教会のメッセージ

使徒2:22-40

2:22 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。
2:23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
2:24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。
2:25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。
2:26 それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。
2:27 あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。
2:28 あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』
2:29 兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。
2:30 彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。
2:31 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。
2:32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
2:33 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。
2:34 ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。
2:35 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』
2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。
2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
2:39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。

 「伝言ゲーム」というのがあります。一組5〜6人のグループを作り、お互いの声が聞こえないように、ひとりひとり離れて並ばせます。ゲームのリーダが各グループの先頭の人だけを呼んで、あるメッセージを口頭で伝えます。先頭の人はそれを良く覚えていて、次の人の耳元でささやくのです。そうして、次から次へと伝えていき、各グループの最後の人がどんなメッセージを聞いたか発表するのです。たいてい、とんでもないメッセージに変わってしまっています。たとえば、「秀子さんが美容院に行って、石井さんに、もうちょっとカットしてくださいと言った」というのがもともとのメッセージだとすると、「秀雄さんが病院に行って、医者に、盲腸を切ってくださいと言った」というふうになってしまうのです。このゲームで賞品をもらうのは、メッセージが正確に伝わったグループよりも、メッセージがおもしろく変わったグループのほうです。ゲームでは、メッセージがとんでもないものに変わっても、ただ面白いだけで済みますが、これが命にかかわるようなことなら、伝言していくうえで決してミスティクはゆるされませんね。

 イエス・キリストが教会に与えてくださったメッセージは、世界の救いにかかわる重大事であり、私たちの永遠の命にかかわる真剣なものですから、教会はこのメッセージを人々に正しく伝え、さらに次の世代に間違いなく伝えていく責任があるのです。時代の変化とともにメッセージを伝える方法は変わっていくでしょう。しかし、伝えられるメッセージの内容は変わってはならないのです。

 ルカの福音書24:46-47を見ますと、キリストが天にお帰りになる前に弟子たちに残したことばがあります。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」このキリストのことばによると、教会が人々に伝えなければならないメッセージ、それによって人々が救われるメッセージとは、キリストの十字架と復活、そして罪のゆるしの悔い改めだということが分かります。このキリストのことばとペンテコステの日にペテロが語ったことを比べてみてください。ペテロは、キリストが言い残されたとおり、三つのことをそのまま語っているのがわかります。このように教会は、キリストが教えたオリジナルのメッセージを忠実に伝えてきました。神と神の約束は変わることはありません。ですから、私たちも、どんなに時代が変わっても、伝えられてきたこれらのメッセージをしっかりと守ってまいりましょう。

 一、十字架のメッセージ

 ペテロは、ここでまずキリストの十字架のことから語っています。十字架は聖書のメッセージの中心です。教会は常に十字架のメッセージを語り続けてきました。しかし十字架のメッセージは必ずしも人々に歓迎されませんでした。人々は「キリストが救い主なら、なぜ十字架の上で死ななければならなかったのだ。十字架の上で『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか』と叫んで死んでいった人を信じていったい何になるというのだ」と、キリストの十字架を無力なものとし、無力なものを信じるのは愚かだと考えたのです。今も、多くの人がそのように考えていますが、ペテロはキリストの十字架は決して無力なものではなく、それは私たちを救うものだということを、聖書の中に次のように書いています。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(ペテロ第一2:22-25)キリストが十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのは、私たちの罪を背負って、私たちの身代わりに神の刑罰を受けてくださったからです。十字架の上でキリストはただ弱々しく息絶えたのでなく、勇敢に苦しみを耐え忍び、救いを、罪のゆるしを、永遠の命を、私たちのために勝ち取ってくださったのです。キリストは十字架の死によって、人間の最も深い問題である罪を解決し、人類の最後の敵である死を滅ぼされたのです。しかも、イエス・キリストは、いやいやながらではなく、私たちの救いのために自ら進んで、十字架を背負ってくださったのです。十字架には、神の力と神の愛が示されているのです。

