信仰のコイノニア

使徒4:32-37

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4:32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。
4:33 使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。
4:34 彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、
4:35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。
4:36 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、
4:37 畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。

 教会では、一般にはあまり使わない言葉が使われたり、一般とは違った意味で使われたりします。その一つが「交わり」という言葉です。これは英語で “fellowship” と訳されるので、日本語で「交際」とか「お付き合い」という意味だと考えられてきますが、聖書では、それ以上の意味を持つ言葉として使われています。ギリシャ語では「コイノニア」(κοινωνία)と言い、新約聖書の17箇所に19回出てきます。最初は使徒2:42です。「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」とあります。「堅く守り」とある言葉は、「使徒たちの教え」だけでなく「交わり」にも、「パン裂き」(聖餐)にも、「祈り」にもかかる言葉です。初代教会は、「使徒たちの教え」や「パン裂き」、「祈り」とともに「交わり」を何よりも大切なものとしていました。きょうは、「交わり」について、この箇所だけでなく、聖書の他の箇所からも広く学んでおきたいと思います。

 一、分かち合い

 「交わり」には、同じものを一緒に持つ、「共有」という意味があり、それは、まずは、目に見えるものを共有することを意味しました。使徒2:44-25に「信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた」とあります。きょうの箇所にも「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた」(32節)「彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである」(34-35節)とあります。

 こうした大規模な救済制度は、エルサレムで教会がはじまった初期のころだけしか行われず、使徒たちがエルサレムから追放された後は規模が縮小されましたが、お互いが、自分の持っているものを分かち合って助け合うことは、エルサレムだけでなく、各地の教会でも行われました。教会には「やもめの名簿」があり、彼女たちを援助する制度がありました。また、奴隷の身分の人が、自分自身を買い戻し、自由人になるのを援助する基金があったことも知られています。そして、そうした基金に献金したり、物を分け与えることが「交わり」(コイノニア)と呼ばれたのです(コリント第二8:4、9:13、ヘブル13:16)。宣教のための献金もまた「福音の交わり」と呼ばれました(ピリピ1:5)。

 今日では、福祉の働きは、行政が予算を使って行っていますが、それですべてがカバーできるわけではありません。それで、様々な団体が、行政がカバーできない必要に応えようと働いています。しかし、多くの場合、私たちに必要なのは、行政に援助を申し込んだり、慈善団体にお願いしたりするまでもないような小さな援助であることが多いのです。教会の「交わり」はそうした助け合いを提供してくれます。私も、ひとりでは動かせない家具を動かしたり、簡単な修理をしたり、子どもの送り迎えなどをしたり、また、してもらったりしてきました。そのたびに、神がクリスチャンの間に与えてくださった「交わり」を感謝しました。金銭や品物だけでなく、自分が持っている技能や、ほんの僅かな時間を分け与えることで教会の「交わり」に加わることができるのです。そんな意味では、誰もが、何かの形で、この「交わり」に参加することができます。神は、私たちすべてにこの「交わり」の恵みを体験するよう願っておられます。

 二、信仰の交わり

 「交わり」は、次に、「信仰の共有」を意味します。同じ信仰を持つ者たちが、その信仰に基づいて、互いに励まし合い、祈り合い、ともに礼拝と奉仕をささげることを指します。よく、礼拝が終わってから、「さあ、交わりの時間がありますから、皆さん、残ってください」と言われることがあります。一緒に食事をしたり、おしゃべりしたり、アトラクションを楽しむことを「交わり」と呼ぶのですが、それなら、礼拝が終わったらすぐ帰らなければならない人は、どんな「交わり」にもあずかれないのでしょうか。そうではありません。礼拝そのものが信仰の交わりです。礼拝に来る人はみな、共に礼拝をささげることによって、信仰の交わりにあずかっているのです。

 また、共に祈ること、互いに祈り合うことも信仰の「交わり」です。パウロは手紙の中で何度も「私のために…祈ってください」と書いています(ローマ15:30、エペソ6:19)。パウロは、他の人のためには祈ってあげても、自分のことは祈ってもらわなくてよいなどと考える人ではありませんでした。彼は、使徒という重い責任を果たすのに、どんなに他の人々の祈りが必要かをよく知っていました。

 私たちもまた、他の人々の祈りを必要としています。誰にも祈ってもらわなくてよい人など、どこにもいません。ラテン語で “Ora pro nobis” という祈りの言葉があります。「我らのため祈りたまえ」という意味です。主イエスは私たちのためにとりなし、祈っていてくださいます。このイエスに「祈ってください」と願い、他のクリスチャンにも祈りを願うことは、それ自体が祈りとなるのです。私は、自分ひとりで自分のために祈ったときよりも、他の人にも祈りをお願いしたときのほうが、より早く神に聞いていただけたという経験がありますが、皆さんはどうでしょうか。

