2:22 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。
2:23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
2:24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。
2:25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。
2:26 それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。
2:27 あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。
2:28 あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』
2:29 兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。
2:30 彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。
2:31 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。
2:32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
2:33 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。
2:34 ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。
2:35 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』
2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
さきほどは、「救いの主は ハレルヤ」との賛美がありましたが、歴史を通してイースターの礼拝では「まことに主はよみがえられた。ハレルヤ。」とことばをかわすのが慣わしになっていました。私たちも、そのようにしたいと思います。私が「主はよみがえられた。」と言いますので、皆さんは、大きな声で「ハレルヤ。」と言ってください。三回くりかえします。「主はよみがえられた。」「ハレルヤ。」「主イエス・キリストはよみがえられた。」「ハレルヤ。」「まことに、主はよみがえられた。」「ハレルヤ。」
「主はよみがえられた。」「イエス・キリストは復活された。」それは、クリスチャンの信仰にとって、一番大切なことの一つです。使徒パウロは「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」(コリント第一15:3-5)と言っています。キリストの復活は、クリスチャンの信仰の要です。パウロは「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。…もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。…もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」(コリント第一15:14, 17, 19)とさえ言っています。では、クリスチャンの信仰はむなしいものなのでしょうか。キリストの復活を信じている人々は、哀れな人々なのでしょうか。イースターを祝うことは馬鹿げたことなのでしょうか。もし、キリストの復活が単なるストーリーだったらそうでしょう。「イエスはとても立派な人物だったから死なせておくのはもったいない。よみがえったことしておこう。」といって、復活のストーリーを誰かが作り上げたとしたら、それは、むなしいものです。しかし、キリストは実際によみがえられました。聖書は「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(コリント第一15:20)と宣言しています。口語訳聖書は「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。」と訳しています。口語訳に「しかし、事実」とありますように、イエス・キリストの復活は事実です。事実ですから、証拠があり、その証拠を検証することができます。今朝は、キリストの復活を証明する数多くの証拠の中からいくつかのものをあげて見たいと思います。
一、復活の証拠
復活の証拠の第一は、なんと言っても空の墓でしょう。どの宗教の開祖にもお墓があります。彼らは丁寧に葬られ、人々は、その徳を慕って、お墓参りをするのです。その遺体はミイラにされたり、あるいは荼毘にふされても、その遺骨は大切にされます。ところが、イエスの墓には、遺体も、遺骨のひとかけらもありません。それは、今も空っぽのままです。今朝の聖書の箇所では、使徒ペテロが、ペンテコステのお祭の時に集まってきた大群衆に向かってキリストの復活を宣べ伝えています。ペテロは「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」(使徒22:23-24)と語っています。じつに大胆ですね。なぜ、ペテロはこんなに大胆に語ることができたのでしょうか。それは、イエス・キリストの復活が事実だったからです。事実以上に強いものはありません。キリストを十字架に追いやったユダヤの指導者たちは、今度は、キリストを信じる者たちを迫害しはじめましたが、迫害などしなくても、墓に行ってイエスのなきがらを持ってくればそれで、弟子たちを黙らせることができたはずです。しかし、ユダヤの指導者たちも、イエスの墓が空っぽであることを知っていたのです。彼らは、弟子たちが遺体を盗んだという噂を町中に流しましたが、もしそうだとしたら、なぜ、イエスの遺体を奪い返さなかったのでしょうか。イエスのからだがどこにもないことは、ユダヤの指導者たちが一番良く知っていたことだったのです。
復活の証拠の第二は、数多くの目撃者です。朝早くイエスのからだに香油を塗りに行った女の弟子たちは空の墓を見ました。ペテロもヨハネも墓が空であったのを確かめています。ペテロは墓の中にまで入って、それが空っぽだったことを確認しています。十二弟子をはじめ多くの弟子たちが復活されたイエス・キリストに出会っています。主イエスは四十日の間、弟子たちにご自分の生きておられることを示されました。パウロは復活されたキリストの目撃者は五百人以上はいて、そのうちの多くは、パウロの時代にもまだ生存していると言っています(コリント第一15:6)。生き証人がいたのです。復活を信じようとしない人の中には、キリストが十字架で亡くなられた後、弟子たちが、悲しみのあまり、精神状態がおかしくなって幻覚を見たのだと、苦し紛れの説明をつける人もいますが、それはあり得ないことです。彼らが復活のキリストに出会ったのは、それぞれに違った場所や時間で、集団幻覚など起こり得ない状況でした。それに、弟子たちと言っても実にさまざまな人々がいて、皆が同じ精神状態ではなかったのです。トマスのように、他の弟子たちがよみがえられた主にお会いしたと言っているのに、「その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言い切った頑固者もあり、パウロのように、かってはキリストの復活を否定し、教会を迫害していた人もいたのです。しかし、それぞれが、復活の主に出会っています。
