7:54 人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。
7:55 しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。
7:56 そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、
7:58 彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。
7:59 こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。
7:60 そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。
「主の祈り」は「天にまします我らの父よ」という、神への「呼びかけ」から始まります。もとの言葉は、「父よ、我らの、天にまします」という順序で、「父」という言葉から始まっているのですが、日本語では「天」という言葉から「主の祈り」が始まっています。これはとても意味深いことだと思います。なぜなら、「祈り」とは、天を仰ぐことだからです。実際、ユダヤの人たちは、祈るとき顔を上に上げ、手を高くあげて祈りました。そうすることによって、天におられる神を意識したのです。たとえ手を組み、頭を下げて祈ったとしても、心の中では天を仰ぎ、天におられる神を見上げたいと思います。それは祈りにおいてとても大切なことだからです。今朝は、神が天におられるということはいったいどういうことなのか、神を天におられるお方として祈ることが、どんなに大切なことなのかをご一緒に考えてみましょう。
一、天の神
「神が天におられる」ということの意味を知るために、最初に「天」という言葉について考えてみましょう。聖書では「天」という言葉は、三つのものを表わしています。第一は地球を取り囲む「大空」、第二が、その大空のかなたに広がる「宇宙」、そして第三は、神がおられる場所としての「天」です。大空が第一の天、宇宙が第二の天、そして神のおられるところが「第三の天」(コリント第二12:2)というわけです。
人類は飛行機を発明し、大空を飛べるようになりました。第一の天を手に入れたのです。そして、今日、人類は第二の天に到達しました。1961年、ソビエトのユーリ・ガガーリンが最初の宇宙飛行を果たしました。アメリカはそれに追いつき追い越そうと月への有人探査を試み、8年後の1969年、ニール・アームストロング船長は月に人類最初の足跡を残しました。それからの宇宙開発は、皆さんがよくご存知のとおりです。ここ数十年のうちにサテライト・テレビや GPS など、人工衛星を使っての技術はわたしたちの生活の一部にまでなりました。
では、このまま技術が発達していけば、人間は、いつかは科学の力で第三の天にたどりつくことができるのでしょうか。いいえ、第三の天には科学の力では行くことができません。第一の天である大空のかなたに第二の天である宇宙があり、第一の天と第二の天はつながっています。しかし、第二の天と第三の天は、物理的につながってはいません。第三の天は第一の天や第二の天の延長にあるのでありません。それは、第一の天や第二の天とは別の次元のものです。
神のおられる第三の天は、わたしたちが見て、聞いて、触れることのできる領域を超えています。かつて人々は、神は高い山や深い森などに住んでおられると考えました。そして、山や森などの自然そのものを神として崇拝してきました。お伽話では、神は雲の中に浮かぶ宮殿に住んでおられるとされています。古代の人々は太陽や月、星を神々とし、神は宇宙に住んでおられると考えました。しかし、聖書の言う、神の住まわれる「天」は大空でも、宇宙でもなく、それを超えたところにあるのです。
「超えている」というのは、「上位にある」ということです。わたしたちの住む地球とその自然がどんなに素晴らしいものであっても、また、大宇宙がどんなに広大なものであっても、それが神ではありません。それらは、神によって造られたものにすぎません。神は、創造者として、あらゆる被造物の上におられるのです。すべて造られたものは、神によって支配され、支えられ、導かれています。神は天の御座からすべてを支配しておられるのです。「天」という言葉は、神が人間の世界、物質の世界を超えてはるかに偉大なお方であることを表わしています。神に「天にまします…」と祈るのは、神を創造者、支配者として崇め、信頼するということなのです。
二、天を仰ぐ
聖書の信仰者たちは天を仰ぎ、この偉大な神を思い、その神に信頼しました。アブラハムは、跡継ぎになる息子がいないことで気をもんでいました。そのとき神はアブラハムを天幕から外に連れ出し、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」と言われました。夜空に散りばめられた満天の星を数えられるはずがありません。そのとき、神はアブラハムに「あなたの子孫はあの星のようになる」と言われました。アブラハムは文字通り「天を仰いで」、全能の神の約束を信じました(創世記15:1-6)。ヤコブは、父イサクをだまして長子の特権を奪ったため、兄エサウの怒りを買いました。そして叔父の住むハランへと逃れていきました。その逃亡の旅の途中、ベテルで夢を見ました。その夢は、ひとつのはしごが地面の上に立っていて、それが天にまで届いており、そこを天使たちが上り下りしているというものでした。そして、ヤコブは「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る」(創世記28:15)との神の言葉を聞きました。ヤコブもまた、「天」を思い、「天の神」に信頼したのです。
預言者イザヤは、外国の侵略におびえきっていたユダヤの人々にこう言いました。