 使徒パウロもコリント第一1:22で「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します」と書き、その時代の人々の関心が十字架以外のものにあったと言っています。「しるし」というのは奇跡や超自然的な出来事、あるいは現実の生活の中に目に見える形であらわれるご利益のようなもののことです。「知恵」というのはすべてのものを人間の理性だけで説明してしまおう、人間が主人公の世界をつくりあげようとすることです。しるしと知恵、それは、紀元一世紀のユダヤ人やギリシャ人だけでなく、いつの時代のどこの国の人も追い求めているものです。しかし、しるしはやがて過ぎ去っていくもの、知恵もすたれていくもので、それらは人を救うものではありません。使徒パウロはしるし、つまり奇跡を行う力を持っていましたし、ギリシャの哲学者たちを向こうにまわして堂々と議論できる知恵を持っていました。けれども、パウロはキリストの十字架を語り続けました。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(コリント第一1:18)現代も人々はしるしを追い求め、知恵を追求しています。しかし、教会は、人目を引くしるしでも、人々を喜ばせる知恵でもなく、十字架のことば、十字架のメッセージを伝えます。ここにこそ、神の力、神の知恵が示されているのです。それは、神の愛からくる力、神の愛を知らせる知恵です。十字架のことば、十字架のメッセージによって神の愛と神の力を受けとろうではありませんか。

 二、復活のメッセージ

 さて、キリストの十字架に続いてペテロが語ったのは、キリストの復活です。キリストの復活は、聖書によって、また歴史の事実によって証明することができますが、何よりも力あるのは、キリストの復活に出会った人々の証言です。ここでキリストの復活を語っているペテロ自身がキリストの復活の目撃者なのです。ペテロをはじめ、ヤコブもヨハネも、そしてトマスも、イエスの復活を目撃した使徒たちがここにいるのです。エルサレムには120以上の弟子たちが集まっていましたが、これらの人たちはみなキリストの復活の証人で、ほかにも500人ほどの人々が復活したキリストに出会っているのです。この時は復活があってから50日もたっていない時です。キリストの復活は、イエスがなくなられてずうと後に、イエスを惜しむあまりに「復活されたことにしよう」と言ってつくりだされた教えではないのです。もしイエスがよみがえっていなければ、人々はイエスの遺骸を引っ張り出して、「復活なんて嘘だ」と証明することもできたでしょう。しかし、事実イエスは復活され、その墓は空っぽのままです。ペテロが声高くイエスの復活を叫んでも、誰もそれを否定することはできませんでした。復活の生き証人がいる、これこそ誰も否定できない復活の証拠です。

 またクリスチャンたちの変化もキリストの復活を証明しています。ペテロは大勢の人々の前で「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です」と叫んでいますが、それは数週間前のペテロには考えられないことでした。ペテロは、イエスが捕らえられた後、大祭司の中庭までイエスについて行ったのですが、その時、大祭司の女中に「あなた、イエスといっしょにいた人じゃない?」と言われ、人々を恐れて「俺はイエスの弟子じゃない。イエスなんか知らない」と、三度もイエスを否定したのです。その同じ人物が、何者も恐れずに、大胆にイエスの十字架を語っている、これは、イエスが復活されペテロを力づけ、聖霊が注がれペテロを変えたということ以外に説明がつきません。ペテロは、自分のつくりかえられた姿を通してキリストの復活の証人となっています。

 私たちは、使徒たちや初代のクリスチャンたちのように、復活のキリストに直接出会うわけではありません。キリストの復活は数多くの証拠によって確かなものですが、なおそれは「見ないで信じる」ものです。しかし、見ないで信じるというのは空虚なものを信じるとか、捕らえどころのないものにより頼むとかいうことではありません。信じる者には聖霊がその心に住み、力となってくださり、その人生が変えられるのです。ペテロが体験したような、勇気や希望、平安を手にすることができるのです。ペテロは復活のキリストを信じるクリスチャンのよろこびについてこう言っています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(ペテロ第一1:8-9)あなたも、イエス・キリストを信じるなら、このような喜びを持つことができ、イエス・キリストは生きておられる、私と共に生きていてくださるという確信にいたることができるのです。

