この御名のほかに

使徒4:5-12

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4:5 翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まった。
4:6 大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。
4:7 彼らは使徒たちを真中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。」と尋問しだした。
4:8 そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。
4:9 私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、
4:10 皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。
4:11 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。
4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

 一、御名の持つ力

 今読んだ箇所は、ある人が癒やされたことから起こった一連の出来事のうちの一部分です。全体が良く分かるために使徒2:43にさかのぼって見てみましょう。使徒2:43-47はペンテコステの日に始まったばかりの教会の姿を描いています。そこに「毎日、心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き」(使徒2:46)とあります。「家々でパンを裂き」の「パン裂き」は聖餐のことです。イエスを信じる者たちはエルサレムでは会堂から追放されていましたので、安息日に会堂で礼拝することはできませんでした。それで地域ごとにそれぞれの家に集まり、聖餐を中心とする教会独自の礼拝を守りました。そして、それ以外の日は神殿に集まって祈りました。イエスが神殿を「わたしの父の家」(ヨハネ2:16)、また、「すべての民の祈りの家」(マルコ11:17)と言われたからです。使徒3:1に「ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った」とありますが、それは特別なことではなく、使徒たちや信者たちが毎日していたことでした。

 しかし、ある日、特別なことが起こりました。ペテロとヨハネが「美しの門」というところから神殿に入ろうとしたとき、ひとりの物乞いがペテロに施しを求めました。この人は生まれつき足の不自由な人でした。ペテロは、この人が金銭を求めたのに対して、こう言いました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」すると、生まれてこのかた四十年立ったことも歩いたこともなかったこの人は立ち上がり、喜びのあまりおどりだしました。ペテロは、この人に金銭以上のもの、どんなに大金を医者に払ってもできないこと、神の癒やしを与えました。

 もちろん、ペテロが自分の力で、この人を癒やしたのではありません。この人を癒やしたのは「イエスの御名」です。使徒3:16で、「そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです」とペテロが言った通りです。使徒たちは、イエスが地上におられたときから「癒やし」の権威を授けられていました。それはイエスが天にお帰りになって、無くなりはしませんでした。むしろ聖霊によってより一層強められました。使徒たちは、癒やしをはじめ、力あるわざを行い、イエスが今も生きておられ、救いのみわざを行っておられることをあかししましたが。それは、使徒たちが「イエスの御名」を持っていたからでした。

 初代教会はこの世の富や権力を持っていませんでしたが、この世のどんなものにも勝る霊的な権威を持っていました。何世紀か経つにつれ、教会はこの世の権力を持つようになり、それと共にこの世のものが教会に入ってくるようになりました。今日、メガ・チャーチと呼ばれる教会は、大規模な予算を持つようになりましたが、その中には「金銀」を持つようになったかわりに「イエスの御名」を失い、真理を失い、霊的な力を失っているものがないわけではありません。最近、“American Gospel” というドキュメンタリーを観ましたが、“Money!” と叫ぶ説教者や、まるでお城のような豪邸に住み、プライベート・ジェットを乗り回している TV プリーチャーが登場していました。そうなると、それはもはや神の働きではなく、宗教ビジネスでしかありません。その人たちには、巧みなスピーチの能力はあるかもしれませんが、ペテロのように「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう」と言って語ることができる、人のたましいを癒やす福音の言葉を持っていないのです。教会に、また、信仰者ひとりひとりに大切なことは、「イエスの御名」をしっかり保っていることです。私たちは、「イエスの御名」から来る信仰の力や希望の言葉、愛の行いを、「私にあるものを上げよう」と言って、いつでも他の人々に分かち与えることができる者であり続けたいと思います。

 二、御名のゆえの苦しみ

 ペテロが、この人を癒やした後、人々にイエス・キリストを宣べ伝えていると、「祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たち」がやってきて、ペテロとヨハネを捕まえ、留置所に入れました。翌日、「民の指導者、長老、学者たち」が召集され、大祭司アンナスとカヤパもやってきました。ペテロとヨハネは、彼らの前に引き出され、尋問を受けました。

 「大祭司アンナスとカヤパ」は、イエスを罪に定めた人たちです。アンナスはカヤパのしゅうとで、イエスはまずアンナスのところに送られ、それからカヤパに引き渡され、さらに総督ピラトの手に渡されたのです。ペテロとヨハネもイエスと同じように彼らの前に立たされましたが、これは、イエスが、あらかじめ話していた通りでした。ルカ21:12にこうあります。「しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。」弟子たちは「イエスの御名」で人を癒やす権威を持っていました。しかし、それは、弟子たちがどんな苦しみからも守られるということではありませんでした。むしろ、イエスの御名を宣べ伝えることによって苦しみを受けるだろうと、イエスが言われた通りです。イエスは「わたしの名のために、みなの者に憎まれます」(ルカ21:17)とも言われました。弟子たちは良いことをして憎まれました。しかし、憎まれてもなお、人々を愛して良いわざに励みました。そのことによって、福音は広まっていったのです。弟子たちが受けた「イエスの御名」のゆえの苦しみは意味のないものではありませんでした。弟子たちがその苦しみを耐え忍び、それに打ち勝つことによって、「イエスの御名」はさらに広まったからです。

