見よ、天が開けて

使徒7:54-56

オーディオファイルを再生できません
7:54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしていた。
7:55 しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、
7:56 「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。

 英語の名前の多くは、聖書から取られています。皆さんのまわりにも Peter、Paul、Mark、James などといった名前の人がたくさんいると思います。どれも人々に愛されている名前ですが、男性の名前の中でいちばん愛されているのは Stephen だそうです。聖書では「ステパノ」です。彼は、神に近く生き、教会の歴史で最初の殉教者になった人です。きょうは、このステパノについて、彼がどんな人だったか、また、彼が遺した模範にどうのようにならったらいいかを考えてみましょう。

 一、聖霊に満たされた人

 ステパノの名前が最初に出てくるのは、使徒の働き6章です。初代教会は、身寄りのないやもめの世話をしていたのですが、食べ物の配給のことで苦情が起こりました。使徒たちは、七人の人たちを選んで、その人たちにこの問題の解決を委ねることを提案しました。その人たちの条件は「聖霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち」(使徒6:3)というものでした。「聖霊と知恵に満ちた、評判の良い人たち」というのは、とても高い基準だと思いませんか。やもめへの配給の問題を解決するだけなら、実務的な能力さえあればよいように思います。けれども使徒たちは、この問題だけでなく、こののち、教会にさまざまな問題が起こっても、信仰によってそれに対処し、解決できるような人が立てられるよう願い、このような基準を求めたのです。この基準は、後に、教会で長老や執事が選ばれるときの基準となりました。ステパノは、その基準にかなう人として、多くの弟子たちから推薦され、選ばれた人でした。

 今では、やもめの世話など福祉的なことは、政府の手に委ねられましたが、当時の政府には「福祉」という考え方がなかったので、教会がそれをしました。今日でも、政府は金銭的・物質的な援助はできても、人と人とのつながりからくる心のケアまではできません。私の子どものころ、家と家とがくっついて建てられ、みんなが一つの井戸水から水を汲んで炊事や洗濯をしていました。自然と人と人とのつながりが生まれました。私は一人で家にいなければならなかったとき、近所の家で、その家族と一緒に晩御飯を食べさせてもらったことを覚えています。アメリカでは隣の家とはフェンスで仕切られていて、隣にどんな人が住んでいるのか分からないといったこともあります。そんなアメリカで、人と人とのつながりを与える役割を果たしてきたのは教会でした。私が奉仕した教会でも、ご主人を亡くした方々が「シングル・アゲイン」というグループを作っていました。また、高齢になって家に閉じこもりがちな人たちを引っ張り出すために「Go Go Plus」というグループがあって、私も、それに出るのを楽しみにしていました。

 しかし、そうしたフェローシップが、人と人との交わりだけで終わってしまったら、それは教会の働きとしては、とても残念なことです。教会は、「神の民」、「キリストのからだ」、そして、「聖霊の宮」です。教会は神が治めておられるところ、キリストに属するもの、そして、聖霊がおられるところです。ですから、教会の働きに携わる人には、何よりも神のためにそのことをしようとする信仰が求められます。ステパノは、「信仰と聖霊に満ちた人」と呼ばれていますが(使徒6:5)、他の6人もまた同じように、「信仰と聖霊に満ちた人」だったと思います。

 「信仰と聖霊に満ちた人」――これは「聖霊の満たし」がどんなものかを教えてくれます。「聖霊に満たされる」とは、「神がかり」になることではなく、神との関係や人との関係で正しく生きることであることは、エペソ人への手紙で学びました。聖霊は人に知恵や力を与えますが、それは人を「全知全能」にすることではありません。聖霊の満たしをそのようなものと考えるなら、とても危険です。ある伝道者が、大きな働きをしていたのに、罪を犯してそこから退いたとき、その時のことを反省して、「聖霊の知恵と力を注がれたとき、私は、人のために祈ることはあっても、他の人に祈ってもらう必要がないと感じたが、それが間違いだった」と言っていました。聖霊に満たされるとは、信仰に満たされることです。そして、信仰とは、神に頼り、神が備えてくださった人々の助けを願うことです。ですから、聖霊に満たされるとは、より、神に信頼するようになることなのです。聖霊に満たされた人は、聖霊の力によって、どんどん問題を解決していくというよりは、さまざまなチャレンジを受けるつど、より一層神に信頼し、聖霊の助けと導きを求めながらそれに取り組むことだろうと思います。聖霊に満たされるとは「スーパー・クリスチャン」になることではありません。自分の欠けたところを素直に認め、神がそれを満たしてくださることを信じ、神に信頼することです。そのような信仰が、私たちを聖霊の満たしへと導くのです。

 二、天を見上げた人

 ステパノは、また、天を見上げた人でした。ステパノは、「モーセと神を冒瀆する言葉を語った」という理由でユダヤの最高法院に連れていかれました(使徒6:11-12)。そのとき、イエスがこう言われた言葉を思い起こしていたことでしょう。「また、人々があなたがたを、会堂や役人たち、権力者たちのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しなくてよいのです。言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」(ルカ12:11-12)この言葉の通り、ステパノは聖霊によって神の言葉を語りました。そして、聖霊に満たされて、天を仰ぎました。55節に「しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、…」とある通りです。