第三は、復活の記録です。キリストの復活は、四つの福音書にすべて書かれています。その記事の中にはみかけの矛盾がありますが、それはかえって、復活のニュースが脚色されないで忠実に記録されたことを表わしています。ヨハネの福音書は、すこし後の時代に書かれましたが、他の福音書は教会が始まってからすぐに書かれました。聖書の復活の記事は、人々によって作り出された「神話」であると批評する人もありますが、神話というものは、何百年もたってつくられていくもので、十年や二十年の間にできあがるものではありません。聖書の復活の記事は、まだキリストの復活の証人が生きている時代に書かれたもので、それは「ホット・ニュース」だったのです。実は聖書だけでなく、同時代のクリスチャンでない人たちによって書かれた書物も、キリストの十字架や復活に触れています。たとえば、ローマの歴史家タキトゥスは、紀元60年から120年に生きた人でしたが、その『年代記』の第15巻44章に「皇帝ネロはクリスチャンと呼ばれる人々を憎み、滅ぼそうとした。クリスチャンの名は、キリストに由来し、彼は、皇帝テベリオの時代、総督ポンテオ・ピラトの手によって処刑された。」とあります。また、ユダヤ人の歴史家、フラビウス・ヨセフスは紀元94年に『ユダヤ古代記』を書いていますが、その第18巻3章に「このキリストは、聖なる預言者たちが預言したように、三日目によみがえって人々に現われた。クリスチャンと呼ばれる人々は今日にいたるまで滅びることなく続いている。」と書いています。歴史の記録は、復活の事実を証言しています。
二、復活の証人
これまで「空の墓」「目撃者」「歴史の記録」などといった証拠を見てきました。まだまだ復活の証拠があるのですが、第四に「弟子たちの変化」という証拠をあげておきましょう。
今日の箇所では、ペテロは、他の弟子たちと共に立ち上がって、ペンテコステのお祭に集まってきた大群衆に向かってキリストの復活を大胆に宣べ伝えています。ペンテコステの「ペンテ」というのは、数字の五を表わし、これは、過越の祭から50日目という意味です。50日前のペテロは、いったいどんなペテロだったでしょうか。ペテロはイエスとともにゲツセマネの園にいました。その園でイエスは捕まえられ、大祭司のところに連れていかれました。ペテロはイエスの後を追い、ひそかに大祭司の官邸にもぐりこみました。真夜中にもかかわらず、大勢の人々がつめかけていました。官邸の庭にともしてあった松明のあかりにペテロの顔が照らされた時、そこにいた女中たちが、「あなたはイエスの弟子でしょう。」と、ぺテロに言いました。ペテロは、「いや、俺はそんな者じゃない。」と否定してその場から去ろうとしたのですが、「あなたがイエスといっしょにいたのを見ましたよ。」「あなたの訛りでわかりますよ。あなたもガリラヤの人でしょう。」などと言われ、ついに、「俺は、イエスなんて人は知らない。」と主を否定してまったのです。それからの彼は、後悔の涙を流して、男泣きに泣くばかりでした。ペテロばかりではありません。他の弟子たちも、ユダヤ人を恐れて、逃げ隠れしていたのです。そんなペテロが他の弟子たちといっしょに立ち上がって「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(36節)と人々の罪を指摘し、悔改めを迫っています。たった一ヶ月と少しの間に、ペテロも他の弟子たちも別人のように全く変わってしまったのです。何がペテロを変えたのでしょうか。何が弟子たちに勇気と力を与えたのでしょうか。それは、キリストの復活の事実以外にありません。四十日の間、キリストは、弟子たちにたびたび現われてくださいました。弟子たちは、キリストの復活をこの期間に確認しました。そして、十日の祈りの後、弟子たちは、復活して天にお帰りになったキリストから聖霊を受け、このように力と大胆さに満たされたのです。
弟子たちの変化ほど、キリストの復活を力強く証明するものはありません。そして、同じ、証拠は、今も見ることができるのです。今日、バプテスマを受けた兄弟もまた、キリストに出会って変えられたのです。彼の証しにありましたように、彼は奥様が、キリストに出会って変えられたのを見て、キリストを求めるようになり、キリストの十字架と復活を信じる信仰に導かれたのです。人の心と人生をほんとうに変えることができるのは死をうち破って復活し、今も生きておられるイエスの他にありません。復活を証明するもの、復活の証拠は他に、いくつもあります。復活を論証するのは、決して難しいことではありません。しかし、どんな証拠にもまさって素晴らしいのは、キリストの復活のいのちによって、新しい人生を歩んでいる人々です。あなたもその中のひとりなのです。主イエスは弟子たちに「あなたがたは…わたしの証人となります。」(使徒1:8)と言われました。ペテロも「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」(32節)と言っています。主は、私たちに復活の証人になるように命じておられますが、それは、私たちが復活を論証できるようになるということではありません。私たちの生活を通して、その人生によって「主は生きておられる。」と証しすることです。私たちがキリストに信頼して生活し、キリストを目指して生きるなら、誰もがキリストの復活の証人になることができるのです。今年のイースターに、バプテスマを受けた兄弟、また入会する姉妹と共に、私たち自身が復活の「証拠」になる、復活の証人となる、そんな歩みを、もういちど新しく歩みはじめたく思います。
(祈り)
父なる神さま、今年も「ハレルヤ」を叫びながらイースターを祝うことが出来、こころから感謝いたします。毎週の日曜日も、また、キリストの復活を覚えて集う礼拝です。主の日、日曜日ごとに、よみがえり、今も生きておられるキリストに向かって「ハレルヤ」と叫びつつ礼拝を守る者としてください。日々の生活を、キリストの命に生かされて歩ませてください。日々の生活の中に主が生きてくださいますように。そして、私たちをキリストの復活の証人としてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。
4/11/2004