四つの柱

使徒2:37-42

2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。
2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
2:39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。
2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

 8月19日、サンタアナ・ロウで大きな火事がありました。サンタアナ・ロウというのは、スティブンス・クリークとウィンチェスターの一角にある大きなアパートメントとショッピングセンターを取り混ぜたところで、完成すれば501戸のアパートメント、213部屋のホテルに数多くのレストランや商店ができることになっています。当初は9月半ばにオープンの予定でしたが、あの火事のためにオープンは延期になりました。サンクスギヴィングとクリスマスを逃すと、商店には大きな痛手になりますので、火事の被害をうけなかった55店舗だけはとりあえず11月7日にオープンするそうです。実は、「見えますか愛」のテレビ委員会の委員のひとりが、建設業をしていて、サンタアナ・ロウの一角を受け持っています。幸い彼のブロックは焼けませんでしたが、彼の隣のブロックは焼けてしまったそうです。私は、その話を聞いて、次の聖書のことばを思い起こしました。「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」(コリント第一3:10〜15)です。苦労して建てあげたものが目の前で燃えて灰になっていくのを見るのはどんなにつらく、また悔しいことでしょう。私たちが、人生を建てあげる時、家庭を建てあげる時、そして教会を建てあげる時、もし、指定された方法で、正しい材料を使っていなかったら、試練の炎や裁きの火にさらされる時、たちまちにしてそれは燃え尽きてしまうでしょう。イエス・キリストという土台の上に、私たちは人生という家、信仰という家をどんなふうに建てているだろうかと、思わされました。手抜き工事をしていないだろうか、規格に合わない材料を使っていないだろうか、いつも点検を怠らず、聖書という、誤りのない人生の設計図に照らし合わせながら、私たちの人生を、そして教会を建てあげていきたいと願ったことでした。

 一、教会の伝道

 さて、今日のメッセージは「四つの柱」という題です。アメリカの建物は、壁から作っていきますが、日本の建物は、柱から建てていきます。寸法どおりに刻まれた柱が、建築現場に運びこまれ、一日のうちに見事に組み合わされて家の形が出来上がっていきます。この柱の中でも、大事なのはやはり、家の四隅の柱です。これがしっかりしていなければ、家は傾いてしまいますし、屋根を支えることもできません。同じように、神の家である教会を建てるのにも、四つの柱があって、その四つともしっかりしていなければ教会は傾いてしまうのです。

 では、教会にとっての四つの柱とは何でしょうか。それは、今お読みいただいた聖書の中にしるされています。使徒2:37-42は、ペンテコステの日に生まれたばかりの教会の姿を描いていますが、この中に、初代教会がしたこと、それ以来ずっと教会が守り続けてきたもの、神が教会に与えた使命が四つしるされているのです。その第一は、伝道、第二は、教育、第三は交わり、そして第四が礼拝です。教会は、伝道、教育、交わり、伝道の四つの柱でささえられているのです。

 第一の柱「伝道」は使徒2:40-41にあります。40節に「ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、『この曲がった時代から救われなさい。』と言って彼らに勧めた。」イエス・キリストが「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)と命じられたとおり、ペテロは、ペンテコステの日に、「あかし」をし、「勧め」をして、福音を語りました。また、主が「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい」(マタイ28:19)と言われたように、弟子たちはその日、人々にバプテスマを授けました。初代教会は、イエスのご命令のとおりに伝道の使命を果たしました。伝道は、教会の大切な柱です。伝道がなければ教会は始まりませんでしたし、教会の存在意義もなくなるのです。ところが、いつの間にか多くの教会で、この伝道の柱がだんだんと細くなり、短くなり、そのために、教会が傾いているのを見ます。ある教会で「キリストが十字架にかかられたのは、人々からのけものにされ、いじめられることがどんなにつらいことかを身をもって示し、私たちに、他の人を受け入れ仲良く生活することを教えるためだった」と教えていると聞いて、びっくりし、がっかりしたことがあります。キリストが私たちの罪の身代わりに死んでくださったという福音のかわりに、単なる人間関係の教えや道徳だけしか教えられていないのです。人間関係の教えも、道徳も大切なことです。しかし、教会は、それ以上のもの、キリストの十字架の救いを教えるところでなければなりません。私たちはどんなに時代が変わろうが、変わるこのない福音、ただひとつの救いを宣べ伝えていきましょう。

