2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。
2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
2:43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。
2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
私は使徒行伝を読むたびに、初代教会の目覚しい成長に驚かされます。初代教会では、クリスチャンが力と確信にあふれ、人々が続々と教会につめかけきたのです。だからといって、教会に行くことが「流行」だったというのでなく、人々が、本当に神を畏れ、神をあがめ、一つになっていたのです。素晴らしいですね。私たちの教会もそんなふうでありたいと、誰もが願っています。どうすればそんなふうになれるのでしょうか。答えは簡単ではありませんが、ひとつ言えることは「初代教会が大切にしたものを私たちも大切にする」ということです。使徒2:42 に「そして、彼らは使徒たちの教えを<堅く守り>、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」とあります。口語訳では「そして一同は<ひたすら>、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた」と訳され、新共同訳では「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに<熱心>であった」と訳されています。「堅く」「ひたすら」「熱心」と訳されている言葉は「専念する」という意味です。初代教会が、何よりも大切にし、一所懸命、心をこめて、ひたすらに、熱心に励んでいたことがあるというのです。それは「使徒たちの教え」、「交わり」、「パン裂き」、そして「祈り」という四つのことでした。初代教会のように生き生きした教会でありたいと願うなら、私たちもこの四つのものに「専念」しなくてはならないのです。
一、使徒たちの教え
四つの中の第一は「使徒たちの教え」です。教会で第一になされるべきものは「教え」です。英語の"Church" ということばは、ラテン語の「主の家」という意味の言葉からきたそうです。日本ではこの言葉は「教会」と訳されました。「キリストの教えが教えられるところ」という意味ですね。これは、キリストの教会を表わすのに、ふさわしい言葉だと思います。なぜなら、教会は、キリストの教えを教わるところだからです。教会では、さまざまな活動がなされますが、教会は、なによりも、キリストが宣べ伝えられ、キリストの教えが学ばれるところでなければならないのです。
当時はまだ新約聖書ができあがっていませんでしたから、人々は使徒たちを通して神のことばを聞きました。今は、聖書が完結し、神のみこころのすべてが、聖書のうちにあきらかにされています。ですから、「使徒たちの教え」とは、今の私たちにとっては「聖書の教え」と言ってもいいでしょう。現代の教会が初代教会のような力を失っているとしたら、それは教会が聖書から離れ、聖書の教える真理を守っていないからではないかと思います。教会の中でも「今までこうしてきたから」「この方が便利だから」「この方が角が立たなくてすむから」などということだけで物事が運ばれ、「聖書はどう言っているか」といことを考えないでなされていく危険があります。ですから、私たちは、聖書の教えに専念し、それをしっかりと学び、身につけ、実行する者になりたく思います。
ところで「使徒たちの教え」という時、そこには二つの意味があります。新約聖書では、「教え」ということば「ケリュグマ」と「ディダケー」という二つのことばで表わされています。ケリュグマというのは、未信者に向かって、キリストを宣べ伝えることで、ディダケーというのは、信者を教えることです。教会がキリストからいただいた使命は、外に向かってキリストを伝えること、内に向かってキリストを教え続けることです。キリストは弟子たちに、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」(マタイ28:19-20)との命令を残していかれました。ペテロは、イエスのおことばのとおり、ペンテコステの日、大勢の人々に、キリストを宣べ伝えました。(「ケリュグマ」ですね。)そして、三千人の人々にバプテスマを授け、それらの人々を「教え」ました。(「ディダケー」です。)伝道に力を入れると信徒の育成がおろそかになり、教育に力をいれると伝道が後回しになるということであってはいけません。伝道に続い弟子訓練がなされ、弟子訓練を受けた人たちによって伝道が盛んになるというように、いつでも両方がしっかりと噛み合って進んでいきたいたいですね。それが「使徒たちの教えに専念する」ことだと思います。
