2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
きょうはペンテコステ。この日、百二十人の弟子たちに聖霊がくだりました。ペテロが福音を語ると、人々がそれに応答して悔い改め、続々とバプテスマ(洗礼)を受け、エルサレムに一日にして三千人の教会ができました。その後教会は世界の各地に建てられ今に至っていますが、最初の教会はペンテコステの日に始まったのです。ですからペンテコステは教会の誕生日としても祝われています。
このときのペテロの説教の中心が今朝の聖書の箇所、使徒の働き2:38です。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」このことばの最後の部分は、口語訳では「そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。」となっています。英語でも "And you will receive the gift of the Holy Spirit." と訳されていて、「聖霊の賜物」ということばが使われています。「聖霊の賜物」ということばは聖書ではいくつかの意味で使われていますが、きょうはそのうち三つのことを考えてみましょう。
一、奉仕の力
「聖霊の賜物」というと、多くの人々はコリント人への手紙第一12章にある「聖霊の九つの賜物」のことを思い浮かべるでしょう。8-10節に「ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。」とあって、「知恵のことば」、「知識のことば」、「信仰」、そして「いやし」、「奇蹟を行なう力」、「預言」、さらに「霊を見分ける力」、「異言」、「異言を解き明かす力」の九つがここにあげられています。聖霊の賜物はこの九つに限らず数多くあり、聖書の他の箇所には「預言」や「教え」ばかりでなく「勧め」が賜物として数えられています。人を励まし、慰めるという聖霊の賜物を持っている人は素晴らしいですね。そういう賜物を持った人が多くいる教会は暖かいものを感じ取ることができる教会となることでしょう。また「指導すること」ばかりでなく「奉仕」も聖霊の賜物だと言われています。指導者ばかりで奉仕者がいなければものごとは進みません。与えられたつとめを忠実に果たす奉仕の賜物は神の国のため、教会のためなくてならないものです。「献金」や「慈善」も賜物の中に数えられています(ローマ12:6-8)。
これらは、すべて聖霊が神の国の働きのために、また教会のまじわりのために与えられたもので、この場合の「聖霊の賜物」には「奉仕の力」という意味があります。神の国のための働きには数多くの種類があり、教会の必要はさまざまです。それで、奉仕の力としての聖霊の賜物は "The gifts of the Holy Spirit" というふうに複数形が使われます。聖霊は、みなに同じ賜物を与えませんでした。ひとりびとり皆違います。違うからこそ、それぞれに互いを必要とするのです。また、どの人も必要とされているのです。ひとりの人がすべての賜物を持っているということはあり得ませんから、互いの賜物を寄せ集めて神の国のための働きが進められ、教会のまじわりが支えられていくのです。
聖書は「それぞれが賜物を受けている」(ペテロ第一4:10)と言って、どの人も必ずひとつ以上の賜物が与えられていると教えています。賜物のない人は誰もいないのです。たとえ、病気でベッドに寝たきりとなっても、回りの人々を暖める賜物を与えられている人がいます。私はそういう人に数多く出会ってきました。お見舞いに行ったのに、こちらが励ましを受けて帰ってくるということが良くありました。聖書はまた「神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。」と教えています。私たちは奉仕の賜物を軽んじたり、隠したりしないで、賜物の良い管理人になって、それを主イエスのため、他の人のために用いたいと思います。聖霊からいただいた奉仕の力を正しく用いましょう。それをもって主イエスに仕え、互いに仕え合っていきましょう。
二、人格の力
「聖霊の賜物」には、もう一つの意味があります。それは「人格の力」です。それは、古代から「聖霊の七つの賜物」と呼ばれてきました。「知恵」(wisdom)、「悟り」(understanding)、「熟慮」(counsel)、「不屈の勇気」(fortitude)、「知識」(knowledge)、「敬虔」(piety)、「主を恐れること」(fear of the Lord)の七つで、これはイザヤ11:1-3にあります。イザヤ書には「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び…」とあります。「エッサイ」とはダビデの父親のことですから「エッサイの若枝」というのは「ダビデの子」イエス・キリストを指します。ところがイザヤは「ダビデの子」と言わないで「エッサイの若枝」と言っています。なぜでしょうか。それはダビデの王朝が、大木が切り倒されるように一旦倒れるからです。神はダビデにその王朝はいつまでも続くと約束されたのに、ダビデの子どもたちはダビデのようには神に心を向けなかったため外国に攻められ滅ぼされてしまったのでした。しかし、切り株からも芽が出てそれがやがて大きな木になるように神はダビデの血筋を絶やさず、イエス・キリストによって霊的にダビデの国を復興させてくださったのです。また、ダビデは有名ですが、エッサイは無名でした。「エッサイのことなど一切知らない。」とまで言わなくても、ダビデのようには知られていません。ですから「エッサイの若枝」という表現は、私たちの救い主がダビデの子でありながら、名もなく貧しい人として世においでになったことを表わすのです。
しかし神はイエスに聖霊を注ぎ、聖霊で満たされました。それは「その上に、主の霊がとどまる。」ということばに表わされています。そして、主イエスに注がれた聖霊は「知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊」でした。イエスを信じる者も、イエスに与えられたのと同じ聖霊を受け「知恵」、「悟り」、「熟慮」(判断力)、「不屈の勇気」、「知識」などという、人格をつくりあげる賜物を受けるのです。イザヤ11:2と3の両方に「主を恐れること」がありますが、2節のほうは初代のクリスチャンが使っていたギリシャ語訳聖書では「敬虔」と訳されていたので、「敬虔」と「主を恐れること」が加えられて「七つの賜物」となりました。
