2:41 そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。
2:42 そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。
2:43 みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。
2:44 信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、
2:45 資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。
2:46 そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、
2:47 神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。
ダラス近辺は、建築ラッシュです。空き地という空き地にどんどん建物が建っていきます。毎週、あるいは月に一度、通るたびに、建物が出来上がっていく様子を見ることができます。アメリカの建物は、壁から作っていきますが、日本の建物は、柱から建てていきます。寸法どおりに刻まれた柱が、建築現場に運びこまれ、一日のうちに見事に組み合わされて家の形が出来上がっていきます。この柱の中でも、大事なのはやはり、家の四隅の柱です。これがしっかりしていなければ、家は傾いてしまいます。同じように、神の家である教会にも、大切な四つの柱があります。
使徒2:42に「そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた」とあるように、その柱は「使徒たちの教え」、「信徒の交わり」、「パン裂き」、「祈り」の四つです。この四つの柱についてご一緒に学びましょう。
一、使徒たちの教え
第一は「使徒たちの教え」です。教会でいちばん大切なのはこれです。他にどんなものがあったとしても、教会に救いの真理がなければ、教会はその使命を果たすことはできません。
使徒6章に、やもめたちへの援助のことで使徒たちに苦情が寄せられたとき、使徒たちは言いました。「わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。」(6:2)「おもしろくない」というのは「正しいことではない」という意味です。使徒たちは「そんなトラブルにかかわりたくない」という気持ちでそう言ったのではなく、神の言葉が教会では第一ものでなければならないということから出た言葉です。そのために、使徒たちは、聖霊に導かれて、のちに「執事」と呼ばれるようになった人々を選ぶよう提案しました。使徒たちは「わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう」(6:4)と言いましたが、ここには、「ひたすら、使徒たちの教えを守り」というところで使われているのと同じ「専念する」という言葉が使われています。使徒たちが教えることに専念できたからこそ、教会もまた使徒たちの教えを学ぶことに専念することができたのです。
使徒たちの教えは、使徒たちから「牧師・教師」に引き継がれました。エペソ4:11で牧師が同時に「教師」とも呼ばれているのは、牧師の主な務めが使徒たちの教えを教えることだったからです。使徒たちが世を去った後も、使徒たちが書いた聖書は残りました。いや、教会は、迫害の中で聖書を命がけで守り、残してきたのです。それは、聖書が使徒たちの教えそのものであったからです。今日、使徒たちの教えに立つということは、とりもなおさず、聖書の教えに立ち返ること、何事においても、聖書からスタートすることであると思います。
わたしたちは聖書を神の言葉と信じる教会です。ですから、誰も天地創造や奇蹟、キリストの処女降誕や復活を否定しません。ところが、教会のこととなると、「今は二千年前とは違うのだから」と、聖書よりも、今の時代の原理で考え、それに従おうとしてしまいます。「使徒たちの教え」は第一に、教会に、教会のために与えられたものなのですから、教会のことにおいてこそ、聖書から学び、聖書にそって考えていくことが何よりも大切です。わたしたちが教会をどうしたいのかと考える前に、聖書が教会についてどう教えているのかを学ぶ必要があるのです。キリストが教会に何を望んでおられるのかを知って、それに従うことが求められていることを忘れてはなりません。わたしたちが考えるべきことは、キリストが教会に望んでおられることに、どうしたらこたえることができかということなのです。教会に改革が起こり、リバイバルが起って、伝道が進み、神のみわざが現われたのは、いつでも、教会が聖書に立ち返り、それを実践した時でした。それは歴史が証明し、健全な成長を遂げている教会が証ししています。
二、信徒の交わり(コイノニア)
教会の柱の第二は「信徒の交わり」です。ここで使われているギリシャ語、「コイノニア」には「フェローシップ」や「コミュニティ」という言葉では表わしきれない深い意味が込められています。この「コイノニア」は、なによりも、キリストとの「コイノニア」です。教会を形作ったのは、バプテスマによってキリストに結ばれた人々でした。それは、毎週の礼拝で、「聖霊のコイノニアよ、汝らとともに」と宣言されるように、聖霊が生み出し、育ててくださるものです。
教会の「コイノニア」は、一般に言う「人と人の結びつき」ではありません。もしそうなら、そこでは互いを知り合い、互いに感謝しあったり、褒め合ったりして結びつきを深めればいいのです。しかし、教会の「コイノニア」は、お互いがお互いに向かいあうのでなく、みんなが神を仰ぎ、神に感謝し、イエス・キリストをほめたたえ、「主は素晴らしいね」「ほんとにそうですね」と、とも共感しあうところから生まれるものなのです。
