6:1 そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。
6:2 そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。
6:3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。
6:4 そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」
6:5 この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、
6:6 この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。
6:7 こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。
一、教会の成長
「使徒の働き」は初代教会の記録です。これを読むと、教会が目覚しい勢いで成長したことが分かります。主イエスは、天にお帰りになる前に、エルサレムにとどまって聖霊が与えられるのを待つよう、弟子たちに命じましたが、その時の弟子たちはおよそ120名でした。使徒1:15に「百二十名ほどの兄弟たち」とありますから、120名というのは男性だけの数です。エルサレムに集まっていた弟子たちの中には女性もいたと記されていますから(使徒1:14)、実際の数は200名ぐらいだったでしょう。ところが、ペンテコステの日に聖霊が弟子たちにくだり、彼らが力強く神のことばを宣べ伝えると、その日だけで3000人がバプテスマを受けて、弟子たちの群れに加えられました(使徒2:41)。主は、毎日、イエス・キリストを信じて救われる人々を教会に加えてくださり、あまり日がたたないうちに、弟子の数が男性だけでも5000人になりました(使徒4:4)。女性やこどもを加えれば、一万人以上の人々がエルサレムでイエス・キリストを信じる者となったのです。使徒5:14には「主を信じる者は男も女もますますふえていった。」とあり、使徒6:7には「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで弟子の数が非常にふえて行った。」とあります。聖書は、はっきりした数字をあげてはいませんが、学者たちは、数万の弟子たちがエルサレムにいて、当時のエルサレムの人口の40パーセントから60パーセントがキリストを信じる者になったと推測しています。アメリカの日本人社会ではクリスチャン人口が3パーセント、日本では1パーセントだと言われています。日本のクリスチャンは、たとえ数は少なくても、人々に良い影響を与え、社会に大きな貢献してきました。学校や病院、さまざまな福祉施設の多くは、クリスチャンによって始めらたものです。日本のどの町にも教会があり、アジアを中心に多くの国々に宣教師を送り出しています。政治家や実業界の中にもクリスチャンがいます。数パーセントのクリスチャンでも、これだけのことが出来たとすれば、数万のクリスチャン、人口の半数にもなる人々が、どんなに大きな影響を人々に与えたかは、容易に想像できます。
この人々によって、神のことばは「地域」を越えて広がっていきました。教会はエルサレムで始まりましたが、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの各地にも教会が建てられました。使徒9:31に「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数が増えて行った。」とあります。
次に、神のことばは「人種」を越えて広がりました。最初、神のことばはユダヤの人にしか伝えられていませんでした。しかし、ペテロがローマの百人隊長に伝道し、アンテオケのクリスチャンたちがギリシャ人にも、主イエスを宣べ伝えとことによって、「異邦人」と呼ばれる人々もまたキリストを信じ、アンテオケに異邦人の教会が出来あがったのです。使徒11:24に「こうして、大ぜいの人が主に導かれた。」とあります。ユダヤ人だけでなく、異邦人も救いにあずかったのです。
さらに、神のことばは、「国境」を越えて広がりました。アンテオケは、エルサレムやユダヤから遠く離れた町でしたが、エルサレムからアンテオケにいたる地域はひとりの総督が治める同じ州でした。しかし、アンテオケ教会から派遣されたバルナバやパウロによってキリキャやガラテヤなどといった他のアジア州にも福音が宣べ伝えられ、神のことばは国境を越えるようになったのです。使徒16:5には「こうして諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った。」とあります。
また、神のことばは、「文化」を越えて伝えられていきました。今日のトルコとギリシャの間にエーゲ海がありますが、このエーゲ海は、当時はアジアとヨーロッパを隔てるものでした。ところがパウロは、第二回目の伝道旅行の時、神から与えられたヴィジョンに従ってこのエーゲ海を渡り、ヨーロッパ世界にも神のことばを宣べ伝え、第三回目の伝道旅行でも再びマケドニヤ州のピリピやテサロニケの教会、アカヤ州のコリントの教会を訪ねています。使徒19:20は、パウロの伝道旅行について、「こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。」と報告しています。
神のことばは、「地域」を越え、「人種」を越え、「国境」を越え、「文化」を越えて広まって行き、神のことばが宣べ伝えられるところに教会が建てられ、教会が建てられたところで、さらに神のことばが宣べ伝えられて行ったのです。
二、問題による成長
