペテロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子だけを伴って家に入りました。そして、娘の手をとって「少女よ、起きなさい。」と言って女の子を生き返らせています(ルカ8:49-56)。使徒は、キリストの代理人ですから、キリストがなさったことと同じことをし、同じようにするのです。使徒たちには「悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威」(ルカ9:1)が授けられています。主イエスの場合はご自分の権威でそれをなさったのですが、使徒たちの場合は、主イエスの権威でそれをしました。その権威は、使徒自身のものではなく、キリストに属するものでした。ですから、エルサレムで足のきかない人をなおしたとき、ペテロは「イスラエルの人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。…イエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」(使徒3:12,16)と言っています。

 使徒たちは、主イエスのお名前によって人々をいやしました。いつ、どんなときも主イエス・キリストのお名前を告げ知らせ、主イエスのお名前をあがめました。ペテロがタビタを生き返らせたのも、主イエスのみこころによることであり、主イエスの御名によってだったのです。ペテロは、いつものように、このときも、主イエス・キリストの御名を宣べ伝えたことでしょう。それで、「このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた」(使徒9:42)のです。死んだ人が生き返るというのはすごい奇跡ですが、しかし、それだけでは、人々は主イエス・キリストを世界の救い主として信じることはありません。ペテロの権威が町中に知れ渡ったり、タビタが町の有名人になり、現代なら、テレビ局からひっぱりだこになるということで終わってしまったことでしょう。それだけで終わらなかったのは、そこで主の御名が宣べ伝えられ、人々の思いと目が主イエスに向けられたからです。そしてその結果、「多くの人々が主を信じる」ようになったのです。ほんとうの奉仕者は、そのように奉仕します。人を集めるためだけに人の注目を引くようなことするだけで終わりません。人々がほんとうに「主を信じ」、信じた人の信仰が成長することを目指すのです。誰が何をしたかは問題ではありません。自分に与えられた分を忠実に果たし、「多くの人々が主を信じる」ことによって主イエスの御名があがめられることを願って奉仕をささげるのです。ペテロの奉仕は主の御名によって、主の御名のためになされ、主の御名を告げ知らせる奉仕でした。

 二、タビタの奉仕

 では、タビタの奉仕はどんな奉仕だったでしょうか。第一に、彼女のした奉仕は、与える奉仕でした。使徒9:36に「この女は多くの良いわざと施しをしていた。」とあるように、タビタは「施し」の奉仕をしました。祈りと施しは、ユダヤの人々の中ではとても大切なこととされており、それは教会にも受け継がれました。ローマ12:6ー8には、奉仕についての教えがありますが、その中にも「分け与える人は惜しまずに分け与え…なさい。」(ローマ12:8)とあって、分け与えることはとても大切なこととされています。水曜日夕の祈り会で、”Ten Prayers God Alwasys Says Yes To” を学びました。その中にもありましたが、金持ちになることは決して罪ではありません。神は、私たちに必要なものをくださると約束しておられ、物質的なものもまた神の祝福の一部です。しかし、それを自分のためだけに使って、神にささげない、他の人に与えないことは罪となります。神は貧しい人々も、富んでいる人々もかわりなく愛しておられますが、富んでいる人には喜んで与えるこころ、generosity を求められます。聖書は、はっきりと「神は喜んで与える人を愛してくださる。」(コリント第二9:7)と教えています。

 神に愛される人、神を愛する人は、みな進んでささげる人たちです。ジョン・ウェスレーはできるだけ節約し、できるだけ分け与えるという生活をしたことで知られています。彼がオックスフォードにいたころ、年収は30ポンドでした。60ドルに相当します。18世紀の30ポンドは今の何十倍も価値があったのでしょう。彼はそのうち28ポンドを生活費に使い、残りの2ポンドを寄付していました。やがて彼の年収が60ポンド、100ポンド、120ポンドと増えて、豊かになっていきましたが、ウェスレーは相変わらず28ポンドで生活し、残りは寄付していました。ある時、会計士が、「銀の食器はいくつありますか。」と訊いたところ、ウェスレーは「銀のティー・スプーンをロンドンに2個、それからブリストルに2個持ってる。銀の食器はそれだけだ。まわりにパンを必要としている人たちがいる限り、それ以上買おうとは思わない。」と答えました。聖書は十分の一は神のものであると教えていますが、韓国のクリスチャンの実業家の中には、収入の十分の九を神に捧げ、十分の一だけで生活している人がいると聞いたことがあります。もっとも、収入が多ければその十分の一だけでも豊かな生活ができるのでしょうが、人は収入が増えれば増えるほど捧げるのを惜しむようになりますから、神への愛がなければ、また、神が必要なものを与えてくださるとの信仰がなければ、とてもそうしたことはできるものではありません。神への愛と、人々への愛をもう一度確認し、すこしでも神を愛する者、神に愛されるものとなりたいと思います。

