私のように

使徒26:26-29

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26:26 王はこれらのことをよく知っておられるので、王に対して私は率直に申し上げているのです。これらのことは片隅で起こった出来事ではありませんから、そのうちの一つでも王の目に留まらなかったものはないと信じます。
26:27 アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います。」
26:28 するとアグリッパはパウロに、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている。」と言った。
26:29 パウロはこう答えた。「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」

 一、カイザリヤでのパウロ(24章)

 先週は、パウロが歩兵二百人、騎兵七十人、槍兵二百人に守られてカイザリヤに送られたところまでを学びました。この時の総督はアントニオ・ペリクスという人で、彼はドルシラを三番目の妻として迎えていました。ドルシラは使徒12章の「ヘロデ王」、すなわちアグリッパ一世の娘です。彼女の兄はあとで出てくる「アグリッパ王」、つまりアグリッパ二世でした。ペリクスはこうした婚姻関係や人間関係を利用して地位を得た人物でした。ユダヤ人の歴史家ヨセフスは「彼は奴隷のような根性で王者のように振る舞った」と酷評しています。使徒24:26には、彼が賄賂を求めてパウロを度々呼び出したことが書かれています。ペリクスは、パウロがなんの犯罪も犯していないことを知っていましたが、ユダヤ人の歓心を買うため処分を引き伸ばし、自分の総督としての任期が終わるまでパウロを監禁したままにして、この厄介な問題を次の総督に丸投げしました。

 パウロは、誠実な千人隊長クラウデオ・ルシアに命を助けられましたが、この不誠実な総督のために二年間もカイザリヤに足止めをくらい、自由を奪われました。私たちも、良い人に出会えば大きな祝福になりますが、とんでもない人に出会えば、大きな被害を被ります。そして、どんな人に出会うかは、私たちにはコントロールできないことが多いのです。そんなとき、不幸な出会いを恨んだり嘆いたりするのですが、そうしたところで何の解決もありません。そんなときこそ、神が最悪と思えることがらの中にも、働いておられることを信じなければなりません。パウロはローマ8:28で「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と言っています。この言葉は、「悪いこともあれば良いこともある。だから良いめぐり合わせを待ちなさい」という意味ではありません。そういうことなら、誰もが知っています。「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」というのは、神が、すべてのものの主であり、すべての上に主権を持っておられ、それを治め、導いておられるということです。「私たちは知っています」というのは、理論としてでなく、生活の中で体験して知っているという意味です。そして、この知識は、「私たち」、キリストを信じる者だけが知ることができるもの、キリストを信じることによって得られるものなのです。私たちの苦しみは、パウロが受けた苦しみに比べれば小さなものかもしれませんが、それでも、なぜ、こんなことが起こるのだろうと、当惑してしまうようなことに出会います。そんな時こそ、「神はすべてを治めておられる」、「神を愛する人々のためにすべてを働かせておられる」ことを知りましょう。そして、この信仰の知識に導かれて、苦しみや痛みを乗り越えていきたいと思います。

 二、新総督のもとでのパウロ(25章)

 さて、ペリクスの後任にポルキオ・フェストがやってきました。いつの時代も、どこの国でも、政治家たちには、重要な地位に着いたらすぐに「挨拶回り」に行くという慣習がありました。新総督フェストもエルサレムに行って祭司長や主だった人たちと会いました。彼らはまだパウロ殺害の執念を持ち続けパウロをエルサレムに呼び寄せたいと総督に言いました。しかし、フェストはそれを許さず、訴えたいことがあるなら、その人たちがカイザリヤに来るように言いました。

 人々がユダヤからやって来てパウロについて、多くの罪状を申し立てましたが、立証することができませんでした。そのときフェストは、ユダヤ人の歓心を買おうとして、パウロに、「あなたはエルサレムに上り、この事件について、私の前で裁判を受けることを願うか」と尋ねました。パウロは即座にそれを拒んで、「私はカイザルに上訴します」と言いました。そしてそれが許され、パウロはローマに行くことになったのです(使徒25:11-22)。

 ローマ市民には、裁判のどんな時点ででも、「カイザルの法廷」、つまり、ローマでの上級法廷に訴える権利がありました。それは、ローマが始まって以来の定めでした。これはローマ市民にだけに与えられていた特権でした。パウロはこれまでもローマ市民としての特権を用いてきましたが、ここでも、それを用いたのです。パウロは父親がローマの市民権を持っていましたので、生まれつきのローマ市民でしたが、神は、この時のために、パウロをローマ市民として生まれさせられたのかもしれません。

 パウロがエペソで伝道していた時、主は彼の心に「私はそこ(エルサレム)に行ってから、ローマも見なければならない」(使徒19:21)という思いを与えらえました。そしてエルサレムでは、パウロの側に立ち、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」(使徒23:11)と言われました。けれどもパウロは、自分がいつ、どうやってローマに行くのか具体的なことは何も知りませんでした。しかし、この時のパウロの一言、「私はカイザルに上訴します」という言葉が、パウロのローマ行きを決定したのです。パウロは、囚人としてでしたが、公費で、兵士たちに守られて、ローマ市民の当然の権利によって堂々とローマに向かうことになったのです。それは、パウロも想像していなかったことでした。パウロは、のちに、ピリピ人への手紙にこう書いています。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」(ピリピ2:13-14)パウロの心に「ローマに行く」という志を立ててくださった神は、パウロも、他の誰も考えなかった方法で、パウロをローマに送り出し、その志を実現してくださったのです。その時や方法は知らされていなくても、神は必ずみこころにかなう願いを実現してくださいます。「つぶやかず、疑わず」その時を待ちたいと思います。

