聖霊の賜物

使徒2:36-42

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2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。
2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
2:39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。
2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

 きょうはペンテコステ。聖霊を待ち望んで祈っていた弟子たち、ひとりびとりの上に、聖霊が降りました。弟子たちは聖霊に満たされて、神の偉大なみわざを語り出し、ペテロは立って、人々に「悔い改めなさい。イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪の赦しを受けなさい」と人々に勧めました。そしてその後、「そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」と約束しました。ここに、「聖霊の賜物」ということばが使われていますが、「聖霊の賜物」ということばは何を意味しているのでしょうか。今朝、このことばから、いくつかのことを学びたいと思います。

 一、聖霊は賜物

 第一に、「賜物」という言葉を考えてみましょう。「賜物」という言葉は、ふだん、あまり使われない日本語です。英語で「ギフト」と言ったほうがわかりやすいかもしれません。英語で「ギフト」だったら、「贈り物」と訳してもいいのかもしれません。しかし、「ギフト」や「贈り物」というと、日本人の私たちは「お中元」や「お歳暮」など、儀礼的なものを連想してしまいます。今では「お中元」や「お歳暮」などはだいぶなくなりましたが、一世代前には、とても盛んでした。デパートがさかんにセールをするのですが、そのセールが終わると、今度は不要贈答品を買い取って、また、そのセールをするというのをやっていました。同じようなものをいくつも貰い、自分の家では使い切れなくなったものがある人は、それを、デパートに買い取ってもらうわけです。

 こういう「不用品セール」のことを英語では "white elepant sale" と言うのだそうです。なぜ "white elephant" というかというと、それにはこんないわれがあります。昔、タイの国で白い象はとても珍しく、神の使いだと思われていました。森で白い象を見たという噂を聞いて、タイの王様は、それを捕まえてこいと家来に命じました。家来は必死になって白い象を探し、捕まえ、王様に献上しました。王様は、たいそう気に入ってその象に乗って得意になっていました。ところが、気まぐれな王様は、この象に飽いてしまって、その象を家来に払い下げてしまいました。しかし、王様が乗った象ですから、家来はそれに乗ることができません。また白い象は神聖なものとされていましたから、仕事をさせるわけにもいきません。それなのに、この象は高級な餌をたくさん食べるのです。家来は何の役にも立たないこの象を養うために、財産を全部使い、とうとう破産してしまいました。それ、「もらって迷惑な贈り物」、あるいは「経費ばかりかかる厄介なもの」が "white elephant" と呼ばれるようになったそうです。

 もし、「賜物」を「ギフト」、「贈り物」と訳すと、ひよっとして、「もらって迷惑なもの、役に立たないもの」というイメージでとらえてしまうかもしれません。でも、「賜物」と訳すと、もっと深い意味がそこに出てきます。

 今、相撲の世界は大揺れにに揺れており、三月に大阪で行う予定だった本場所は中止、五月場所も「技量審査場所」と言って、優勝した力士に天皇賜杯も与えられない場所になりました。あの優勝カップを「賜杯」、「賜った杯」と呼ぶのは、それが天皇陛下から特別に与えられたからです。このように、「賜物」という言葉には権威ある者から授けられたものという意味があるのです。「聖霊の賜物」は、あらゆる権威の上に立たれるお方、神がくださるものですから、「賜物」という言葉を使うのがふさわしいと思います。そして、神がくださるものは、すべて良いもので、私たちにとって「迷惑なもの、役に立たないもの」は何ひとつありません。「水は天からの賜物」、「命は神からの賜物」などと言うように、「賜物」ということばには、人間の力では作り出すことができないもの、なくてならないもの、大切なもの、神聖なものという意味が含まれています。ヤコブ1:17に「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです」とありますが、「聖霊の賜物」は神から来るすべての良い贈り物、完全な賜物の中でも、最高に素晴らしいものなのです。

 二、聖霊ご自身が賜物

 第二に、「聖霊の賜物」ということばの意味を考えてみましょう。それには二通りの意味があります。ひとつは、コリント第一12章などで使われている意味です。コリント第二12:4には「さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です」とあって、続いて「知恵のことば」「知識のことば」「信仰」「いやし」「奇蹟を行なう力」「預言」「霊を見分ける力」「異言」「異言を解き明かす力」という九つの賜物が記されています。ここで「聖霊の賜物」というのは、聖霊が与えてくださる特別な霊的な力のことを指しています。

