教会のはじまり

使徒2:37-42

オーディオファイルを再生できません
2:37 人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。
2:38 すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
2:39 この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。
2:40 ペテロは、ほかになお多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲った時代から救われよ」と言って勧めた。
2:41 そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。
2:42 そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。

 一、聖霊と教会

 先週は私たちの教会の創立30年でしたが、実は、きょうは、私たちの教会だけでなく、全世界のすべての教会の創立記念日なのです。きょう、ペンテコステの日に、最初の教会が始まったからです。では、教会はどのようにして始まったのでしょうか。きょうは「聖書のお話」が無いので、ユースの方たちにも分かるように話してくださいと頼まれています。それで、クイズを三つ出します。最初のクイズは「教会はどうやって始まったか」です。A、B、C のどれが正解でしょうか。

 A. 教会は、聖霊によって始まった
 B. 教会は、ローマ皇帝の命令によって始まった
 C. 教会は、マルチン・ルターによって始まった
正解は、「A. 教会は、聖霊によって始まった」ですね。

 イエスが天にお帰りになった後、百二十人ほどの弟子たちが、エルサレムに集まって、聖霊が降るのを待って祈っていました。九日間祈り続けたあと、十日目、日曜日の朝9時ごろ、聖霊が弟子たち、ひとりひとりに天から降ってこられました。「ゴーッ」という風の音が街中に響き渡り、弟子たちひとりひとりの頭の上に炎が灯りました。百二十人のひとりびとりの頭の上で炎が燃えている、こんな光景は今までどこでも見られませんでした。これは、神が教会の誕生のために特別に用意されたもので、それには意味がありました。炎は聖霊を表わします。それが頭の上にあるのは、聖霊が天からのお方であることを意味しています。炎がすぐには消えてなくならず、ひとりひとりの上に留まったのは、聖霊がひとりひとりのうちにずうっと住んでくださることを表わしています。

 さらに、この炎は「舌」でした。「舌」は英語で "tongue" と言い、「言葉」を表わします。日本語でも「舌を巻く」というと「言葉が出ない」という意味になり、「舌が回らない」というと「言葉がはっきりしない」という意味になります。しかし、聖霊が炎の舌となって弟子たちに降ったとき、弟子たちは「舌が回らない」どころか、神の素晴らしい救いについて語り出したのです。しかも、さまざまな国の言葉で、流暢に語ることができました。それには、人々が「舌を巻く」ほどでした。

 ペンテコステの日、大勢の人々が外国からエルサレムに来ていました。西はローマや地中海の島クレテから、北は黒海近くのポント、小アジアのフルギア、パンフリア、カパドキア、それにメソポタミアから、南はアラビア、エジプト、アフリカ大陸のリビヤやクレネからの人々が来ていました。なのに、その誰もが、自分たちの国の言葉で神の言葉を聞きました。しかも、それを話しているのは、学問もなく、外国語を学んだこともない人たちでしたから、皆は、そのことにも驚きました。

 弟子たちは、九日間の祈りの間に、こっそり外国の言葉を勉強していたのでしょうか。いいえ、たった九日で、その土地の人も驚くほどに喋れるようになるわけがありません。これは、聖霊によってでした。聖霊が炎の舌となって弟子たちに降り、弟子たちがさまざまな国の言葉で語り出したのは、神の言葉、イエス・キリストの救いの福音が、世界中のすべての人たちに宣べ伝えられるようになることを表わすものでした。

 このように、教会は聖霊によって生み出されました。教会は決して人間の力によって作られたものではありません。それは神のもの、イエス・キリストのもの、聖霊のものです。ですから、私たちはこの教会を神のものとして大切にします。イエス・キリストのものですから、教会に奉仕します。聖霊のものですから、教会で信仰を養われていくのです。

 二、聖霊と福音

 さて、ここで第二問です。ペンテコステの日、聖霊は弟子たちにどんな力を与えたでしょうか。

 A. 聖霊は、弟子たちにローマ兵と戦う力を与えた
 B. 聖霊は、弟子たちに福音を語る力を与えた
 C. 聖霊は、弟子たちに病気を直す力を与えた
正解は「B. 聖霊は、弟子たちに福音を語る力を与えた」です。

 聖霊は、信じる者に、神と人を愛する「愛」の力、真理を喜ぶ「喜び」の力、恐れを取り除く「平安」の力、嫌なことをされてもそれをゆるす「寛容」の力、他の人に優しく接する「親切」の力、進んで人の善を願う「善意」の力、偽りやごまかしのない「誠実」の力、神と人の前にへりくだる「柔和」の力、誘惑に負けない「自制」の力(ガラテヤ5:22-23)など、さまざまな力を与えてくださいますが、聖霊が臨んだ最初の日、ペンテコステには、弟子たちに福音を語る力を与えてくださいました。

 「福音を語る」と言っても、それは、テレビのアナウンサーのように、明瞭な発音で話せれば良いというものではありません。「福音を語る」には、まず、福音が何であるかを正しく知り、理解していなければなりません。次に、この福音を伝えたいという情熱がなければなりません。さらに、福音を語る人自身がそれを信じ、その恵みの中に生かされていなくてはなりません。

 ペテロは、集まってきた大勢の人々に、イエス・キリストの十字架と復活のことを聖書を引用しながら論理正しく語りました。この知恵は聖霊からのものでした。ペテロは、イエスを十字架につけたユダヤの指導者たちの本拠地、エルサレムで、「だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」(使徒2:36)と語っています。50日ほど以前には人々を恐れ「イエスなどいう人は知らない」と言ったペテロとはまるで別人のようです。ペテロは、もう、イエスを十字架につけた人々を恐れてはいません。この勇気もまた聖霊にから来たものでした。ペテロは聖霊によって大胆に福音を語る力を授けられたのです。

