2:1 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
2:3 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
一、聖霊の満たし
エルサレムに集まった百二十人の弟子たちは、九日の間、ひたすら祈って、聖霊を待ち望みました。そして、ついにペンテコステの日を迎えました。この日、弟子たちに、何が起こったのでしょうか。
第一に、弟子たちは聖霊に満たされました。その日、風の音が、弟子たちのいた家に響き渡りました。風は聖霊を表わします。創世記には聖霊が水の面に風を送り、世界を創造されたことや、人に入って命を与えたことが書かれていますが、ペンテコステの日には、聖霊ご自身が弟子たちの内に入り、その中に満ちてくださったのです。
聖霊に満たされたのは十二弟子だけはありません。すべての弟子たちです。使徒1:14には「婦人たち…と共に」とありますので、男も女も、年老いた者も若い者も、その場にいた人はすべて、聖霊を受け、聖霊に満たされました。そして、聖霊に満たされた弟子たちは「キリストの証しびと」となりました。イエスが天にお帰りになる前に、「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒1:8)と言われたとおりです。
わたしは日本で「総動員伝道」というプログラムに参加しました。これは、クリスチャンひとりひとりが「キリストの証しびと」になるため、教会で訓練を受け、伝道集会を開き、それぞれがフォローアップを担当するというものでした。『よい証しびと』というテキストを使っての訓練会、トラクト配布や個人伝道などを実際にやりました。これは、とてもよく出来たプログラム、テキストで、今でも十分に通用すると思います。
しかし、そういう訓練を受けても、まだ、どうやって、キリストを証しすればよいのかが分からない、方法を教えてもらっても、それを実行する勇気がなくてできなかったという人が多くいました。なぜだろうかと考えてみました。そして分かったことは、伝道の前に、聖霊に満たされることが必要だということでした。伝道のために方策を立てること、訓練を受けること、また、互いにサポートしあう組織を作ることは、必要で、大切なことです。しかし、その以前に、ひとりひとりが「聖霊に満たされる」ことがなければ、誰もキリストの証人になることはできないのです。
わたしが牧師としてアメリカに来て間もないころですが、ひとりの日本人学生が相談に来ました。彼は、ある教会でバプテスマを受けたのですが、その教会では、一年にひとりをキリストに導くというノルマが課せられていて、彼はそれが出来ないので悩んでいたのです。彼が言うには、「バプテスマを受けたものの、まだ自分でもキリストのことが良くわかっていないのに、他の人をキリストに導くなどできるわけがない」とのことでした。「一年にだれかひとりをキリストのもとに導きたい」ということを目標にすることは決して間違ってはいません。しかし、それを目標にして祈るところまで信仰が整えられていなければ、それは重苦しい「ノルマ」になってしまいます。わたしはその学生に、まず、自分自身が救いの確信を持ち、救いの喜びの中に生きるように、救いの喜びが満ちるとき、そこから溢れ出たものが証しとなるでしょうとお話ししました。
「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう。」(使徒1:8)弟子たちを「キリストの証人」にするのは聖霊です。聖霊は、まず、信者に働きかけ、信者を満たします。そこから証しが生まれ、伝道が始まるのです。わたしたちも、外に向かう前に、自らの内に聖霊を迎えたいと思います。人間のわざだけでは、決して、「キリストの証人」となることも、「キリストの証人」としての使命を果たすこともできないからです。
二、神の言葉
ペンテコステに起こった第二のことは、弟子たちが神の言葉を語ったことです。「舌のような炎」は、聖霊が、弟子たちに神の言葉を語らせてくださるお方であることを表わしています。このとき、弟子たちがさまざまな外国語で語ったのは、ペンテコステが「初穂の祭」の時で、その祭のために外国から大勢の人が来ていたからだけではありません。それは、「地のはてまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)「行って、すべての国民を弟子とせよ」(マタイ28:19)というイエスのお言葉が成就するためでした。イエス・キリストはすべての人の救い主であって、イエス・キリストの救いは全世界の、あらゆる人に伝えられなければならないのです。聖霊が、弟子たちにさまざまな言葉を語らせたのは、やがてはじまり、今日なされている世界宣教の開始宣言だったのです。
わたしに語学の才能があればと、いつも思います。けれども、聖書から教えられたことは、外国語を話せることや、雄弁に語ることができることよりも、もっと大切なことは、神の言葉を語ることだということでした。ペンテコステの日に弟子たちは様々な国の言葉を語りました。わたしたちはそのことに気をとられがちですが、それよりも大切なことは、そのさまざまな言語で何を語ったかということです。彼らは神の言葉を語りました。もし、わたしたちが神の言葉、信仰の言葉を持っていれば、たどたどしい外国語でも、とつとつとした日本語でも、他の人にそれを伝えることができます。わたしは、それを日本でも、アメリカでも体験してきました。
