28:30 こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、
28:31 大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。
一、ローマへの旅(27:1-8)
先週は、パウロがカイザルに上訴してローマに行くことになったこと、アグリッパ王に証をしたことを学びました。パウロが証を終え、人々が退場してから、王と総督は「あの人は、死や投獄に相当することは何もしていない」と言っています。パウロの弁明と証はアグリッパとフェストの心に届いたのです。ふたりは共にパウロの潔白を認め、アグリッパは「この人は、もしカイザルに上訴しなかったら、釈放されたであろうに」と言ってパウロに同情しています(使徒26:31-32)。しかし、パウロがローマの法廷に上訴したことの背後には、神の導きがありました。パウロがカイザリヤで釈放されたとしても、そこはまだエルサレムの祭司長たちの影響が及ぶところで、身の安全は保証されません。神は、パウロを最も安全な場所、ローマに、最も安全な方法で送ろうとされたのです。
使徒27:1に「さて、私たちが…」とあり、2節に「アリスタルコも同行した」とあるように、ルカとアリスタルコがパウロと一緒にローマに向かいました。当時地位ある人は一人旅はしませんでした。主人を世話するしもべが必ず付き添いました。しもべを従えていないような人は軽く見られたのです。それで、パウロもルカもアリスタルコもみなキリストにあっては等しく「兄弟」であり、互いに「同労者」でしたが、ルカとアリスタルコは進んでパウロの「しもべ」になることを申し出てパウロに同行したのです。ふたりは実際にパウロの「しもべ」になって、何くれとなくパウロの世話をしたことだろうと思います。
このことは、パウロをローマまで連れていく務めを与えられた百人隊長ユリアスに良い印象を与えたことでしょう。百人隊長がパウロに親切にしたのは(使徒27:3)、総督からそうするように命じられ、彼自身も親切な人だったからでしょうが、同時に、「パウロがふたりのしもべを従えた風格のある人物」として、彼の目に映ったからだと思われます。
主はパウロがまだエルサレムにいたとき、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」(使徒23:11)と言ってパウロを励ましてくださいました。パウロを支えたのは、共にいてくださる主です。そして、主が共にいてくださることは、主の約束の言葉によって確認されました。また、パウロは、自分と一緒にローマに行ってくれる兄弟や自分に親切にしてくれる百人隊長を通して、主の言葉が真実であることを一層確信することができたのです。神は人を通して、私たちを慰めたり、励ましたりしてくださいます。私たちも、信仰の友が身近にいてくれたり、まだ信仰を持っていない人であっても、誠実な人や親切な人に出会うとき、「わたしはあなたと共にいる」という主の約束が真実であることを実感するようになります。ですから人との交わりを大切にし、その中にある神の恵みを見落とさないようにしたいと思います。また、私たちもルカやアリスタルコのように他の人の助けとなることによって、神の恵みを届ける存在になれたら幸いだと思います。
二、嵐と難船(27:9-28:10)
さて、パウロを乗せた船はカイザリヤからシドンへ、シドンからミラへと向かいました。シドンを出たときから向かい風だったのですが、潮の流れに乗ってミラまでたどりつきました。
19世紀は「聖書はすべて作り話だ」という考えが広まった時代でしたが、そうした時代に、James Smith という人はルカが記した航路について、客観的な立場から綿密な調査をしました。彼自身、地中海でヨットを操縦してきた人で、彼はそれぞれの季節の地中海の潮の流れや風向きを知り尽くしていました。そして、調査の結果、ルカが書き残した航海の記録がじつに正確なものであることが証明されました。たしかに、ルカの書いたローマへの船旅は、事実を正確に伝えていますが、それだけでなく、じつにドラマチックです。そこで起こった出来事の背後に、パウロが「私の仕えている神」と呼んだイエス・キリストの父なる神がおられたことが見事に描かれています。
6節にあるように、パウロの一行はミラで「イタリヤへ行くアレキサンドリヤの船」に乗り換えました。当時エジプトはローマの穀倉でした。エジプトで収穫した穀物は、貨物船でアレキサンドリアからローマへと頻繁に運ばれていました。ミラはその貨物船の中継地だったのです。しかし、この船は外海の強い風のためほとんど進むことができず、クレテ島の南にある「良い港」(Fair Havens)に避難し、そこで風向きが変わるのを待ちました。
比較的穏やかな地中海でも、秋が過ぎ、冬が近づくと、航海は危険でした。逆風のため船は予定をはるかに遅れ冬までにローマに着くことができないことが分かると、船長は冬を過ごすのに良いと思えるピニクスまで進むことを決めました。パウロは今、船を出すのは危険だと警告しましたが、百人隊長は「パウロのことばよりも、航海士や船長のほうを信用し」ました(使徒27:9-10)。百人隊長はパウロを尊敬し、彼に親切にしましたが、信仰がなかったため、神がパウロを通して語っておられたことが分からなかったのです。
風向きが変わったので、このときとばかり船は港を出ました。ピニクスまではほんの100マイルほどの短い距離でしたので、人々は安心しきっていましたが、港から出て間もなくして、「ユーラクロン」という暴風に巻き込まれました。人々は、積み荷も船具もみな捨て、14日間漂流しました。
その時パウロは立って人々を励ましました。「皆さん。あなたがたは私の忠告を聞き入れて、クレテを出帆しなかったら、こんな危害や損失をこうむらなくて済んだのです。しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」(使徒27:21-26)パウロの言葉のとおり、船はマルタ島に打ち上げられ、乗組員、百人隊長とその兵士など誰一人損なわれることなく、マルタ島の首長ポプリオという人にもてなされて冬を過ごすことができました。この間、人々を励まし、指導したのは、百人隊長でも、船長でもありませんでした。囚人のパウロだったのです。