最初に話した「聖霊の賜物」は「奉仕の力」という意味でした。それは外側の働きに関連したものですが、「聖霊の七つの賜物」は個人の内面に与えられるものです。コリント人への手紙第一の「九つの賜物」にも「知恵のことば」と「知識のことば」があり、イザヤ書の「七つの賜物」にも同じように「知恵」と「知識」が出てきます。しかし、「九つの賜物」の場合には「知恵の<ことば>」と「知識の<ことば>」とあるように、聖霊に与えられた知恵や知識に基づいて語り、他の人を教えたり、励ましたりするための賜物で、「七つの賜物」の場合は、自分自身が正しく歩むためにいただく知恵や知識の賜物のことを言っています。知恵や知識を他の人に分け与えるというのは尊いことですが、同時に、自分自身が聖霊がくださる「知恵」や「知識」によって信仰の歩みをしていかなければ、人を教えることはできても、人々のよい模範になることができません。だれも自分の力で神のみこころを行うことはできません。「みこころを行うことができますように。」と祈る者は、聖霊をいただかなくてはならないのです。神の御子である主イエスでさえ、父なる神のみこころを果たすために聖霊の注ぎを受けられたのなら、私たちにはなおのことがそれが必要です。私たちは聖霊によってはじめて神のみこころを行い、神から与えられた使命を果たすことができるようになるからです。
三、聖霊ご自身
同じ「聖霊の賜物」ということばが、あるときは「奉仕の力」として、あるときは「人格の力」として使われていましたが、使徒2:38では、さらに違った意味で使われています。ここで言う「聖霊の賜物」とは、聖霊が私たちに与えてくださる「奉仕の力」や「人格の力」という「何か」ではなく、聖霊ご自身を意味しています。聖霊ご自身が賜物であるという意味で「聖霊の賜物」ということばが使われています。それで、新改訳聖書でも新共同訳聖書でも、「そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(新改訳)「そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(共同訳)と、意味をとって訳されているのです。神が私たちにくださるギフト、それが聖霊であるというのはなんと素晴らしいことでしょうか。その素晴らしさはことばでは説明できないほどです。聖霊が与えてくださる奉仕の力や人格の力はそれだけでも素晴らしいものなのですが、神は、聖霊から来る賜物だけでなく、あらゆる賜物の源である聖霊そのものを私たちに与えてくださったのです。
聖書は神がどんなにか寛大なお方かを教えています。「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:45)「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。」(ヤコブ1:5)とあります。「惜しげなく」「とがめることなく」と言われているのはそのとおりです。神は決して「ケチ」なお方ではなく、「気前の良い」お方です。いつも、私たちの求める以上のものをくださるのです。また、何度お願いしても、「またか。前に教えてやっただろう。前にもあげただろう。」とは仰らないのです。だから、私たちは安心して、いつでも、何度でも、「神さま、教えてください。」「神さま、与えてください。」と祈ることができるのです。イエスは「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:13)とも言われました。神はいつも、私たちに、最高最善のギフトをくださいます。聖霊は神がくださる最高のギフトです。
神は、聖霊をお与えになる前に、すでにご自分のひとり子を世にお与えになっておられました。「神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」(ヨハネ3:16)とあるように神はこの世、つまり全人類に、ご自分の最も愛する御子をお与えになったのです。イエスご自身がクリスマスに世に降ってこられた神のギフトそのものでした。そして、さらにイエスは人々のためにご自分のいのちを注ぎ出されました。グッド・フライデーは神の御子のいのちという最も高価なギフトが与えられた日でした。きょう、これから行う聖餐はそのイエスのいのちのギフトが目の前に示されるときであり、そのギフトを信仰をもって受け取るときなのです。そればかりでなく、神はさらに、ペンテコステの日に、信じる者に聖霊をお与えになりました。聖霊が与える賜物だけでなく、すべての賜物の与えぬしである聖霊を与えてくださったのです。「ジャックと豆の木」のお話になぞらえると、聖霊の賜物は金の卵ですが、聖霊ご自身は「金の卵を生むにわとり」です。金の卵と金の卵を生むにわとりとどちらがよりすぐれたギフトでしょうか。もちろん金の卵を生むにわとりのほうです。神はどんな霊的な賜物よりもよりすぐれたギフト、聖霊ご自身をギフトとして与えてくださいました。神は私たちにまず聖霊を与えてくださり、聖霊にようって人格の力、奉仕の力という賜物を私たちの内側に生み出してくださるのです。
しかし、聖霊をギフトととしていただいたからといって、私たちが聖霊を思いどおりにできると考えてはいけません。私たちは聖霊をいただくのですが、聖霊のオーナーになるのではありません。それと逆に聖霊が私たちのオーナーになり、聖霊が私たちに聖霊の証印をおして「おまえは神のものだ」と言って、私たちを神の所有物にしてくださるのです。聖霊は、神であり、私たちの主です。私たちがしもべとなって聖霊に服従すること、それが聖霊を受けるといういうことなのです。神の最高のギフト、聖霊をそのような信仰によって受け取る私たちでありたく思います。
(祈り)
父なる神さま、あなたは愛にあふれたお方です。また、ご自分の愛に誠実なお方です。あなたは長い歴史の中で約束しておられた聖霊を、約束のとおり、ペンテコステの日に弟子たちに与え、今も、悔い改めてバプテスマを受ける者に、同じように聖霊をお与えくださいます。聖霊を正しく受けることによって、私たちは聖霊の豊かな賜物をも受けることができます。あなたからの最高のギフトを、正しい信仰によっていただくことができますように、この後の聖餐で、主イエスとともに聖霊をも私たちの心と生活にお迎えすることができますよう導いてください。主イエスのお名前で祈ります。
5/31/2009