 また、私たちは、人々の祈りとともに、人々の励ましも必要としています。人は誰も、他の人からの励ましを必要としていますが、信仰者はなおのことです。信仰とは、目に見えないもの、まだ見ていないことを確信することです。たとえ、そこに混乱しか見えなくても、そこにも神がおられ、すべてを治めておられることを確認することが「信仰」です。苦しいことやつらいことばかりが続く中で、この苦しみの後にかならず幸いがやって来ると信じて待ち望むこと、それが「信仰」です。しかし、私たちはどうしても、今、見えるものに心が奪われてしまい「信仰」を失くしてしまいがちです。だからこそ、互いに信仰を励ましあう「交わり」が必要なのです。私たちの信仰の生涯は神の国を目指す巡礼の旅にたとえられます。まだ見ぬ神の国を信じて、この世を旅するのですが、もし、ひとりでその道を歩かなければならないとしたら、誰も神の国に到達できないでしょう。私たちは、同じ神の国を目指す巡礼団の一員となって、互いに信仰を励まし合ことによって、はじめてそこに到達できるのです。それが教会の交わり、信仰の交わりです。

 パウロは、ローマのクリスチャンに宛てた手紙に、「あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです」(ローマ1:12)と書いています。いつかローマに行き、ローマのクリスチャンと会い、互いに信仰を励まし合いたいと心から願っていました。他の信仰者と一緒にいて、礼拝を献げ、祈り合い、励まし合うこと、それは私たちにとっても切実な願いです。しかし、今は、「スティ・ホーム」や「ソーシャル・ディスタンス」のため、それがかないません。「交わり」が制限されてはじめて、私たちは、礼拝に集まり、互いに祈り、励まし合うことがとんなに大切なことかを改めて知るようになりました。それをもっと大切にすべきだったと反省するようになりました。これから、心配なく一緒に集まることができるようになった時には、その機会を無駄にせず、信仰の交わりのために活用し、互いの「交わり」をより豊かなものにしたいと思います。

 三、キリストとの合一

 さて、「交わり」は第三に、「キリストとの交わり」を意味します。コリント第一1:9にこうあります。「神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。」「キリストとの交わり」、それはいったいどういうことでしょうか。

 聖書は、キリストを信じた者は、キリストと一つになり、キリストとともに十字架で死に、キリストとともに復活することによって救われたと教えています。エペソ2:4-6にこう書かれています。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。──キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」イエスが十字架で死に、復活されたのは、今から二千年前のことです。どうして、今、生きている私たちがイエスとともに死に、イエスとともに復活したと言えるのでしょうか。時間や空間の中にいる私たちには、とうてい考えられないことです。しかし、時間や空間を超えて存在しておられる神にとっては、不思議なことでも何でもないのです。私たちには自分で自分を救う力がありません。そん私たちを、神はキリストと一つに結びつけ、キリストを通して、私たちを見てくださるのです。自分の罪のために何の償いも出来ない私たちをキリスト通して罪の償いを成し遂げたとみなしてくださったのです。罪の中に死んでいた私たちを、キリストと一つにすることによって、キリストと一緒に、復活の力で生かしてくださったのです。神は、私たちをキリストと一つにすること、つまり、「キリストとの交わり」によって救ってくださいました。

 このように、キリストと一つにされることによって、救われたのなら、救われてからの信仰の歩みもまた、キリストに結ばれてこそ、はじめて可能になるのです。「キリストとの交わり」に入れられた私たちは、「キリストとの交わり」にとどまっていてこそ、キリストによって与えられた復活の命を体験することができるようになるのです。

 イエスはそのことを、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」(ヨハネ15:5)という言葉で、教えておられます。ぶどうの木とぶどうの枝とは一体のもので、ぶどうの枝は、ぶどうの木から養分を受けて、実を結びます。枝は自分の力で実を結ぶのではありません。ぶどうの木が枝に実を結ばせるのです。同じように、キリストにつながる者には、自分の力以上の、キリストの力が働き、神のために実を結ぶ人生を送ることができるようになるのです。

 私たちが実を結ぶための秘訣はただ一つ、ぶどうの木であるキリストから離れないでいること、「キリストとの交わり」にとどまっていることです。イエスは「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」(ヨハネ15:4)と言っておられる通りです。「とどまりなさい」ということは、キリストを信じる者がすでにキリストとつながっていることを意味しています。しかも、私たちをキリストにつなげてくださったのは、神です。私たちのほうからその結びつきを断ち切らない限り、神は、私たちをキリストから断ち切ることはなさいません。「神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられ」た(コリント第一1:9)、「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」てくださった(エペソ2:4)と御言葉にある通りです。真実な神、あわれみ豊かな神、愛の神が、私たちをキリストと結びつけてくださったのです。これほどに確かで、安心なことはありません。私たちは、キリストから離れては実を結ぶことができないことを自覚する謙虚な思い、何事においてもキリストに信頼する信仰があれば、それによってキリストとの交わりを保ち、その交わりを深めることができます。

 この「キリストとの交わり」から互いに信仰を励まし合う「交わり」や「分かち合い」が生まれてきます。また、そうした信仰の「交わり」や「分かち合い」が、私たちの「キリストとの交わり」を育ててくれます。毎週の礼拝で、「キリストの恵み、父の愛、聖霊の交わり」という言葉で祝福を受けるたびに、聖霊がくださる「キリストとの交わり」、「互いの交わり」、そして「分かち合いの交わり」が深められ、豊かになり、成長することを願い求めていきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、きょう、聖書が教える「交わり」について、誤解していたことや、見落としていたことを、いくつか学びました。「交わり」について、まだまだ知るべきことがありますが、それを実践と体験の中で学び続け、ひとつひとつを身に着けていくことができるよう、助け、導いてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

1/10/2021