 三、アグリッパ王への証(26章)

 パウロはローマに送られる前に、もう一度、キリストを証しする機会を与えられました。それは、アグリッパ王が夫人のベルニケを伴って新総督フェストを表敬訪問したことによってもたらされました。「アグリッパ王」、つまりアグリッパ二世が父のあとを継いだのはまだ17歳の時でしたので、彼は領土をローマに返し、ユダヤが再びローマ総督の直轄地になりました。そのことで、彼はローマ皇帝から信頼され、今日のレバノンに領土を与えられ、それを良く治めました。またユダヤ人からも信仰の擁護者として尊敬され、ローマとユダヤの双方と良い関係を持っていました。総督はアグリッパ王の意見を聞きたかったし、アグリッパ王もパウロに興味を持ったので、パウロはアグリッパ王ばかりでなく、総督や、カイザリヤの高官たちが居並ぶ中で、キリストを証しする機会を与えられたのです。

 これは、イエスが言われたことの成就です。イエスは弟子たちに言われました。「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。」(マタイ10:16-18)パウロは、ユダヤ人にも異邦人にも、知識人にも大衆にも、高い地位にある人にも低い境遇にある人にも福音を証しし、伝えたいと願っていましたが、ここでは地位ある人々に証しする機会が与えられたのです。

 パウロはキリストを信じる以前の自分のことから話し始めました。彼はかつてはキリストに敵対し、キリストを信じる者を苦しめていました。しかし、復活されたキリストが彼に現われたとき、彼はキリストを信じるだけでなく、その信仰を人々に宣べ伝える務めをも、キリストから与えられ、それを実行してきました。パウロは言いました。「そして、預言者たちやモーセが、後に起こるはずだと語ったこと以外は何も話しませんでした。すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。」(使徒26:22-23)パウロは、他のところと同じように、ここでもキリストの十字架と復活を語っています。

 フェストは「復活」のことを聞くと、「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている」と叫びましたが、パウロは落ち着いて、「フェスト閣下。気は狂っておりません。私は、まじめな真理のことばを話しています」と答えました。そして、アグリッパの方を向いてこう言いました。「王はこれらのことをよく知っておられるので、王に対して私は率直に申し上げているのです。これらのことは片隅で起こった出来事ではありませんから、そのうちの一つでも王の目に留まらなかったものはないと信じます。アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います。」(使徒26:25-27)パウロが伝えているキリストの十字架と復活は、モーセと預言者たちが教えてきたことです。アグリッパはモーセと預言者、つまり聖書を知り、信じていました。それでパウロは聖書に訴えて、アグリッパ王に信仰を勧めたのです。イエス・キリストを信じることは、聖書の当然の結論なのです。

 アグリッパ王はそのことをすぐに察して、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」と、パウロに返答しました。たった一回の話を聞いただけで、信仰を持つなどできないと言いたかったのでしょう。しかし、パウロはこう言いました。「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです」(29節)と言いました。パウロは、「私のようになってください。」パウロは、ここで、キリストを信じることを説いただけではなく、キリストを信じて生かされている自分を見せています。パウロの話を聞いた人の中には、パウロの語ることをすぐには信じられなくても、パウロの姿を見て「パウロの語っていることは本当のことだ」と感じた人も多くいたと思われます。私たちも、人々が私たちを見て、「あの人ように、あの人たちのようになりたい」と思ってくれたらと願います。人に自分を見てもらうと言っても、完璧な模範として自分を示すということではありません。私たちお互いは完璧ではありません。足らないところのほうが多いでしょう。しかし、その足らなさを常に補っていただき、弱さを常に強めていただきながら生きている、そんな姿は見ていただけると思います。

 ずいぶん以前のことですが、日本のある教会で、ひとりの宣教師が説教していました。一番前に座っていた初老の女性がその宣教師の顔を見上げてお話を聞いていました。礼拝が終わってから、宣教師が彼女に聞きました。「私のお話が分かりましたか。」彼女は答えました。「いいえ、ちっとも。」宣教師は言いました。「でも、あなたは、私の顔をじっと見ていましたね。」すると、彼女はこう言ったのです。「ええ。先生のシャツの襟元のほころびがきれいに縫ってあるのを見ていたのです。アメリカのような豊かな国の人がほつれたシャツを縫い直して着ているのが信じられなかったのです。日本で教えを広めるために、ずいぶん苦労なさっているのだろうと、思いながら見ていました。大変失礼なことをしてしまいました。」そして、こう付け加えました。「でも、あなたがそんなにしてまで話しておられるイエスさまのことは、きっと本当のことだろうと思います。私もイエスさまを信じたいです。」

 パウロは言いました。「きょう私の話を聞いている人がみな、…私のようになってくださることです。」私たちもそんな気持ちで、イエスのことを伝えたいと思います。また、「あの人のような信仰に倣いたい」という気持ちで、他の信仰者の証を聞いて励まされたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちは、主イエスがパウロの生涯に働いて、彼を守り、支え、導いてくださったこと、まわりの人々や状況に働きかけ、万事を益にしてくださったことを学んできました。同じ主が私たちの人生をも導いてくださいます。そのことを信じて、この週も前に向かって進むことができますよう、助けてください。主イエスのお名前で祈ります。

7/18/2021