 二、教育

 教会の第二の柱は教育です。福音を聞き、悔い改めてイエス・キリストを信じ、バプテスマを受けた人々が続いて何をしたかというと、「彼らは使徒たちの教えを堅く守」ったのです。(42節)。弟子たちは使徒たちの教えを学び、そして守りました。使徒たちの教えとは、主イエス・キリストが使徒たちに与えたものであり、キリストの教えにほかならず、キリストの教えは、使徒たちによって書かれた新約聖書として私たちに残されています。したがって、今日の私たちにとっての「使徒たちの教え」とは、聖書のことです。教会教育とは、聖書を教える教育と言ってもよいわけです。教会は、初代教会のはじめから、みことばを教える教育に励んできました。昔は、裕福な家庭のこどもたちしか教育を受ける機会がありませんでしたが、それでも、人々は教会で聖書を読むことによって文字を習い、ことばを覚えることができたのです。教会は人々の学校であり、聖書は唯一の教科書でした。リンカーンは独学でいろんなことを学びましたが、リンカーンにとっての教科書も聖書と「ジョージ・ワシントン伝」でした。アメリカの開拓が西へ西へと進むにつれて、教会もまた西へ西へと向かっていきましたが、多くの場合、人々は礼拝堂よりも、まずサンデースクールの建物を作りました。サンデースクールで人々は整えられ、それらの人々がやがて礼拝堂を建てるようになったのです。

 私たちの教会で最近バプテスマを受けた方々のあかしを伺いますと、その多くの人がクリスチャンの幼稚園や学校、また大学で聖書に触れています。幼稚園が好きだったという人もいれば、学校で無理やり聖書のことばを覚えさせられるのがいやだったという人もいましたが、それでも、知らず知らずのうちに、クリスチャンの教育によって、神への信仰が整えられていたのです。クリスチャンの教育は、人が信仰を告白してバプテスマを受け、教会のメンバーになってからはじまるのでなく、人が信仰に導かれるために、バプテスマを受け、メンバーとなるためにも必要なのです。伝道と教育はそれぞれ、別々のものではなく、多くの場合、教育を通して伝道がなされます。とくに日本人は教育に熱心ですから、聖書を勉強してみたいと願っている人が大勢います。サンデースクールや聖書研究会は、そこで人々が信仰に導かれる最善の場所です。今朝も、おあかしがありましたが、サンデースクールの大切さは、強調しても強調しすぎることはありません。サンデースクールがもっともっと用いられるように祈ってまいりましょう。

 新約聖書ではみことばを宣べ伝えることを「ケリュグマ」、教えることを「ディダケー」という言葉で表わし、教会には「ケリュグマ」と「ディダケー」のふたつとも必要だと教えています。教会は、人々を信仰に導けばそれでよいのでなく、信じた人々をさらに教え、育てなければならないのです。イエスの宣教命令も、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」で終わっているのではなく、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」(マタイ28:20)と続いています。信仰は、キリストを信じて天国に行く保証を得たらそれで終わりではないのです。それなら、バプテスマを受けて終わりということになります。しかし、大切なのはバプテスマを受けてからなのです。「バプテスマは卒業式ではなく、入学式である」と言われますが、その通りですね。バプテスマに続いて、みことばによってしっかりと育てられていくことが大切です。幸いなことに私たちの教会では、日曜日のクラス、水曜日のクラスがあり、他にもみことばを学ぶさまざまな機会があります。日本から来られた多くの方が「アメリカでは教会でしっかり聖書を学ぶ機会があってとても良いが、日本ではなかなかそうはいかない」と言っていました。与えられ機会を生かして、みことばをしっかりと学んでいただきたいと、心から願っています。教会が教育に力を注いでいるなら、聖書を教えることのできる人々が多く起こされ、それだけ伝道も進むようになります。私たちは、伝道の柱とともに教育の柱もしっかり守っていきたく思います。