 三、悔い改めのメッセージ

 ペンテコステの日、ペテロが語った第三のことは、「悔い改め」でした。ペテロは彼の話に心を刺され「私たちはどうしたらよいでしょうか」とたずねた人々にためらうことなく「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(38節)と答えました。

 聖書のメッセージは、"DO" つまり、あれをしなさい、これをしなさいというメッセージではありません。それは "DONE" のメッセージ、つまり、私たちの救いのために必要なことはすべて、イエス・キリストが十字架の上でなしとげてくださったというメッセージです。私たちは、どんな良い行いも、どんな宗教的な修業や、くわしい聖書の知識がなくても救われるのです。私たちの側でしなければならないことはただ一つ、それは「悔い改め」と「信仰」です。悔い改めと信仰は、硬貨の裏表のように一体です。悔い改めのない信仰はないし、信仰のない悔い改めもないのです。悔い改めの伴わない信仰は本物の信仰ではありませんし、信仰のない悔い改めは、単なる後悔に終わってしまいます。ここでペテロは「悔い改め」という言葉しか使っていませんが、この「悔い改め」という言葉は信仰もふくめた意味で使われています。

 しかし、一体、悔い改めとは何でしょうか。ある人は自分の過去の失敗を嘆き悲しむことと考え、別の人は、過去の罪からきっぱり足を洗うことだと言うでしょう。もちろん両方とも大切なことですが、聖書は悔い改めを、たんに感情的なことしてはいません。一時的にどんなに自分の過去を嘆き悲しんでも、自分が神の前に罪人であること、このまま歩きつづけることが良くないことをはっきりと認め、そこから方向転換するのでなければ、やがて感情が冷めれば「もとの木阿弥」になってしまうのです。悔い改めはギリシャ語で「メタノイア」と言い、それは感情よりも「考え方を変えること」という意味があります。聖書の教える悔い改めは、もっと理性的、意思的なものです。また、それは「方向転換をする」という意味があります。太陽を背にするなら、自分の目の前に見えるのは自分の影でしかありません。多くの人は神に背を向けて自分の暗い部分だけを見つめる生活をしてきました。しかし、そこから回れ右をして、神に向かうなら私たちの生活は神の光に照らされたものになるのです。悔い改めたらすぐに、私たちの生活のすべてが変わるわけではありません。ある部分は百八十度かわり、ある部分は徐々に変わっていくでしょう。しかし、私たちの意思が、私たちのものの考え方が、私たちの動機が変われば、私たちの向かう方向が変われば、かならず、神にも人にも喜んでいただける自分に変えられていくのです。今までは自分で自分を変えようとしてもできないでいましたが、悔い改めてイエス・キリストを信じた後は、神が与えてくださった聖霊が私たちを変えてくださるのです。

 ですから、私たちも素直な心で、悔い改めて、罪を赦していただき、イエス・キリストを信じて、聖霊を受けようではありませんか。十字架のメッセージ、復活のメッセージ、そして悔い改めと罪のゆるしのメッセージ、これはイエス・キリストが私たちに与え、教会が二千年の間変えることなく伝えてきたメッセージです。今朝、このメッセージがあなたに成就するよう、心から祈ります。

 (祈り)

 父なる神様、今朝も十字架のメッセージ、復活のメッセージ、悔い改めのメッセージを聞くことができて感謝いたします。あなたを求めて礼拝に集っておられるおひとりびとりが、このメッセージによって救われ、導かれ、つくりかえられていくことができますように。また、このメッセージによって救われた者たちが、このメッセージをさらに確信し、これを保ち、正しく人々に伝えていくことができますように。イエス・キリストのお名前で祈ります。

6/10/2001