 また、タビタは、あわれみの奉仕をした人でした。タビタが亡くなったとき、大勢のやもめたちがその死をなげいたとあります(使徒9:39)。当時、「やもめ」や「みなしご」は、社会的に最も弱い立場にある人たちでしたが、タビタはいつもそうした人々にこころをかけていました。タビタもやもめだったのかもしれません。多くの人は、自分よりも裕福な人うらやみ、自分をあわれむのですが、タビタはそのような人ではなく、いつも自分より貧しい人たち、弱い人たちのことをこころにかけ、そうした人々を、まるで自分の家族のように愛していました。主にある愛とはそういうものなのです。聖書は、神を「みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。」(詩68:5)と呼んでいます。最も聖なる神は、同時に最も貧しく、弱い立場にある人をこよなく愛しておられる神です。聖書は「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」(ヤコブ1:27)と教えていますが、これはクリスチャンの生き方のすべてを教えている大切なことばです。

 そして、タビタは、自分にできることで、奉仕をした人でした。彼女は、貧しい人々への愛を、下着や上着を作ってあげることによって表しました。タビタは縫い物が好きで、また上手だったのでしょう。家でいすに座って縫い物をするのが、彼女にとっていちばん幸せなときだったかもしれません。彼女は他の人のように外交的で、あちらこちらに出かけていくことは苦手だったかもしれません。しかし、だからそれで、主のために、人々のために何の奉仕もできなかったというのではありません。しばしば、口八丁、手八丁で何でも器用にこなす人が良い奉仕ができるかのような誤解がありますが、決してそうではありません。奉仕は、能力だけでするものではなく、人格によってするもの、また、愛の動機からなされるべきものだからです。おそらく、タビタはひとりひとりの顔を思いうかべながら、この人にはどんな色の布地が似合うだろうか、あの人にはどんなデザインが喜ばれるだろうかと考えながら、縫い物をしていたことでしょう。きっと、ひとりひとりのために祈りながら縫い物をしていたことでしょう。

 このタビタの奉仕から、私たちも、それぞれ自分にできることで、主のために、また、人々のために奉仕できるというこを学びます。人にはそれぞれに賜物が違いますが、どの人にもかならず、なんらか賜物が与えられています。まだ、気づいていない、隠された賜物があるなら、それを開発することを怠ってはいけません。けれども、「私はあの人のようなことができないから、奉仕ができない。」としりごみしないようにしましょう。みんなが同じことしかできなければ、どうやって、神のための働きが進むのでしょうか。違うからいいのです。教会には、あなたができる奉仕、あなたにしかできない奉仕がかならずあります。一般の会社にはあまり仕事がなく就職難でも、教会にはたくさん仕事があり、いつも求人案内を出しています。なによりも必要なのは、人々の救いのために祈る人々です。主イエスは「収穫は多いが働き人が少ない。」と言われました。「働き人」が少なければ「収穫」も少なくなるのです。もっと祈る人が増えれば、それだけもっと多くの人が救われるでしょう。

 世界中には多くの必要のある人、苦しみの中にある人々がいます。私たちはいつもそうした人々のために祈っていますが、神の愛を世界に届けるためには、まず、身近なところから、自分の属する教会で、神の家族の一員として責任を果たしていくことから始めたいと思います。ガラテヤ6:10に「ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」と教えられているとおりです。タビタの奉仕はまずは、教会の仲間たち、信仰の家族のためのものでした。そして、それは、神に覚えられていました。ヘブル6:10に「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」とあるように、神は、それがどんなに小さいものでも、人の目に隠れたものであっても、「御名のために示した愛」を用いてくださるのです。どんな大きな犠牲を払ったとしても、もしそれが自分のため、自分の誇りのためであるなら、そうしたものは決して実を結びません。ペテロの奉仕とタビタの奉仕は、まったく違った奉仕でした。しかし、どちらも、主イエスの「御名によって」、「御名のために」なされ、「御名をあかしする」ものでした。それで、「多くの人が主を信じる」といういう結果を生み、「御名があがめられる」ようになったのです。「クリスチャン」というキリストのお名前をもって呼ばれている私たちは、このお名前によって、このお名前のために奉仕をささげていくものでありたく思います。

 (祈り)

 父なる神さま、使徒ペテロがしたような大きな働きだけでなく、タビタがしたような小さな働きも、あなたはひとしく用いてくださることを感謝します。私たちがどんなに大きな働きをしようと、自分の名前のためにしたことであれば、それは決してあなたのためには用いられることはありません。しかし、たとえ小さなことであっても、あなたは「御名のために示した愛」を決してお忘れになりません。あなたの御名があがめられ、ほめられ、尊ばれることを求めて奉仕に励むことができるよう、私たちを導いてください。すべての名の上に高くあげられている、主イエス・キリストのお名前で祈ります。

6/22/2008