教会の「コイノニア」は霊的、信仰的なものを共有することなのですが、それだけにとどまらず、初代教会では、持ち物も「共有」しました。44-45節に「信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた」とある通りです。キリストを信じる者たちがユダヤの社会から締め出されたため、エルサレムでは、持ち物を共有したり、貧しい人々に必要なものを分配する必要があったのです。教会がエルサレムから全世界へと広がっていったときも、教会は必要のある人々のためにさまざまな福祉的な働きをしてきました。教会は世界一の福祉団体といってよいのですが、それもまた、霊的、信仰的な「コイノニア」から生まれたものなのです。
しかも、この「コイノニア」は決して閉じられたものではありませんでした。それは、開かれた「コイノニア」でした。47節に「…すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さった」とある通り、日々、救われる人々が教会に加えられていったのです。教会の「コイノニア」は世と一線を画すものです。それはきよく、気高く、熱心なものでした。教会は人々を引き寄せるために、人々が喜ぶエンターテーメントをしませんでした。だからこそ、教会は人々の尊敬を勝ち取り、人々がそこに加わりたいと願うほどのものになったのです。教会がそのような「コイノニア」を保つとき、主は今も、「救われる者を日々仲間に加えてくださる」と、わたしは信じています。
三、パン裂きと祈り
第三の柱は「パン裂き」、第四の柱は「祈り」です。「パン裂き」と「祈り」は、46節で「そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき…」と、具体的に書かれています。この節で「絶えず宮もうでをなし」というのは、人々が祈りに専念した姿を描いています。教会はエルサレムで始まり、最初のメンバーは皆、ユダヤの人々でしたから、人々は神殿に集まって祈りをささげました。使徒3章にはペテロとヨハネが午後3時の祈りのとき、宮に登ったことが書かれています。人々は規則正しく祈りの時間を守り、共に祈っていました。
4章には、ペテロとヨハネがユダヤの指導者たちに捕まえられ、釈放された後、「仲間たちのところに帰って」そのことを報告したとあります(使徒4:23)。それは、きっと人々が集まって祈っていた場所だろうと思います。信仰者たちは、ペテロとヨハネの報告を聞くとすぐに、大胆に祈りはじめました(使徒4:24)。12章には、ペテロが投獄され、殺されそうになったとき、「教会では、彼のために熱心な祈が神にささげられ」た(使徒12:5)と書かれています。各地で祈り会が組織され、ペテロの命が救われるよう、みなが熱心に祈りました。信仰者のそれぞれが祈りに専念するとともに、ことあるごとに集まって祈りあったのです。教会はじつに祈りの群れでした。
人々は宮で祈り、「家ではパンを裂き」ました。ここでの「家」とは、一般の家庭のことではなく、教会堂が建てられる以前、大きな邸宅の一軒が主の日の礼拝所として提供されたことをさします。「パン裂き」(Breaking Bread)は「主の晩餐」の別名です。きょうの朗読箇所には、41節で「バプテスマ」のことが、42節と46節で「主の晩餐」のことがしるされています。教会は、バプテスマを受けた人々によって構成され、主の晩餐によって養われて成長していくのです。
主の晩餐には、使徒の教え、まじわり、祈りのすべてが含まれています。晩餐式の式辞は「わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えた」(コリント第一11:23)という言葉で始まるように、それは、主イエスから出て使徒たちが伝えた教えです。また、主の晩餐でわたしたちは主の血とからだとの「コイノニア」体験します(コリント第一10:16)。「パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである」(コリント第一10:17)とあるように、それによって、キリストのからだの「コイノニア」が作られるのです。
わたしたちは、主の晩餐にあずかる前に「自分を吟味」(コリント第一11:28)します。「吟味」するというのは、ものを食べてみて、材料や味付け、また食感などを確かめることを言います。みなさんも料理をするときには、ちょっとつまんで味わい、これは、まだ煮えていないとか、醤油が足らないとかいって、必要なものを加えたりすることでしょう。「自分を吟味する」というのも同じです。聖書に照らし、聖霊の助けによって、念入りに自分の言葉と、行いと、思いとを調べるのです。そのようにして、悔い改めを通るとき、わたしたちは主の晩餐で、赦しといやしとを受けることができます。そのためには深い祈りが必要です。祈り無しに主の晩餐は成り立ちません。また、古代から晩餐式では、賛美、感謝、悔い改め、献身、とりなしなど数多くの祈りがささげられました。主の晩餐は「祈りの最高の形である」と言われますが、まさにそのとうりで、主の晩餐と祈りとは切り離せません。
主の晩餐を守るたびに、「パン裂き」が「使徒たちの教え」と「コイノニア」、そして「祈り」とともに、無くてならない教会の四本の柱であることを覚えましよう。この四本の柱を太く強くしていただいて、多くの人々が救われ、養われ、整えられて、主の働きに携わる教会になっていきたいと願います。
(祈り)
父なる神さま、現代は、わたしたちの気を惹き、心を乱すものがあまりにも多くあります。そのためわたしたちはひとつのことに集中し、それに専念することが難しくなっています。主よ、どうぞ、初代の教会が「使徒の教え」と「コイノニア」に、「パン裂き」と「祈り」に専念したように、わたしたちにも、同じものに心を向けることができますよう助けてください。たとえ時代が変わっても変わることのないものに留まることができるよう導いてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
9/2/2018