導く人がなければ

使徒8:26-31

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8:26 ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)
8:27 そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、
8:28 いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
8:29 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。
8:30 そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。
8:31 すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。

 一、導かれる人

 私がはじめてアメリカに来たときのことです。到着して数日しか経っていない、はじめての日曜日、教会からの帰り、借りていた家の近くまで来ているのに、自分の家が分からなくなってしまいました。地図は持っていたのですが、地図を見てもよく分からなかったので、ガス・ステーションで、ガスを入れていた人に、地図を見せて訊きました。「私の家はどこでしょう」とは言えなかったので、「ここに行くにはどうしたらいいでしょう」と尋ねました。その人は、「こう行って、ああ行って」と教えてくれましたが、それでも、私が分からないような顔をしていたので、「ぼくが、そこへ行ってあげるから、あとをついてきなさい」と言ってくれました。私は、その人の車のあとをついて、無事に家に着くことができました。GPS のある今では、笑い話ですが、地図があっても、地図の読み方が分からないと目的地に着けないということがあるのです。

 それは、聖書についても同じだと思います。聖書は、神が全人類に与えてくださった真理を示す地図です。聖書に従えば、誰もが天国への道を見つけることができます。しかし、聖書という地図があっても、その読み方が分からなければ、その道を見つることができません。実際のところ、多くの人が聖書を読んでいながら、聖書から真理を、神への道を見つけられないでいます。それは、聖書に問題があるからではなく、私たちの側に問題があるからです。それは、私たちの理解力が足らないというよりは、私たちの心の態度の問題です。

 イエスの時代の律法学者やパリサイ人たちは聖書の専門家でした。しかも、最高の教師であるイエスから聖書を解き明かしてもらったにもかかわらず、真理を知ることができませんでした。その人たちは、自分たちは聖書を知っている、誰からも学ぶ必要がないという高慢で「固い心」を持っていたからです。「誰からも学ばなくてもよい」ほど賢い人は誰もいません。誰からも学ぼうとしない人はほんとうはいちばん愚かな人かもしれません。

 イエスから直接導きを受けた弟子たちも、「鈍い心」を持っていました。イエスは、復活ののち、エマオへの道で、ふたりの弟子に現われました。このふたりは復活の知らせを聞いていたのにそれを信じなかったのです。イエスはこのふたりに、「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか」(ルカ24:25-26)と言っています。ふたりはやがて心の「目が開かれ」、自分たちに語りかけておられたのが、復活されたイエスであることを知りました。ふたりは、エルサレムからエマオに着いたばかりなのに、もういちどエルサレムに引き返して、他の弟子たちにイエスに出会ったことを知らせました。イエスはエルサレムにいた弟子たちすべてに現われ、「聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」くださいました(ルカ24:44-48)。心が閉じられたままだと、聖書が分からないのです。聖書が分かるためには、まず、第一に、私たちの心が開かれる必要があるのです。

 きょうの箇所のエチオピアの役人は、そうした意味では開かれた心を持っていました。この人はユダヤ人ではありませんでしたが、まことの神を信じる人で、礼拝をささげるために神殿にやってきただけでなく、当時は高価な聖書を買い求め、それを読んでいました。まことの神を畏れる真っ直ぐな心、真理を知りたいという熱心な願いを持った人でした。そればかりでなく、この人は謙遜でした。ピリポは、この人に「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と尋ねましたが、皆さんだったら、そう言われたらどう思いますか。「なんて失礼な。私は教育のある人間で、少しは分かりますよ。分かりもしないのに読んでいるわけではありませんよ」と言い返したくなるかもしれません。しかし、このエチオピアの役人は、自分がすべてを理解していないことを知っていました。そして、自分が分からないところを知りたいと願いました。それでピリポに「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と答え、ピリポを自分の馬車の隣の席に招き入れたのです。この人のように、自分には知らないことがあると認める人が本当に知恵ある人だと思います。神の言葉の前に謙虚になって、聖書を知りたいと願う人は、誰でも、真理に導かれます。聖書が分かり、真理が見えるようになるのです。

 二、導きのゴール

 エチオピアの役人は、このとき、イザヤ書を読んでいました。53章まで読み進み、7節と8節を読んだばかりでした。そこにはこう書かれています。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」エチオピアの役人は、早速ピリポに質問しました。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」(34節)

 イザヤ53章の「苦難のしもべ」が誰であるかは様々に論じられてきました。ある学者は、これは預言者イザヤ自身のことであると言い、別の学者はユダヤ民族だと言い、また別の学者はイスラエルのうちの敬虔な人々のことだとも言っています。しかし、「苦難のしもべ」が誰であるかについては、すでに正解が出ています。35節に「ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた」とあるように、イザヤ53章の「苦難のしもべ」は、イエス・キリストです。使徒ペテロも、その手紙にイザヤ53:5-7を引用して、こう言っています。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(ペテロ第一2:22-25)「苦難のしもべ」はまぎれもなくイエス・キリストです。キリストの苦難、十字架の苦しみは、聖書にある通り、私たちの救いのためでした。私たちはそのことを信じて救われ、また、いやされたのです。