船が嵐に巻き込まれたとき船長や航海士が持っていた知識や技能は役に立ちませんでした。何日も漂流し、助かる見込みがなくなったとき、百人隊長は自分に授けられていた権威をもってしても何もすることができませんでした。人の力の及ばないことが起こり、人々が生きる希望を失くしてしまうとき、人々を立ち上がらせることができるのは、神の言葉を持つ人であり、神の言葉そのものなのです。百人隊長や船長は、今は、パウロを通して語られる神の言葉に聞き従う者となり、その神の言葉によって自分たちの命を救ったのです。
ガリラヤ湖の嵐を鎮められた主は、地中海の嵐からパウロを守ってくださったのです。よく人生は航海に例えられます。人生の航海はいつも順調とは限りません。そこに嵐が吹き荒れることは一度や二度ではないでしょう。また航路を外れ、方向を見失うこともあるでしょう。しかし、神の言葉を持つ者は、それによって嵐を乗り越え、行くべき方向を示され、最後には「望む港」(詩篇107:30)に着くことができるのです。神の言葉には、たましいを救うだけでなく、実際的なことがらにおいても、人を救う力があることを覚えておきたいと思います。
三、ローマでのパウロ(28:11-31)
「使徒の働き」の最後の部分には、パウロがローマに到着したことと、ローマのユダヤ人を説得しようとしたことが書かれています。パウロは自分の家に住むことを許されました。そこから外出することができませんでしたが、人を招くことは許されました。それでパウロはまず、ローマのユダヤ人たちを招きました。パウロは「異邦人の使徒」でしたが、彼は常に同胞ユダヤ人の救いを願っていました。ユダヤの人々はまことの神を知り、聖書を持っており、それによって、どの民族よりも先にキリストを知らされていたからです。パウロは、ローマにいるユダヤの人々に朝から晩まで語り続け、「モーセの律法の書と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようと」しました(23節)。そのうちの一部は信じましたが、多数は信じませんでした。それで、人々が帰っていく時、パウロは宣言しました。「神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らは、耳を傾けるでしょう。」今まで、ユダヤの人々に優先して語られてきた福音は、これから後は、異邦人に優先して語られるというのです。
そして、それはその通りになりました。28:30-31にこうあります。「こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」パウロはこの時、まだ裁判を待っている状態で、ローマ兵の監視のもとにありました。ところが、聖書は、そのような立場の人が「大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた」と言っているのです。ローマでは、ユダヤ人による妨害はありませんでしたし、この時はまだローマの権力による迫害も始まっていませんでした。パウロは文字通り、何にも妨げられずに伝道できました。パウロの家は、宣教団体の本部のようになり、多くの人々がそこから各地に派遣されました。
30節の「満二年」という数字には意味があります。パウロはエルサレムの祭司長たちから訴えられ、ローマの法廷に上訴していたのですが、そうした場合、一年半の間に法廷が開かれ、判決が下されなかったら、上訴した人の言い分が通り、その人は自由になるという規則がありました。ローマの上級審では、確かな証拠もないのに、みだりに人を訴えるようなことがあれば、訴えた側が罪を問われましたので、おそらく、エルサレムの祭司長たちはローマに行って法廷に出るのをためらい、パウロに対する訴えを取り下げたのだろうと思われます。ですから「満二年の間」という言葉は、パウロがその後自由になったことを言い表しています。「使徒の働き」は、パウロの釈放を知らせ、福音の勝利を宣言して終わっているのです。
17世紀から18世紀にかけて聖書のギリシャ語学者として大きな貢献をしたヨハナン・アルブレヒト・ベンゲルは使徒28:30-31についてこう言っています。「パウロのローマ到着、福音宣教の最高潮、使徒の働きの大団円、これこそ神の言葉の勝利である。…じつに使徒の働きはエルサレムに始まり、ローマに終わる。」使徒の働きは、ペンテコステの日、エルサレムでペテロによって語られた福音が、ローマでも、パウロによって語られ、ローマの全土に力強く広まっていったことを描いているのです。パウロがローマに向かったのは、フェストが総督に就任したときで、それは59年か60年でした。パウロがローマで満二年を過ごしたときには63年ごろになっていました。ですから「使徒の働きは」30年のペンテコステから63年のパウロの釈放までの30数年間の出来事を描いていることになります。わずか30年、一世代も経たないうちに、福音がこれほどに広まったのはじつに驚くべきことで、同じようなことはどの時代にもありませんでした。
64年ローマに大火災が起こり、「キリスト者が放火した」という根も葉もない噂が流れ、キリスト者への迫害が始まりました。パウロも紀元67年にローマで殉教しました。しかし、使徒たちの殉教や、その後の大規模な迫害にもかかわらず、福音は、ローマ帝国の隅々まで広められていきました。使徒たちが世を去っても、その働きを引き継ぐ人々が次々に起こされ、御言葉は世界に広がりました。「使徒の働き」が宣言した福音の勝利は、ローマの迫害によってもキャンセルされませんでした。神の言葉は今にいたるまで、世界中に広がり続けています。この神の言葉が、私たちを生かし、養い、強め、導いてくれるのです。そのことを信じて、もっと御言葉に信頼して日々を歩みたいと願います。
(祈り)
父なる神さま、あなたの言葉には世界を創造し、人々を造り変え、身も心も癒やし、強める力があります。パウロをはじめ、使徒たちや初代のキリスト者たちの力強い信仰の生涯や伝道の働きは、彼らが神の言葉の力を知り、それに信頼していたからでした。私たちも、御言葉に信頼することによって、その力を知り、体験できますよう、導いてください。主イエスのお名前で祈ります。
7/25/2021