このような目覚ましい教会の成長、伝道の拡大はどのようにして起こったのでしょうか。先ほど引用した五つの聖句ですが、「こうして神のことばは、ますます広まって行き…」(使徒6:7)「こうして教会は、…聖霊に励まされて前進し続けた」(使徒9:31)「こうして、大ぜいの人が主に導かれた。」(使徒11:24)「こうして諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った。」(使徒16:5)「こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。」(使徒19:20)と、そのどれも、「こうして」と言われています。「こうして」とは、「どうして」なのでしょうか。それが分かれば、教会の成長の秘訣、伝道の方策を見出すことができるはずです。今朝は、最初の「こうして」とある箇所、使徒6:1-7からふたつのことを学びましょう。
まず第一は「教会は問題によって成長する。」ということです。
人々は、教会にはどんな問題もなく、欠けたところもないと思いがちですが、そうではありません。確かに、教会は、他の団体や組織とは全く違うもの、この世に属するものではなく、神に属するものです。教会には、他のところにはない、神のことばと神の臨在があり、私たちはそこから恵みと平安、祝福と力とを得るのです。教会は天国の出張所のようなところですが、しかし、天国そのものではありません。教会は神がそこにおられる神殿ですが、この神殿は完成されたものではなく、いまだ建設中のものです。教会は神の守りの中にありますが、この世にある間は、なおさまざまな罪と悪との戦いの中にあり、最終的な勝利を待ち望んでいます。ですから、教会にもさまざまな問題が起こります。他のところでは、問題にされないことでも、教会が教会であるゆえに問題にされなければならないこともあります。特に聖書の教えの基本的なことがらにおいては、決して譲れないもの、譲ってはいけないものがあります。教会が目指すところと、この世が目指すところには根本的に違いますから、教会は絶えず、この世からのチャレンジを受けるのです。そして、神は、教会内のトラブルも、外部からのチャレンジも、教会を成長させるために、神のことばが広がっていくために用いられるのです。
使徒の働き6章にあるトラブルは、教会内のやもめたちへの食糧の配給に関してのことでした。当時の社会は、貧富の差が極端で、「福祉」という考え方がありませんでしたので、教会が、貧しい人たちを助けていました。とくに寡婦となった女性に対しては、手厚い保護がなされ、どの教会にも「やもめの名簿」というものがあったようです(テモテ第一5:9)。この時のエルサレム教会では、豊かな人たちがその財産を売って代金を教会にささげ、それが貧しい人々に分け与えられました。使徒4:34には「彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。」とありますから、教会は、貧しい人たちに対して十分な配慮をしていたことを示しています。しかし、どんなに細心の配慮をしていても、人の集まるところには、何らかのトラブルが起こるものです。ギリシャ語を話すユダヤ人から「ヘブル語のやもめたちには毎日配給があるのに、私たちには、配給がない日がある。」という苦情が出ました。ひょっとしたら、「あの人たちに配られるパンにくらべて、私たちに配られるパンは小さ目だ。あの人たちに配られる野菜にくらべて、私たちに配られる野菜は新鮮ではない。」などといったことまでつぶやかれたかもしれません。
「食べ物の恨みは恐ろしい。」と言いますが、このトラブルは、たんに食べ物の問題だけだったのでしょうか。聖書がわざわざ「ギリシャ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立ててた。」と書いているように、この背景には、ヘブル語を話す人たちとギリシャ語を話す人たちとの間の不一致があったようです。ギリシャ語を話すユダヤ人というのは、外国生まれのユダヤ人で、外国から、母国に帰ってきたのですが、まだヘブル語を話せないでいる人たちのことでした。この人たちは、ことばの壁もあって、いろいろな面で肩身の狭い思いをしていたのでしょう。日本語を話す私たちは、英語を話す人々に取り囲まれて仕事をし、生活をしていますので、ギリシャ語を話すユダヤ人のフラストレーションが少しは分かるような気がします。初代教会は、バイリンガル、マルタイ・カルチャーの教会でした。それだけでも様々なトラブルが起こる要素が数多くありました。しかし、教会は、ことばの壁、文化の壁を乗り越えてひとつとなっていかなければなりませんでした。「やもめたちへの配給」のトラブルには、教会の霊的一致という大きな問題を含んでいましたが、神は、このトラブルを通して、教会にさらに一致を与えようとされたのです。7節に「こうして神のことばは、ますます広まって行った。」とあるように、教会は、この問題によって、もっと正確に言うなら、この問題を解決することによって成長して行ったのです。教会は問題のないところではありません。しかし、教会は問題を解決していくところです。そして、教会の問題が解決される時、神のことばはさらに広がっていくのです。ですから、私たちは、教会の問題をただ批判するだけで終わったり、傍観者となってできるだけ関わらないようにしようとするのでなく、主の導きと助けによって、問題の解決を求めていきたいと思います。
三、人物による成長
この箇所が教えている第二のことは、「問題は人物によって解決する。」ということです。
組織を動かすのに Material(物)、Money(金)、 Method(方法)、 Management(管理)など "M" で始まるものが必要です。しかし、"M" で始まるものの中で一番大切なのは、Man(人物)です。神は、常に「人」をお用いになります。お金や、方法、管理は「人」に比べれば二義的なものです。神は、神の民を救い出すために、モーセを選び、ヨシュアを選び、サムエルを選び、ダビデを選ばれました。そして、全世界の、すべての人の罪の問題を解決するために、神の御子が「人」となられ、神は、「人としてのキリスト・イエス」(テモテ第一2:5)を救い主として選ばれたのです。「問題」を引き起こすのは「人間」ですが、それを解決するのも「人間」なのです。
