ペンテコステの説教

使徒2:37-42

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2:37 人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。
2:38 すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
2:39 この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。
2:40 ペテロは、ほかになお多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲った時代から救われよ」と言って勧めた。
2:41 そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。
2:42 そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。

 一、手渡されたメッセージ

 皆さんは「伝統」という言葉を聞いて、どんなことを連想しますか。それを愛する人もあれば、嫌う人もいます。主イエスは、ユダヤの宗教指導者から「宗教の伝統を破っている」と言われ、非難されました。そのとき主は「あなたがたは自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っている。…自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている」(マタイ15:3,5)とおっしゃって、人間が作り、人間の考えで守ってきた伝統よりも神の言葉に従うべきことを教えられました。ユダヤの人々は、聖書をさまざまに解釈し、そこからたくさんの規則を作り出しました。それは本来は神の言葉に従うためのものだったのですが、人々は、その中にある例外規定を神の言葉に従わない口実にしていたのです。「伝統」という言葉を嫌う人は、主イエスも伝統を否定なさったと言うでしょう。

 しかし、主はあらゆる「伝統」を否定なっさったのでしょうか。いいえ、主は新しい「伝統」を命じておられます。そのひとつは「主の晩餐」です。「わたしを記念するため、このように行いなさい」(ルカ22:19)と、「主の晩餐」をあらたな「伝統」とされたのです。また、その席で、「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)という戒めをお与えになりました。これもある意味で「伝統」です。主は天に帰られるとき、「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」(マタイ28:19-20)と、バプテスマを定め、宣教の使命を遺していかれました。これらもまた、主が遺された「伝統」と言ってよいと思います。

 使徒たちも、教会に伝統を遺しました。コリント第一11:2でパウロは「あなたがたが、何かにつけわたしを覚えていて、あなたがたに伝えたとおりに言伝えを守っているので、わたしは満足に思う」と言っています。また、テサロニケ第二では2:15と3:6で「そこで、兄弟たちよ。堅く立って、わたしたちの言葉や手紙で教えられた言伝えを、しっかりと守り続けなさい。…兄弟たちよ。主イエス・キリストの名によってあなたがたに命じる。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた言伝えに従わないすべての兄弟たちから、遠ざかりなさい」と命じ、「言い伝えられたもの」、つまり、信仰の「伝統」を守るよう命じています。

 英語の "tradition" はラテン語の "trado"(「手渡す」) という言葉から生まれました。「伝統」とは「手渡されたもの」という意味なのです。愛の戒めと宣教の命令、バプテスマや主の晩餐は、主ご自身の手から弟子たちに手渡されたもので、使徒たちは、主から手渡されたものを忠実に守り、次の世代にそれをしっかりと守るようにと教えました。

 さまざまなものが時代とともに変わっていきます。教会も例外ではありません。『使徒行伝』は初代教会の記録で、紀元30年から60年の30年間をカバーしています。その短い間にも、ユダヤ人の教会から異邦人の教会へ、アジアの教会からヨーロッパの教会へと、教会は大きな変化を遂げています。しかし、教会は、時代が変わり、地域が変わっても、キリストのからだとしての基本的なあり方を守ってきました。なによりも、主から託された福音のメッセージを変えることがないようにと努めてきました。教会のあり方やクリスチャンの生き方を変えようとする力や、福音のメッセージをあいまいにするような力が働くときには、それと戦い、いつでも原点に帰ろうとしてきました。使徒たちが主イエスから託されたものを少しも変えずに、引き継いだことにならって、そうしてきました。主から託されたものに、使徒たちが、どんなにか忠実であったかは、教会の最初の説教、ペンテコステの日の説教から知ることができます。今朝はそのことを学びましょう。

 二、十字架と復活のメッセージ

 ペンテコステの日の説教は、イエス・キリストの十字架と復活を語る説教でした。この十字架と復活こそ主がいちばん大切なこととして弟子たちに与えたものでした。ペテロは、イエスを十字架においやったユダヤの指導者たちを前にして、「あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した」(使徒2:23)と語っています。かつて、我が身を守るため主を否んだペテロですが、主の復活によって新しくされ、聖霊によって力づけられ、こんなにも大胆に語ることができたのです。ペテロは続いて、「このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである」(使徒2:32)と、キリストの復活を語りました。

 教会は二千年変わらず、キリストの十字架と復活を証言し続けてきました。しかし、多くの人は十字架のメッセージを好みません。そんなむごたらしい話、悲しい物語はもう御免だと言います。使徒パウロは、コリント第一1:22に「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める」と書いています。その時代の人々が求めていたものは「しるし」や「知恵」でした。「しるし」というのは、目に見える形であらわれる現象、あるいは、実際の生活で体験できるご利益のようなものをさします。「知恵」というのはすべてのものを人間の理性だけで説明しようとするくわだてのことです。使徒パウロは奇跡を行う力を持っていましたし、ギリシャの哲学者たちを向こうにまわして堂々と議論できる知恵も持っていました。けれども、パウロはキリストの十字架を語り続けました。「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力」(コリント第一1:18)だからです。

 現代も人々は目に見えるしるしを追い求め、知恵を追求しています。しかし、しるしはやがて過ぎ去っていくもの、知恵もすたれていくものです。教会は、人目を引くしるしでも、人々を喜ばせる知恵でもなく、十字架の言葉、福音を語ります。ここにこそ、神の力、神の知恵があるからです。これこそが、罪と死に打ち勝たせる力、神の愛と恵みを知らせる知恵です。このメッセージが人々を救い続けてきました。すべてのものが過ぎ去っていく中で、十字架と復活のメッセージは変わらず、人々に救いと希望を与え続けてきました。わたしたちも、このメッセージによってイエス・キリストを信じ、救われたのです。