 二つ目は、今朝の箇所、使徒2:38で使われているものです。ここは、原文のままでは「聖霊の賜物」なのですが、新改訳聖書では意味をとって「賜物としての聖霊」と訳しています。「聖霊の賜物」とは、聖霊が与えてくださる様々な能力ばかりでなく、聖霊そのものが賜物であるということでもあるのです。そして、「聖霊が与えてくださる賜物」よりも、「賜物として与えられる聖霊」のほうがもっと大切なのです。

 コリント第一12章にある聖霊の賜物は、どれも素晴らしい力です。良い動機で、人を励ますつもりで語ったことばでも、時として人を傷つけてしまうことがあります。そんなとき、私は「知恵のことば」が豊かに与えられたら、どんなにいいだろうかと思います。神を知る知識、そしてそれを伝える「知識のことば」をもっと欲しいと思います。見えるところはどんなであっても、大胆に神を信じて前進する「信仰」は誰もが求めるものだと思います。「いやし」や「奇蹟を行う力」があればどんなに人を助けることができるでしょうか。「預言」の賜物や「霊を見分ける力」があれば、人々を正しい方向に導くことができるでしょう。「異言」と「異言を解き明かす力」によってもっと神に近づくことができるかもしれません。聖書には「教えること」「指導すること」「勧めること」「奉仕すること」「分け与えること」「慈善を行なうこと」もまた聖霊の賜物だと書かれています。こうしたことも、誰もが求めているものです。

 聖霊が与えてくださるものには「賜物」だけでなく「実」もあります。コリント第一12章には九つの賜物があげられていましたが、ガラテヤ5:22-23に九つの実が記されています。「愛」「喜び」「平安」、「寛容」「親切」「善意」、「誠実」「柔和」「自制」です。神から来る「愛」「喜び」「平安」を体験し、人に対しては「寛容」「親切」であり、「善意」をもって接し、自分に対しては常に「誠実」「柔和」「自制」に心がける。それはすべての人の心からの願いでしょう。

 しかし、こうした、聖霊がくださる「賜物」や「実」も、まず、聖霊を賜物としていただいていなければ、誰も、そのどれひとつも自分のものにすることができないのです。こんな話があります。ずいぶん昔のことですが、アフリカの奥地の、まだヨーロッパの文明に触れたことのない族長が、ヨーロッパのある都市にやってきました。見るもの、聞くものどれもがはじめてのもので、どれを見ても驚きの連続でした。中でも、この族長が一番感動したのは、水道でした。蛇口をひねると水が出る。ヨーロッパでは当たり前のことですが、彼の国では、ひとびとが何マイルも歩いて水を汲みに行かなければなりません。そこで族長は、家来に命じて、蛇口を、それもとびきり上等のものをひとつ買わせました。そして自分の部族に帰ってから、自分の家の壁に早速それを取り付けてみました。族長は、「さあ、水が出てくるぞ!」と楽しみに思って、蛇口をひねってみました。しかし、水は一滴も出てきません。それもそのはずです。その蛇口は水源地につながっていなかったのです。族長は、蛇口さえつければ、魔法のように、どこでも水が出てくるものと思い、蛇口の背後にある水道の仕組みを知らなかったのです。私たちは、聖霊について、この笑い話と同じようなことをしていないでしょうか。聖霊をいただくこと、聖霊と結びつくことを求める前に、その祝福だけ、結果だけを求めるようなことをしていないでしょうか。

 聖霊がくださる賜物はとても魅力的です。しかし、それだけを求めても、それは得られるものではありません。まず、聖霊を自分のうちに迎え入れる必要があります。聖書が「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」と教えているように、神の前に自分の罪を悔い改め、イエスが私の罪の身代わりとなって十字架で死んでくださった、その尊い救いを信じ、罪の赦しをいただいてこそ、私たちは聖霊を受けることが出来、聖霊とつながっていることができるのです。