使徒たちが「やもめたちへの配給」の問題を解決するためにしたことは、「人」を選ぶことでした。使徒たちは、弟子たちに、この問題を解決できる人を七人を選ばせましたが、その七人は「御霊と知恵とに満ちた人」(3節)、あるいは「信仰と聖霊とに満ちた人」(5節)でなければなりませんでした。「やもめたちへの配給」というのは、直接には霊的な問題ではなく、きわめて日常的な食べ物の問題でした。ですから、やもめたちへの配給を平等にするために、何かのルールを決めるなどといった対応をすればよかったのかもしれません。それに、せいぜい、ひとりかふたりの人で事足りたかもしれません。しかも、「信仰と聖霊に満ちた人」などという資格よりも、「マネージメントのできる人」という資格だけで良かったかもしれません。しかし、やもめたちへの配給の問題の背後には、「教会の一致」という霊的、信仰的な問題がありました。それで、使徒たちは、この問題を解決する人に霊的、信仰的な資質を求めたのです。
この基準は、今日も変わることがありません。小さな問題の背後に、大きな霊的、信仰的な問題が横たわっていることがあるからです。教会は、どんな問題からでも、霊的、信仰的に成長しなければなりません。それで、聖書は、教会の執事は「きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人」(テモテ第一3:9)であるようにと教えているのです。「信仰の奥義を保っている人」というのは、イエス・キリストが主であり、神であり、救い主であることをきちんと理解し、信じている人、主イエスと、表面的なかかわりではなく、自分の罪を悔い改める素直な心で主イエスを愛し、主イエスとの親しい交わりを持っている人、この世の思想や、人間的なものの考え方、また、間違った教えに引っ張られないように、いつもみことばに耳を傾けている人のことです。これは、すべてのクリスチャンに求められていることですが、とりわけ、教会で問題解決にあたる人には、他のどんな能力よりも、こうした霊的、信仰的な資質が求められているのです。
みなさんは、こうした聖書が求める「資格」や「資質」について聞いた時、それに対してどう反応しますか。ある人は、「あの人は、聖書が教えている資格を持っていない。」と、真っ先に考えるかもしれません。しかし、聖書は、他の人のために読むべき書物ではなく、自分のために読む書物ですから、他の人を批判する前に、自分はどうだろうかと考えてみる必要があります。次に、「どうせ私には資格がないのです。だから何もしないのです。」という人もあるでしょう。神は、私たちを責めたり、退けるために「資格」や「資質」を持ち出しているのではありません。「自分もその資格に到達したい。資格のない者かもしれないが、恵みによってそのような資質を持ちたい。」と願うのが信仰の姿です。また、「私は、他の人のように立派でもないし、その人たちがしているようなことはとてもできません。」と引っ込んでしまう人もあるでしょう。謙虚であることは素晴らしいことですが、主があなたを強くしようとしておられるのを受け入れようとしないのは、ほんとうの謙遜ではありません。テモテ第一3:13には「執事の努めをりっぱに果たした人は、…キリスト・イエスを信じる信仰について強い確信を持つことができるからです。」とあります。神があなたに与えてくださった奉仕、与えようとしておられる奉仕は、神が、それによってあなたの信仰を強めようとしておられるものなのです。そこから退くことによって、神があなたを「信仰の奥義を保っている人」にしようとしておられる機会を無駄にしてはならないと思います。
このことで、私はある兄弟が話してくれたことを思い出します。日本でのことですが、そのころ、私たち夫婦が奉仕していた教会は、新しい教会堂を建てる必要に迫られ、僅かな人数でしたが、それを実行しました。大きな借金があり、牧師給も、月末にやっと届くという状態でした。ですから、会計の奉仕をすることになったこの兄弟は「これは大変なことになった。教会の会計をすると信仰がダウンすると聞かされてきたので、できれば会計の奉仕はしたくなかった。」と思ったそうです。ところが、教会は大きな祝福を受け、経済的にも満たされ、建物のための借金も予定よりもずいぶん早く返済することができるようになりました。この兄弟は「苦労した時もありましたが、毎月、奇蹟のように会計が満たされていきました。会計をさせていただいた私が、誰よりも先に、神さまのみわざを見ることができ、私の信仰がとても強められました。」とあかししてくれました。神は、神に従う者を霊的、信仰的に育て、恵みによって、私たちを資格にかなうものへとひきあげてくださるのです。
ほんとうに謙虚な人は、自分の足らなさだけでなく、神の恵みに目を向ける人です。神は、そのような人を今も、求めておられます。聖書は、言っています。「この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。」(6-7節)「私を、みこころにかなうものにしてください。そして、みわざのために用いてください。」と神の前に立つ人が起こされる時、神のことばは広まり、教会は成長するのです。私たちも、神の恵みによって、神の前に立つ者となろうではありませんか。
(祈り)
父なる神さま、教会が問題を解決して行く時、神のことばが広まり、教会の問題は、聖霊と信仰に満ちた人によって解決されるという原則を学びました。この原則にしっかりと立ち、なによりも、聖霊と信仰を求めていく私たちとしてください。教会のかしら主イエスのお名前で祈ります。
5/7/2006