 三、交わりと礼拝

 第三と第四の柱は、「交わり」と「礼拝」です。42節に「交わりをし」とあります。この「交わり」というのは、いつも申し上げていますように、一般にいう「おつきあい」ではありません。これはイエス・キリストを中心として、互いの信仰を励ましあい、支えあい、そして、主のためにともに働く、信仰の交わりです。クリスチャンはひとりぼっちで信仰生活をするのではなく、同じ神を信じる者たちとともに生き、神の家族である教会の中ではぐくまれ、訓練されて、信仰生活を送るのです。地上では教会はまだ未完成で、完全ではありませんから、教会の中でつまづくようなこともあるかもしれません。しかし、だからといって、教会の交わりから離れては、信仰を正しく成長させることができません。教会の中で、互いに支えあい、また、切磋琢磨しながら、しっかりと信仰を成長させていきましょう。教会から交わりの柱を取り除いたなら、教会は教会でなくなってしまいます。

 第四の柱、礼拝については、同じく42節の最後に「パンを裂き、祈りをしていた」ということばで表わされています。「パンを裂き」というのは、聖餐式のことで、主の日、日曜日の礼拝を表わします。初代教会は、日曜日の礼拝のほかに、祈りの時間を守り、宮に集まっては祈っていました。「使徒の働き」のいくつかの箇所に「祈り会」のことが書かれています。個人の祈りはもちろんですが、ともに祈る祈りがどんなに大切かは、改めて言う必要がないほどです。私たちの教会は、交わりを大切にし、礼拝と祈りを大切にしてきました。礼拝をもっと豊かで、喜ばしいものに、祈りの集いをもっと多くの人々にと努力をしてきました。やむを得ず礼拝に出れなかった時でも、多くの人が礼拝プログラムを手にし、テープを聞くなどして、なんとか礼拝にあずかろうとしています。そうした努力が今、実を結びつつあり、これから大きな実のりとなっていくでしょう。

 私たちは、今年の教会標語に「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。」(コリント第一15:58)を選びました。そして、私たちが励むべき主のわざ WORK は Worship、 Outreach、 Reproduction、 Koinonia だということを学びましたが、これら礼拝、伝道、教育、交わりという「主のわざ」が、そのまま「使徒の働き」にある四つの柱であることが分かります。神が私たちに求めておられることは、何か目新しいことをすること、奇抜なことをして人々の目をひくこと、時代の流れに乗ることではありません。いままで続けられてきた良いわざを、しっかりと続けていくことです。そうすることが教会を支える四つの柱、伝道と教育、交わりと礼拝をさらにしっかりとしたものにするのです。コリント人への手紙に「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。」とありました。「木、草、わら」は、苦労なく手に入り、そうしたもので家を建てるのは簡単なことです。しかし「金、銀、宝石」を手に入れるのは簡単ではなく、犠牲が伴います。それらを加工するのも簡単なことではありません。しかし、労苦したもの、犠牲を払ったもの、本当に価値あるもので建てられた教会は、試練の炎にも、終りの日の裁きの火にも耐えることができるのです。そのような神の家、主の教会をしっかりと建てあげていきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、聖書が言っているように私たちは建物、神の家です。イエス・キリストをゆるがない土台として、その上に、燃え尽きるものではなく、いつまでも残るもので、神の家をたてあげさせてください。そのために、神の家の四つの柱をしっかりと建て上げ、それらを支えていくひとりびとりとしてください。私たちに与えられた四つの使命のために、具体的に何ができるかを教えてください。ひとりびとりを「主のわざ」に励むものとしてください。教会のかしらである主イエスの御名で祈ります。

9/1/2002