 今日、アメリカのキリスト者は「御名のゆえの苦しみ」を忘れてしまっているかもしれません。誰か他の人に神の愛を分かち合い、イエス・キリストを知らせようとするのは、決して楽にできることではありません。そこには労苦がありますが、そうした労苦やそのための時間をいとうようになりました。電話をしたり、Eメールや手紙を書いたりといったことでも、それを続けるのは簡単なことではありません。そうしたことは、自分の楽しみを優先させるメンタリティを持つ人には余分な労苦かもしれません。しかし、「イエスの御名」のための労苦は、それがどんなに小さなものでも、報われないものはありません。御名のゆえの労苦を進んでする者は、イエスの御名の素晴らしさを知り、また、それを知らせることができるようになるでしょう。

 三、御名による救い

 さて、祭司長たちは、ペテロとヨハネに、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」と言いました(7節)。それに対してペテロはこう答えました。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。」(8-11節)なんと堂々とした答でしょう。ペテロは、イエスがカヤパによって尋問されていたとき、「あなたはイエスの弟子だろう」と言われ、「わたしはイエスなど知らない」と三度もイエスの御名を否定した人物です。そのペテロが、ここでは、「だれの名によってこんなことをしたのか」との問いに、「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです」(8-10節)と答えています。ペテロが、ユダヤの指導者たちの前でも臆することなくイエスの御名をあかししたのは、ペテロ自身が、イエスの御名によって、強められていたからでした。イエスの御名を宣べ伝える者は、その御名によって強められ、支えられるのです。

 ペテロはさらに、詩篇118:22から引用して、「『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです」と言いました。「捨てられた石」とは、イエスのことです。ユダヤの指導者たちはイエスを捨て、罪に定め、亡き者としました。しかし、神はイエスをよみがえらせ、神の国の礎とされました。エペソ2:19-20に「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」とある通りです。

 ペテロは、イエスを罪に定めた大祭司を前に、「あなたがたはイエスを十字架につけた」と言いました。人が犯す罪で、神の御子を殺すこと以上の罪はありません。ペテロは人々が犯した罪を責めました。しかし、それだけでなく、神はそのような恐ろしい罪を犯した者をも救うために、イエスをよみがえらせてくださったと言いました。ペテロが「あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった」という言葉を引用したのは、神の救いの計画は、人の罪によってくじかれるものではない。人はイエスを捨てても、神は、イエスを救いの岩とされた。人はイエスを死なせたが、神はイエスを死者の中からよみがえらせたと、神の救いをあかしするためだったのです。

 そして、ペテロはこう宣言しました。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(12節)ユダヤの指導者たちは、使徒たちが「イエスの御名」によって癒やしを行い、「イエスの御名」を宣べ伝えていることを知らなかったわけではありません。彼らもまた「イエスの御名」が持つ力を認めていました。だからこそ、使徒たちがこれ以上「イエスの御名」を宣べ伝えることがないようにしたかったのです。「イエスの御名」こそ、救いの御名です。人を救う、ただひとつの御名です。それは、今も、世界中の人々が、「イエスの御名」に救われていることによって証明されています。

 盲人のバルテマイは「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫んで目を明けてもらいました(マルコ10:47)。十人のらい病人は「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と声を張り上げ、らい病をきよめてもらいました(ルカ17:13)。十字架上の強盗は「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」(ルカ23:42)と言って、パラダイスを約束されました。ペテロは、ペンテコステの説教で「主の名を呼ぶ者は、みな救われる」という旧約の預言を引用しています(使徒2:21)。ペテロは、イエスとともに過ごし、「イエスの御名」に救いがあることを、間近に見、彼自身もそれを体験していましたので、確信をもって、「主の名を呼ぶ者は、みな救われる」ということができたのだと思います。

 私たちも、聖書と、数多くの人々の証と、自らの体験によって、「この方以外には、だれによっても救いはありません」と確信することができます。「イエスの御名」には力があります。「イエスの御名」のゆえに味わう労苦には報いがあります。「イエスの御名」はただひとつの救いの御名です。どんなときでも「イエスさま」と呼んで祈り、また、人々に「イエスの御名」を呼ぶことを知らせていくために励んでいきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、世にただ一つの救いの御名、「イエスの御名」を、私たちに与えてくださいました。何の力も持たない空しい偶像の名ではなく、神の御子、御子である神、私たちの救い主、主、王の王である「イエスの御名」を、私たちは呼び求めます。「彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう」(詩篇91:15)と、あなたは約束してくださいました。この約束を覚えて「イエスの御名」を呼び求め、また、人々に「イエスの御名」を告げ知らせる私たちとしてください。「イエスの御名」で祈ります。

12/6/2020