 ペテロが聖霊によって語ったとき、人々は心を刺されました。ペテロの言葉を聞いた人々の多くは、イエスを十字架につけようと企んだわけでもなく、イエスを憎んでひどいことをしたわけでもありません。しかし、この人たちは、福音を聞くうちに、イエスが救い主として自分たちのところに来られたのに、そのお方を信じ、受け入れることをしなかった罪に気付きました。殺人は、死刑を宣告されるほどの大きな犯罪ですが、神の御子を殺した罪はどれほど大きなものでしょうか。人々は、たとえ、直接イエスを手にかけなかったとしても、心の中でその罪に関わったことに気付いたのです。私たちも、私を愛し、その命さえも差し出してくださったお方に心を向けることなく、その言葉に耳を傾けてきませんでした。私たちもまた、福音を聞くことによって、はじめてそのことに気付かされ悔い改めと信仰に導かれたのです。

 福音はたんに生活に役に立つ話でも、心温まる話でも、元気の出る話でもありません。それは、私たちを神との生きた関係に引き戻すものです。聖霊によって語られる福音は、それを聞く者を信仰に導き、その人の思いを、心を、生活を、人生を根底から変えていくのです。私たちも、そのように他の人々に福音を知らせることができる聖霊の力をいただきたいと、心から願います。

 三、聖霊とバプテスマ

 では、第三問目です。ペンテコステの日に教会のメンバーになったのはどんな人たちだったでしょうか。

 A. エルサレムにいたすべての人
 B. 福音を聞いたすべての人
 C. 悔い改めてバプテスマを受けた人たち
正解は「C. 悔い改めてバプテスマを受けた人たち」です。ペテロが人々に「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」(使徒2:38)と勧めると、人々は自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを信じてバプテスマを受けました。聖書には「そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった」(使徒2:41)とあります。

 日曜日の礼拝はすべての人に開かれています。すべての人は、おひとりの神によって造られたのですから、どの人も教会で造り主である神を賛美し、感謝する礼拝を捧げることができます。けれども、イエス・キリストを信じる者はイエス・キリストの贖いを覚え、罪の赦しの喜びをいただいて神を礼拝することができます。礼拝で、イエス・キリストを「神の小羊」と呼んで礼拝するのは、私たちの罪のために死なれた神の御子の贖いを賛美するためです。教会に集い、共に賛美を歌い、祈りに心を合わせ、神の言葉を聞いているおひとりびとりが一日も早くイエス・キリストに結ばれ、神を創造者としてだけでなく、贖い主として礼拝する者になっていただきたいと思います。そのことは、神が一番望んでおられることです。神は霊とまことをもって礼拝する者を求めておられるのです。

 私たちは信仰によってキリストに結ばれます。信仰とは神の恵みに対する人間の応答です。神が私を愛し、私も神を愛する。神が私を信頼し、私も神を信頼する。神との関係は常に相互の関係です。人間の側の決心、決断、応答がなければ神との関係は相互のものにはなりません。神に信頼し、キリストに従っていく決断は大切なものであり、決心したことを生涯にわたって持続していくことはもっと大切なことです。しかし、私たちは、たとえそれが正しいと分かっていても、困難が予想されると、楽なほうを選んでしまいます。きのう決心したことも、きょうはもう守れなくなってしまっているということがあります。ですから、信仰の決断においても、私たちは神の助けが必要です。そして、それを助け、支えてくださるのが聖霊であり、聖霊はバプテスマによって、私たちの信仰に保証や確信を与えてくださるのです。

 聖書は「バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受ける」と約束しています。信仰の生活は、自分の力で神を喜ばせようとするものではありません。人間の力では、神に喜んでいただくことはできません。聖霊によってキリストに結ばれ、教会の一員となることによって、私たちは、罪が赦されるだけでなく、罪の性質からもきよめられ、造り変えられていきます。これこそ私たちの最高の幸い、この世のどこでも得られない神を信じる者の人生の宝です。バプテスマは、聖霊によって新しく生まれ変わったこと、これからも変えられていくことの「しるし」です。「しるし」だと言っても、それは砂に書いた文字のようにやがて消えていくものではありません。バプテスマは聖霊によって信じるものの霊に刻み込まれ、人を新しい命に生かし続けます。教会は聖霊によって生まれました。同じように、教会に属するメンバーもまた、聖霊により、バプテスマによって母なる教会のうちに生まれるのです。

 「悔い改めなさい。そして、…バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受ける…。」最初のペンテコステの日、この言葉に答えた三千人はバプテスマと共に聖霊を受けました。きょうのペンテコステの日、あなたも、あの三千人のひとりになりませんか。聖霊によってはじまった教会に、聖霊によって加えていただきましょう。そして私たちの人生に働く聖霊の恵みと力とを体験させていただこうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、キリストの教会を、ペンテコステの日に、聖霊によって生み出してくださいました。教会は聖霊によって生み出されただけでなく、聖霊によって守られ、養われ、導かれてきました。あなたは、福音を聞いて信じ、聖霊によって新しく生まれた者たちを、バプテスマによって教会に加え、教会を大きくしてくださいました。さらに多くの人が福音を聞くことができるよう、私たちに福音を語る力を与えてください。人々がバプテスマによって、教会に加えられていきますように。バプテスマを受けたひとりびとりが、信仰の歩みの中で聖霊の力を体験することができますように。イエス・キリストのお名前で祈ります。

6/8/2014