 聖霊は、モノではなくパーソンです。イエスが「わたしと同じ、もうひとりの助け主」と呼ばれたお方です。ですから、「聖霊を受ける」と言っても、それは何か品物を受け取る、たんに力を受けるということではありません。聖霊を受けるとは、パーソンである私が、パーソンである聖霊に信頼し、聖霊の導きに従うという、パーソナルな関係を持つことです。聖霊を受けているという確信や聖霊から来る祝福は機械的に与えられるものではありません。聖霊の賜物によって力づけられることや聖霊の実を実らせることも自動的に起こるものではありません。聖書が「御霊を消してはなりません。」(テサロニケ第一5:19)「神の聖霊を悲しませてはいけません。」(エペソ4:30)「御霊に満たされなさい。」(エペソ5:18)「あなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」(テモテ第二1:6)と教えているように、聖霊と私とのパーソナルな関係が確信を強めもし、弱めもするのです。自分の知恵や力ではなく聖霊に信頼すること、自分の思いではなく聖霊に喜ばれることを求めることによって、聖霊とのまじわりを深めて行くとき、私たちの蛇口から、聖霊がくださる生ける水が流れ出し、多くの人を潤すことができるようになるのです(ヨハネ7:38-39)。

 三、すべての人に与えられる賜物

 第三に神の賜物、賜物としての聖霊は、すべての人に差し出されているということを覚えましょう。

 ペンテコステの日、人々がペテロの説教に耳を傾けたのは、弟子たちが聖霊を受けて、神をあがめ、神のことばを語っている光景を見たからでした。エルサレムにいた人たちは、そこに集まっていた百二十人の人たちを良く知っていました。彼らは、イエスの弟子たちでしたが、イエスが十字架にかけられたとき、自分たちも捕まえられ、殺されはしないかと恐れ、散り散りばらばらになり、逃げ隠れしていた人でした。説教しているペテロはといえば、「イエスなどという人は知らない」と、三度も自分の師であり、主であるお方を否定した人です。ところが、イエスを見捨てたふがいない弟子たち、イエスを失って力を失った弟子たちなのに、今、人目をはばからずに、ひとつとなって共に集まり、じつに大胆に、力強く神のことばを語り伝えています。人々はこの変化に驚きました。そして、その変化がキリストの復活と、彼らの上にくだった聖霊から来ていることを悟りました。人々は、聖霊の臨在に、その力に圧倒されたのです。神が、自分たちに遣わしてくださったキリストを、自分たちが退け、十字架につけたのだという罪を聖霊によって示され、罪の赦しを心から求め、また、自分たちにも聖霊が与えられるよう願ったのです。そのような人々にペテロは「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」と言って、自分たちに降ったのと同じ聖霊が、信じる者すべてに与えられると約束したのです。

 この約束は今も真実です。ペテロはこう言っています。「なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」エルサレムでペンテコステの出来事を見ることができた世代だけでなく、その子々孫々にいたるまでも、また、そのときそこにいた人たちだけでなく、どこの国の人、どの民族、どの階級の人であっても、すべて、イエスを信じ、キリストに従う者には聖霊が与えられるのです。今日、アメリカに住む、日本人である私たちも例外ではありません。自分の罪を悔い改め、キリストを信じる者に、神は、聖霊を、賜物としてくださるのです。聖霊は私たちの努力によって勝ち取るものでも、特別なことができた人に与えれる報いでもありません。それは神からの愛の贈りものです。キリストは救いのわざを終えて父なる神のもとに帰られましたが、それで弟子たちを導く者のないままになさったのではありません。ご自分の代わりに、聖霊を遣わしてくださいました。聖霊は信じる者に新しいいのちを与え、神の子どもとして生まれかわらせ、信じる者と共にいて、神の子どもたちを見守り、養い、育ててくださるのです。神からの賜物を受け取りましょう。聖霊に信頼し、聖霊によって育てられる喜びを味わいましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたはイエス・キリストを信じる者に約束してくださった賜物は、たんに知恵でも、知識でも、力でも、祝福でもありませんでした。それらすべての源である聖霊ご自身でした。あなたは、私たちに常に最高、最善のものをくださいます。あなたは、私たちにひとり子イエス・キリストを与えてくださったばかりでなく、聖霊をも与えてくださいました。あなたは、あなたの持っておられる何かでなく、あなたご自身を私たちにお与えくださったのです。私たちは、このあなたの愛に感動しています。私たちを御霊によって、主イエス・キリストを通して、あなたとの愛のまじわりの中に生きる者としてください。主イエスのお名前で祈ります。

6/12/2011