目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。主は数をしらべて万軍をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる。その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、一つも欠けることはない。ヤコブよ、何ゆえあなたは、「わが道は主に隠れている」と言うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、「わが訴えはわが神に顧みられない」と言うか。(イザヤ40:26-27)ユダヤの人々は神を知り、信じていました。しかし、きょうはあの大国が、あすはあの帝国が襲ってくる。こうなったらおしまいで、神に祈っても、願ってもしょうがないと思うようになっていたのです。人々は、神が天におられること、すべての国々の支配者であることを、頭では理解していたでしょうが、心の底から信じ、神に頼ることをしていなかったのです。困難や苦しみの中で、神を見上げることを忘れていたのです。
わたしたちもさまざまな問題にぶつかるとき、神を仰ぎ見ることを忘れているわけではなくても、神よりも問題のほうに目が行ってしまいます。この問題はどうにもならないのだとあきらめたり、自分の力でなんとかしようとして心をすり減らしたりしています。祈ってはいても、問題ばかりが大きく見えて、何の答えも見つけられず悶々としてしまうことがあります。ある信仰の指導者が、そんな状態に陥った人に、「君、自分のへそばかり見ていても、何の答えもないよ。天を見上げなさい。神を仰ぎなさい」というアドバイスを与えたそうですが、ほんとうにその通りです。信仰とは、祈りとは、自分だけを、問題だけを見つめることではなく、それを超えて偉大な神を見上げることなのです。解決が神から来ると信じることなのです。
信仰者の歩みは、何の困難もなく、「それゆけ、ドンドン」と突き進んでいくだけのものではありません。問題が四方から押し寄せてくる、八方ふさがりの行き止まりのようなところに追いやられる、そんな時もあります。使徒パウロも宣教の働きの中で何度もそんな状況に追い込まれました。しかし、パウロはこう言いました。
わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。(コリント第二4:8)パウロにも患難があり、四方からの圧迫がありました。しかし、「窮しない」「行き詰まらない」と言っています。なぜ、パウロはそう言うことができたのでしょうか。それはいつも天を仰いでいたからです。四方八方がふさがっていても、上は開いています。天を仰ぐ時、そこに助けがあるのです。神を信じる者の幸いは、上を見上げることができることにあります。他の人が投げ出したり、あきらめたりしても、なお、上からの助けを求めることができるのです。ギリシャ語で「人間」という言葉には「上を見る者」という意味があります。鳥が地面ばかり見て餌をついばみ、動物も四足で地面を這うようにして歩いている中で、人間だけが、上を、自分以上の世界を、自分の造り主を仰ぎ見ることができるように造られています。信仰によって、人間に本来備わっている、この力を取り戻したいと思います。
使徒行伝には、殉教者ステパノが「天を仰いだ」ことが記されています。イエス・キリストを力強く証ししたステパノはそのために議会に連れてこられ、大祭司の審問を受けました。ステパノの弁明に人々は激しく怒りましたが、ステパノは聖霊に満たされ、天を見つめていました。するとそこにイエスが神の右に立っておられるのが見えました。ステパノは思わず「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言いました。聖書の他の箇所では、イエスは神の右の座に座っておられるとありますが、このときは「立っておられた」のです。それは、議会での法廷に対して、主イエスご自身がステパノの弁護人として立っていてくださるということを意味していたと思います。また、この後ステパノはエルサレムの街の外に引き出され、石打ちの刑を受けますので、主イエスが立っておられたのは、ステパノの霊を天に迎えるためだったかもしれません。ステパノは石で打たれている間、自分に石を投げつける人たちのために「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と祈り続けました。
たしかに、「殉教」というのは特別なこと、殉教するほどの人は並外れてすぐれた信仰者なのかもしれません。しかし、天を仰ぐことは特別な信仰者だけのものではなく、すべての信仰者ができることです。殉教の時だけ天が開くのではなく、日常の祈りの中でも、天が開けて、神の栄光を、主イエスの栄光を見ることが許されるのです。主イエスは「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイ7:7)と言われました。「開けてもらえる」というのは「天の扉」のことです。真心から、また、熱心に祈る者のために天の扉は開き、その中にある神の恵みが与えられるのです。「主の祈り」を祈るとき、天を見上げ、神を仰ぎ見、心を込めて、「天にましますわれらの父よ」と呼び求めましょう。そのとき神は、わたしたちに、天におられるお方としてのご自身の栄光をわたしたちに示し、また、天の栄光を示してくださるのです。そのようにして、天がわたしたちにとってももっと身近なものになり、天を仰ぐことが喜びとなるのです。
(祈り)
神さま、あなたは天におられ、すべてを治めておられます。地上のものに、この世のことに思いが行きがちなわたしたちに、もっと天のことを思う思いを与えてください。そのために天からの書物、聖書に親しみ、天とのコミユニケーションである祈りに励むわたしたちとしてください。「天にまします我らの父よ」と祈るように教えてくださった、主イエスのお名前で祈ります。
4/12/2015