 聖霊のお働きは、私たちに天を仰がせ、そこにおられるイエスを示すことです。ステパノが見たのは、「神の右に立っておられるイエス」でした。それで、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」(56節)と言ったのです。聖書は、イエス・キリストが「神の右の座に着いて」おられると言っているのに(マルコ16:19、ルカ22:69、ローマ8:34、コロサイ3:1、ヘブル10:12)、ステパノは、なぜ、イエスが「立っておられる」と言ったのでしょうか。それは、法廷で弁護士が弁護のため発言するとき、立って話し始めるからです。ユダヤの最高法院で誰一人弁護する者がなかったステパノのために、イエスが弁護する者として立ち上がってくださったのです。ステパノは、もうすぐ主のもとに行きます。イエスは、ステパノの霊を迎え入れようとして立ちあがられたのかもしれません。ステパノは、自分の命を狙う人々に取り囲まれた中で、天を見上げ、天におられるイエスを仰ぎ、そこにある助け、また救いを確信しました。天を仰ぐ者は、試練の中でも、希望を持ち、救いを確信することができます。私たちは小さな試練にもすぐうろたえる者ですが、天を仰げば、そこに救い主がおられます。ある人が言いました。「試練や困難で前も後ろも、右も左も塞がれていても、天は、いつでも開いている。」その通りです。私たちも、天を仰ぎ、そこに「神の栄光と神の右に立っておられるイエス」(55節)とを見るものでありたいと思います。

 三、イエスにならった人

 ステパノは、「聖霊に満たされた人」、「天を見上げた人」でしたが、それとともに「イエスにならった人」でした。コリント第二3:18に「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」とあるように、信仰者は、イエスに目を向けることによって、聖霊によってイエスに似た者、イエスにならう者へと変えられていきます。ステパノは、そのようにしてイエスの姿に近づきました。使徒6:15に、「最高法院で席に着いていた人々が、みなステパノに目を注ぐと、彼の顔は御使いの顔のように見えた」と書かれています。天使は常に神の御顔を仰いでいますので、その姿に神の栄光が反映しているのですが、天を見上げ、イエスを仰ぎみていたステパノもまた、イエスの栄光を反映して、御使いの顔のように見えたのでしょう。

 こんな話があります。ジョージが、ある人から就職の世話を頼まれました。そこで、ジョージは、親友のABCカンパニーの社長トムに頼んで、その人と面接してもらうよう頼みました。ところが、その人が面接で落ちたと聞いて、ジョージはトムに「どうしてなんだ」と聞きました。すると、トムは「彼は表情が悪い」と答えたのです。「それが理由なのか。きみは、見た目だけで人を判断するのか」と言うと、「その人の内面は表情に表れる。人は表情に責任を持つべきだ」との返事が返ってきました。トムの言葉には一理あると、ジョージも納得したというのです。人の顔のつくりは、親から受け継いだもので、その人の責任ではありません。しかし表情はその人が生みだすもので、その人に責任があります。表情の背後には、その人の内側にあるものが反映するからです。こんな話もあります。あるクリスチャンが、クリスチャンでない人たちのグループに参加しました。すぐには自分がクリスチャンだとは言わなかったのですが、そのグループの一人から、「あなたは、なんとなく、清らかな感じがする。もしかして、クリスチャンですか?」と言われたそうです。クリスチャンの内面にある愛や喜び、平安や聖さは隠すことができません。おのずと表れるようになります。それによって、周りの人々に神の素晴らしさを証しし、慰めや励ましを与えることができるのです。

 ステパノは、殉教のとき、イエスにならい、イエスの足跡をたどりました。自分に石を投げつけてくる人々のために祈りました。60節に、こうあります。「そして、ひざまずいて大声で叫んだ。『主よ、この罪を彼らに負わせないでください。』こう言って、彼は眠りについた。」これはイエスが、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ23:34)と祈られた祈りと同じです。また、イエスは息を引き取られる時、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」(ルカ23:46)と言われましたが、ステパノもまた、「主イエスよ、私の霊をお受けください」(59節)と祈っています。ステパノはイエスとともに生涯を歩み、イエスのもとに行くときも、イエスと同じように心から人々を赦し、自分の霊をイエスに委ねました。

 イエスとともに歩み、イエスに従い通し、イエスを証しするために殉教したステパノ。ステパノがイエスにならって、その足跡を歩んだように、私たちも、少しでも、ステパノを模範にし、手本にしたいと思うのですが、ステパノがあまりにも素晴らしすぎ、輝かしすぎて、近づきにくいと感じることがあるかもしれません。けれども、私たちのたましいには、イエスにならい、イエスに似た者になりたいとの願いがあります。その願いに素直になり、あきらめずに求め続けましょう。

 かなり古い話ですが、前畑秀子さんといえば、戦前のベルリン・オリンピックで女子二百メートル平泳ぎで新記録を作って優勝した人です。実況中継をしていた日本のアナウンサーが興奮して、「前畑ガンバレ、前畑ガンバレ」と叫び続けたというエピソードは皆さんもご存知でしょう。実は、秀子さんは、子どもの頃病気ばかりしていて、痛々しいほどやせて小さかったそうです。五歳になっても、三歳が四歳ぐらいにしか見えませんでした。それで秀子さんのお母さんは、何とか丈夫な子どもに育てたいと思い、毎日秀子さんを町外れの川まで連れていって、そこで泳がせました。丈夫な、人並みの体格を持った子どもに成長して欲しい、そういう母親の願いが、あの前畑選手を生みました。困難を乗り越えてきた人々はみな、今、目に見えるところだけであきらめたり、失望したりせず、まだ目に見ていないことも、やがて実現すると信じて努力してきました。神を知らない人でもそうするとしたら、クリスチャンはなお、そうありたいと思います。聖霊によってイエスを仰ぎ、イエスにならう者になる。そのことを熱心に祈り求めましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちも、聖霊に満たされて困難に立ち向かい、天を見上げ、イエスを仰ぎ見たいと願います。聖霊の恵みによって、私たちを、イエスにならう者としてください。主イエスのお名前で祈ります。

6/15/2025