二、交わり
第二は、「交わり」です。「交わり」という言葉はもともと「共有」という意味をもっています。初代教会では、実際に持ち物を共有にして、信仰のために貧しくなった人たちを支えました。2:44と45節に、「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた」とあります。当時のユダヤではユダヤ教が人々の生活のすべてを支配していました。クリスチャンはユダヤ教から破門されましたが、それはユダヤ教の会堂から追い出されるばかりでなく、仕事を失い、収入の道が断たれてしまうことも意味していました。それで、エルサレムの教会は、ユダヤ教の迫害によって仕事を失った人々を支えるため、資産家のクリスチャンたちが財産を差し出し、教会の中で互いに助けあったのです。古代の政治には「福祉」ということがありませんでしたので、現代では政府や地域社会がしていることを、当時は教会が肩代わりしていたのです。しかし、初代のクリスチャンがが目に見えるものを共有できたのは、目に見えない信仰や使命、また天国の宝を共有していたからです。そこに「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」という霊的な交わりがあったからです。私たちの教会も、同じ信仰と使命でしっかりと結びあわされ、この交わりをもっと深めていきたいと思います。
口語訳では、42節は「信徒の交わり」と訳されています。「信徒の」という言葉は、意味を補うために付け加えられたものです。聖書では、「交わり」という言葉は、クリスチャンのお互いのことばかりでなく、私たちと神との交わりをも意味するからです。私たちお互いの交わりは、もともとは、私と神と、私とキリストとの交わりから来ているのです。私と神との交わり、私とキリストとの交わりがなければ、私と他のクリスチャンとの交わりもないからです。私たちがイエス・キリストを信じ、キリストによって罪を赦された、その赦しにもとづいて私たちも互いに罪を赦しあっていく、それがクリスチャンの交わりなのです。?ヨハネ1:6-7に「神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」(1:6-7)とあるとおりです。私たちの交わりは、人間的に一致団結することだけ、仲良くやっていくことだけのものではありません。神から罪の赦しをいただき、その赦しによって、きよい神を恐れて神の前に歩んでいく、そういう「交わり」です。どんなに議論しあっても、ある時には、誤解しあって、いがみあうのうなことがあっても、キリストの罪の赦しのゆえに互いに悔い改めて、赦しあう、そのような交わりを保ち続けてまいりましょう。
三、パン裂き
第三は「パン裂き」です。これは聖餐式と、礼拝を表わします。ペンテコステの日にキリストを信じてバプテスマ(洗礼)を受けた人々は、日曜日ごとに家々にあつまりそこで礼拝をし、「パン裂き」、聖餐式をしました。バプテスマと聖餐は、キリストが世の終わりまで守るようにとお与えくださったもので、私たちはバプテスマによってキリストとの交わりの中に入れられ、聖餐によってその交わりを深めていくのです。初代教会で、人々がバプテスマを受けてから、聖餐を守ったように、私たちの教会でも、皆さんに、聖餐にあずかる前にバプテスマをお受けになるようお勧めしています。