 35節に「ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた」とあるのは、聖書を教える人にも、学ぶ人にもとても大切な言葉です。聖書は歴史書として、文学として、また、思想、哲学、宗教の書物としてじつに、豊かな内容を持っています。聖書はあらゆる分野に通じます。それで、聖書を学び始めると、さまざまな分野に興味が広がります。聖書を広く学ぶことは悪いことではありませんが、そのことによって本来の目的からそれてしまうことがないよう、注意しなければなりません。聖書の学びの本来の目的とは何でしょうか。ヨハネ20:31に「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」とあるように、それは、聖書の中にイエス・キリストを見出し、イエス・キリストを信じて救われることです。また、テモテ第二3:16-17にはこうあります。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」聖書は、救われた者が、成長し、神の働きにふさわしいものとなるためにあります。聖書を学ぶ者も、教える者も、そのゴールがイエス・キリストにあることを忘れてはなりません。

 エチオピアの役人は、すでにまことの神に立ち帰っていましたが、ピリポとともに聖書を学ぶうちに、神のひとり子イエス・キリストを信じる信仰に導かれていきました。馬車が進んでいくうちに水のある所に来ました。すると、エチオピアの役人は「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか」(36節)と言って、自ら進んでバプテスマを願いました。エチオピアの役人は聖書の学びから始まって、イエス・キリストへの信仰を告白するバプテスマへと導かれました。これが、正しい聖書の読み方、学び方です。キリストを信じ、救われ、キリストに結ばれるのでなければ、どんなに聖書を学んでも、それは単なる「勉強」で終わってしまい、本当には聖書を知ることにはならないのです。

 三、導く人

 このエチオピアの役人がその後どうなったかは、聖書に何も書かれていません。しかし、紀元一世紀にエチオピアに教会があったことは歴史によって知られています。やがてキリスト教はエチオピアの国教となりました。1974年にエチオピアで革命が起こるまで、歴代エチオピアの皇帝はキリスト教の擁護者でした。1974年といえば、1960年のローマ・オリンピックのマラソンで優勝したアベベが亡くなった翌年ですから、そんなに昔のことではありません。ピリポに導かれたこのエチオピアの役人は、古代から続いたエチオピア教会の礎を築き、エチオピアの王室に大きな影響を与えたと思われます。彼は、ピリポによって信仰に導かれました。しかし、それで終わらず、今度は、他の人をキリストに導く人になったのです。

 神の言葉を学んだ者がそれを他の人に教え、信仰に導かれた者が他の人を信仰に導く、そのようにして神の言葉は広まり、信仰が伝えられてきました。私は、そのことを日本でも、アメリカでも体験してきました。日本ではキリストに導かれた一人ひとりが、家族や友人を導く人となり、多くの人が、イエス・キリストを信じ、救われて行きました。アメリカでは、先輩のクリスチャンが教会に来た若い人たちの世話をし、その人たちが信仰を持ちたい、バプテスマを受けたいと言うと、私のところに連れてきました。私は、そうした人たちを信仰の告白とバプテスマに導きました。先にキリストに導かれた人が他の人をキリストに導く人になりました。もちろん、みんなが家庭集会を開いたり、そこでバイブル・スタデーをリードしたわけではありません。それぞれに奉仕の分野は違い、働きの賜物も違いました。しかし、誰もが、何かの形で他の人を導く奉仕に加わりました。神は私たちに、「導く人になりなさい」語りかけてくださっています。

 しかし、「導く人になりなさい」と言われても、「自分にできるのだろうか」と心配になります。ヘンリ・ナウエンは、そんな私たちの気持ちを代弁して次のように言っています。

愛する主よ、あなたの使徒ピリポは、エルサレムから帰国途中のエチオピア人巡礼者の旅に加わりました。エマオへ向かう者たちにあなたが加わったように、ピリポはその旅人に御言葉を説明し、それがあなたについて語っていることを明らかにしました。どうか私の奉仕が、そのようなものでありますように。人々の人生の旅路に加わり、あなたを見る目を開かせるものでありますように。多くの人が探し求めています。そのために学び、読み、議論し、書き、実行し、心の最も奥深くにある問いの答えを見つけようとしています。でも大勢の人が暗中模索のままです。私が彼らに加わり、そしてピリポがしたように、「読んでいることがお分かりになりますか」と尋ねる勇気をください。道であり、真理であり、命であるあなたについて語れる英知と確信をお与えください。そして、水と聖霊によるバプテスマを受ける用意が彼らの内にあるかを見分ける識別力をお与えください。しかし主よ、あなたがピリポに「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と語られた励ましを、どうか私にもお与えください。ご存じのように、私は内気で臆病です。自信と余裕をお与えください。アーメン。
ヘンリ・ナウエンでさえ、「私は内気で臆病です。自信と余裕をお与えください」と祈っています。私たちはなおのことです。しかし、イエスは、自分の弱さ、足らなさを知る者にこそ、共にいて、助けてくださるのです。主の前に正直に出て、「主よ。小さな器ですが、お使いください」と祈りましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちに「導く人」を与え、イエス・キリストを信じる信仰へと導いてくださったことを感謝いたします。私たちは、まだ天の御国への旅の途中にあります。どうぞ、私たちになおも導きを与えてください。また、私たちを、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」との声に答えることができる、他の人にとっての良い導き手としてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

2/7/2021