 ペテロが聖霊に満たされて、大胆に語ったのは、十字架と復活のメッセージでした。聖霊に満たされるとは、十字架の言葉に満たされることです。けっして、十字架の言葉を忘れて別のものに移っていくことではありません。聖霊はいつでも人々をを十字架に連れ戻すのです。わたしたちも、聖霊によって十字架の言葉へと導かれましょう。まず、わたしたち自身が十字架の言葉で満たさるとき、十字架の言葉が、わたしたちから溢れでて、家族に、友人に、地域に、世界へと伝えられていくのです。

 三、悔改めと罪の赦しのメッセージ

 さて、ペテロの説教を聞いた人々は、強く心を刺されました。そして「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」(使徒2:37)と声をあげました。すると、ペテロは即座に「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」(使徒2:38)と答えました。非常に明快です。ペテロは、キリストの十字架と復活に続いて、悔い改めと罪の赦しを語りました。その日、三千人が、ペテロの言葉どおり、罪を悔改め、イエス・キリストを信じてバプテスマを受けました。

 ペテロのこの説教は、主から受け取ったメッセージそのままです。ペテロの説教とルカ24:46-47にある主イエスの言葉とを比べてみてください。ルカ24:46-47にはこう書かれています。「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。」(ルカ24:46-47)ペテロの説教は、この主の言葉、そのままです。ペテロは、主イエスから聞いたとおり、イエス・キリストの十字架と復活を語り、悔い改めと罪の赦しを語ったのです。

 ペテロはここで、「悔改めて、バプテスマを受けなさい」と言っていますが、この「悔い改め」には当然「信仰」が含まれています。また、聖書が「信じなさい」と言う場合には、そこに「悔改め」が入っています。信仰と悔改めは硬貨の裏表のように一体です。悔い改めのない信仰はないし、信仰のない悔い改めもありません。悔い改めの伴わない信仰は本物の信仰ではありませんし、信仰のない悔い改めは、単なる後悔に終わってしまいます。

 では、悔い改めとは何でしょうか。ある人は自分の過去の失敗を嘆き悲しむことと考え、別の人は、過去の罪からきっぱり足を洗うことだと言うでしょう。もちろん両方とも大切なことですが、聖書は悔い改めを、たんに感情的なことしてはいません。一時的にどんなに自分の過去を嘆き悲しんでも、そこから方向転換するのでなければ、やがて感情が冷めれば「もとの木阿弥」になってしまうのです。悔い改めはギリシャ語で「メタノイア」と言い、それは感情よりも「考え方を変えること」を強調しています。聖書の教える悔い改めは、もっと理性的、意志的なものです。わたしたちの意志、ものの考え方、行動の動機、人生の目的や方向が変わることによって、わたしたちは内面から新しくされていくのです。自分で自分を変えようとしても、それはできません。しかし、悔改め、イエス・キリストを信じることによって、わたしたちは、聖霊がわたしたちを変えてくださるのを体験することができるのです。

 では、罪とは何でしょうか。犯罪を犯さなかったから罪が無いのでしょうか。道徳的に問題がなければ罪が無いのでしょうか。犯罪は罪から生まれてくるものですが、たとえ、犯罪を犯すことがなくても、わたしたちは毎日、罪を犯しています。人を実際に傷つけることがなくても、心の中で人を憎んだり、蔑んだりすることがあれば、それは罪です。道徳は時代によって変わります。かつては道徳上許されなかったことも、現代では容認されていることも多くあります。しかし、たとえ社会がそれを許したとしても、神のみこころにかなわないことは、その人の内面を弱め、生活や学業、仕事に差し障りを生みます。そして、それはかならず、回りのひとびとをも巻き込み、最終的には、神の栄光を傷つけるのです。すべての罪は、神に向けられたものです。

 罪は、どんなに人に隠しても、神の目には隠すことができません。昔から「天知る、地知る、我知る」と言われるように、どんなに隠されたものも、神は知っておられます。そして、健全な心の持ち主なら、かならず罪の責めを感じます。神を知る者なら、神との関係が曇ってしまい、平安を失ってしまうのです。罪のあるところに平安はありません。人々が平安を求めながら、それを得られないのは、罪の赦しを受けていないからです。神は、人の心が、たましいが、霊が求めてやまない罪の赦しを、そこから来る本物の平安を、イエス・キリストによって与えてくださいます。イエス・キリストはわたしたちの罪を責、さばくためにではなく、罪を赦し、罪からきよめるために来てくださったのです。そしてその罪の赦しを受け取る方法が悔い改めなのです。これこそが、教会がペンテコステの日以来、二千年間語り伝えてきた救いのメッセージです。

 ペンテコステの日、エルサレムの人々はペテロに「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と尋ねました。後に、ピリピの牢番は「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」(使徒16:30)と問いました。神は、このように、人々が救いを求めて声を上げるのを待っていてくださいます。「救われたいのです。どうしたら良いのでしょう。」こんな真剣な求めが、この地にも起こされるよう祈りましょう。人々が「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」との言葉に従うことができるように祈り続けましょう。わたしたちも、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」とあかしできるよう、福音のメッセージを自分のものにしていたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、ペンテコステの日にペテロが語った説教は、主イエスから手渡されたメッセージでした。それから二千年たった今も、わたしたちを救うものは、このメッセージの他ありません。これこそ、神からの愛のメッセージです。主イエスから手渡されたものをしっかりと守り、それを多くの人々に告げ知らせることができますよう、わたしたちに力を与えてください。また、次の世代に間違いなくそれを手渡していくことができるよう、助け、導いてください。主イエスのお名前で祈ります。

5/24/2015