初代教会では、聖餐式は毎週行われていましたが、今日では一ヶ月に一度とか、隔月ごとに聖餐式を守る教会がほとんどになりました。毎週聖餐式をするのは良いことかもしれませんが、聖餐式の回数を頻繁にしたから、それで聖餐式を重んじることになるとは限りません。回数や形式よりも、もっと大切なもことは、聖餐式で、私のためにからだを裂き、血を流されたお方を心に刻みつけること、そこに表わされた罪の赦しを受け、その赦しを他の人に分け与え、そのことによってキリストを人々に示すことです。私たちは、毎週聖餐式をしませんが、聖餐のテーブルを、聖餐式のない礼拝でも礼拝堂の中心に据えています。そのことによって、私たちは、どの礼拝でも、聖餐式のある礼拝と同じように、イエスが私たちを、彼のテーブルに招いていてくださっていることを覚えるのです。黙示録にあるように、私たちが心を開いてイエスを受け入れるなら、イエスは、私と共に食事し、私もイエスと共に食事をしてくださるのです。つまり、罪ゆるされ、きよめられ、キリストとの交わりをいただき、その交わりの中で、キリストに養われ、満たされていくのです。私たちは毎週の礼拝で、単に礼拝の形式を守っていくというだけでなく、このようなキリストとの交わりを深めていきたく思います。
四、祈り
第四の「祈り」については、多くを語る必要はないでしょう。だれもが、祈りの大切さを知り、祈りの力を知っています。しかし、分かっていながら、一番実行されていないのが祈りかもしれません。
私は、日本におりました時「祈りのセミナー」に出席したことがあります。ケンタッキーからおいでになったヘンリー・ゴードンとおっしゃる講師の先生は「アメリカの教会は、神の働きのために、さまざまなリソースを上手に使っている。ファンドレイズンをしてファイナンシャル・リソースを活用している。ボランティアを組織し、ヒューマン・リソースを活用している。ところが、ほとんど活用していないのが<祈り>というリソースである」と話されました。
ある統計によれば、韓国のクリスチャンは、一日に一時間近く祈るそうです。教会でも祈祷会がさかんで、早天祈祷、断食祈祷などのプログラムがあります。祈祷院に行って、何日も祈る人々も多いようです。日本のクリスチャンが祈る時間は、韓国のクリスチャンの三分の一で平均、一日20分だそうです。では、アメリカのクリスチャンはというと、今日では、一日たった五分だそうです。祈りは、個人の成長、教会の成長のために一番力あるものなのに、アメリカでは、一番使われていない、眠っている力なのです。教会が祈りに専念することを忘れるなら、必ず弱くなります。私たちひとりびとりの信仰も弱くなり、神との交わりから遠く離れてしまいます。私たちは、もう一度、この眠っている祈りという資産を目覚めさせ、活用したいと思います。
そのために、できるかぎり多く共に集って祈り合う時を持ちましょう。教会の祈祷会に参加してください。連鎖祈祷に加わってください。私がサンディエゴにおりました時、ひとりの姉妹が、水曜日夜の祈り会に、ティファナから来られました。ふだんは、ご主人と共にメキシコの教会に出ていらっしゃるのですが、日本語で聖書を学びたい、日本人クリスチャンと共に祈りたいと、国境を越えていらっしゃったのです。彼女が来てくれたことによって、祈り会に集まっていた者たちはとても励まされました。ひとりで祈るだけでなく、祈り会に出て祈ると、そうした励ましを受けます。この人のように「祈りたい」「祈ろう」という気持ちを行動に表わすことは素晴らしいことだと思います。「祈りたい」という気持ちが起こっても、努力して励まなければそこでしぼんでしまうからです。祈りについて多くを学んでも、祈らなかったら、私たちは、祈りの力を体験することはできません。実際に祈る人だけが、祈りの力を体験し、その喜び味わうことができるのです。
初代教会は、教えと、交わりと、礼拝と、祈りに励みました。主はそれに答えて「毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」のです。教会が、あるべき姿を保ち、なすべきことしていれば、神は教会に救われる者を送りってくださるのです。どんなに人数を増やそう、人集めをしようといろんなことをしても、もし、教会があるべき姿になければ、なすべき事を怠っているなら、救われる人は与えられません。私たちも、初代教会のように教えと交わり、礼拝と祈りを大切にし、あるべき姿に整えられるよう、主に願おうではありませんか。
(祈り)
父なる神様、あなたは、あなたが信頼される教会に、救われる者をお任せになります。まず、私たちをあなたのみこころにかなう教会としてください。そのために、教えと交わり、礼拝と祈りに、専念するものとしてください。そして「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」と、あなたの御名をほめたたえることができるようにしてください。愛するイエス・キリストの名で祈ります。
7/22/2001