戦後、アメリカやヨーロッパから多くの宣教師が日本で伝道してくださいました。ほとんどの宣教師は、難しい日本語を習得し、上手に話されましたが、なかにはたどたどしい方もありました。けれども、わたしは、日本語の上手な宣教師からよりも、そうでない宣教師から多くを学ぶことができました。たとえ日本語が十分でなくても、神の言葉に対する深い理解と、それを伝えようとする情熱を、宣教師の人格を通して教えられました。御言葉への愛を教えられました。宣教師は日本語が完全でないから、かえって、もって回った言い方をせず、神の言葉を真っ直ぐに語り、直接的に信仰を勧めました。そうしたことのゆえに信仰に導かれた人も多かったのです。
わたしは、1991年からアメリカで牧師として働くことになり、27年間、英語の国で日本語を使って伝道するという特別な仕事をしてきました。日本では考えることもなかった、言語と「神の言葉」について考え続けてきました。そして、与えられた結論は、大切なのは「神の言葉」への信仰と確信であって、日本語や英語などの言語はそれに仕えるものだということでした。わたしの牧師への召命の言葉は「あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい」(テモテ第二2:15)です。日本語はわたしの言葉です。この自分の言葉で、「神の言葉」をしっかりと伝えたい、自分の言葉が「神の言葉」のしもべとなるようにと願っています。
神の言葉は、衛星放送で世界中の人に一斉に届けられればいいというものではありません。人が信仰に導かれるのは、ほとんどの場合、自分が共感できる言葉で個人的に福音を語ってもらってのことだと思います。雄弁な人がひとりいればそれで神の言葉が伝わるというのではありません。福音を伝えるのに、神は、わたしたちひとりひとりを必要とし、わたしたちが生きてきた人生の言葉を用いてくださるのです。人は誰も、その人でなければ語れない言葉を持っています。神は今も、わたしたちに聖霊を与えて、神の言葉を、さまざまな言葉で伝えてくださるのです。わたしたちも神の言葉を語るひとりとしていただきましょう。そのために、聖霊の満たしを求めましょう。信仰の言葉は、聖霊が語らせてくださるもの、聖霊に満たされてはじめて、わたしたちの口から出てくるものです。そのような信仰の言葉で人々に証ししたいと思います。
三、教会建設
第三に、弟子たちは教会を建てました。ペンテコステは教会の誕生日です。この日、三千人がイエス・キリストを信じ、バプテスマを受け、教会に加えられました。使徒行伝で「教会」という言葉は、5:11ではじめて出てきますが、使徒2章で、三千人はバプテスマを受けて「クリスチャン」となり、教会に「加えられた」のです。教会はペンテコステの日、聖霊によって生み出されたのです。
わたしは、「弟子たちが教会を建てた」と言いましたが、「教会は、イエスご自身が、聖霊によって建てられた」と言ったほうがより正確だと思います。使徒9:31に「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方にわたって平安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒の数を増して行った」という言葉があります。口語訳や新共同訳で「基礎がかたまり」とあるところは、新改訳で「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて…」となっています。新改訳は原語に忠実です。「建てられる」という言葉は受け身の形です。では、誰が教会を建てるのでしょうか。それは、神であり、キリストであり、聖霊です。しかし、同時に、教会は、バプテスマを受けてそこに加えられた者たちによっても建てられるのです。
第一コリント3:10に「神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい」とあります。エペソ4:12には「それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせる」とあります。このように、教会は、指導者によって導かれたメンバーが建て、築きあげていくものなのです。
教会は、その始まりのときから、そのようにして建てられてきました。使徒2:42にこうあります。「そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。」ここには、教会を支えている四本の柱がしるされています。それは、どれひとつ欠けても教会が立ち行かない大切なものです。第一は「使徒たちの教え」、聖書とその健全な教えです。第二は「交わり」、「コイノニア」です。この言葉の本来の意味は、「共有」ということで、皆が同じ真理に立ち、目的をひとつにすることを言っています。第三は「パン裂き」、つまり「主の晩餐」、そして、第四が「祈り」です。教会で何をするときも、この四つをよく理解して、ここから離れないようにしたいと思います。「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。」主は、わたしたちを聖霊よって導き、励まし、ご自分の教会を建ててくださるのです。
二千年前のペンテスコに、弟子たちはキリストの証人となるため、聖霊に満たされました。神の言葉を語り、主を証しし、主の教会を建て上げていきました。そのように、わたしたちもこの日、同じ聖霊によって、初代の弟子たちがはじめた働きを引き継ぐものとなりましょう。
(祈り)
父なる神さま、わたしたちは聖霊から離れては、キリストの証人になることはできず、神の言葉を語ることもできず、あなたの教会のために働くこともできません。わたしたちが聖霊を求めるのは、その知恵や力によって自分が満足するためではありません。日毎に聖霊に信頼し、聖霊によってあなたに仕えるためです。あなたの栄光のため、多くの人々の救いのため、わたしたちを聖霊で満たしてください。主イエスのお名前で祈ります。
5/20/2018