生ける神に立ち返る

使徒14:14-18

オーディオファイルを再生できません
14:14 これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら、
14:15 言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。
14:16 過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。
14:17 とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」
14:18 こう言って、ようやくのことで、群衆が彼らにいけにえをささげるのをやめさせた。

 前回はパウロとバルナバがピシデヤのアンテオケで伝道したことを学びました。ふたりはこの後、次の町へと進んでいくのですが、この伝道旅行で、二つの困難に出遭っています。一つは「ユダヤ人からの迫害」、もうひとつは「異邦人の偶像礼拝」です。パウロとバルナバは、それらにどのように対処したでしょうか。ふたりがしたことから、何を学ぶことができるでしょうか。きょうは、そのことをご一緒に考えましょう。

 一、ユダヤ人からの迫害

 ピシデヤのアンテオケで、最初の安息日に語ったパウロのメッセージは多くの人に歓迎されました。人々は、次の安息日にも同じメッセージをしてくれるよう頼み、「次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た」ほどでした(使徒13:44)。そして、多くの人が信仰を持ちました(使徒13:48)。ところが、すぐさまユダヤ人から妨害が起こりました。パウロとバルナバはやむなくイコニオムに向かいました。イコニオムでも「ユダヤ人もギリシャ人も大ぜいの人々が信仰に入った」のですが(使徒14:1)、ここでもユダヤ人の反対に遭い、パウロとバルナバは、ここを追われることになりました(使徒14:5-6)。

 パウロとバルナバは、伝道旅行に出かける前、この町に行ったら、次はあの町にと計画を立てたことだろうと思います。ところが、計画通りに事は進みませんでした。もし、これが、一般の仕事であれば、パウロやバルナバは大変なフラストレーションに陥ったことでしょう。計画通りにいかなかったのですから、普通なら失敗したことになります。しかし、パウロとバルナバは失望したり、落胆したり、逃げ帰ったりしませんでした。これが、パウロやバルナバの働きではなく、神の働きであることを、知り、信じていたからでした。パウロとバルナバは、自分たちだけでこの伝道旅行に出かけたのではありません。神により、聖霊により、遣わされたのです(使徒13:4)。この伝道旅行は、神ご自身が導かれたものです。そこでは、人が主人公ではなく、人は神に用いられる器です。ですから、たとえ自分の思い通りに事が運ばなかったとしても、神のみわざが達成されたことを、ふたりは喜んだのです。

 使徒13:49に「こうして、主のみことばは、この地方全体に広まった」とあります。ピシデヤのアンテオケに主のみことばが広まったのは、パウロとバルナバがそれを宣べ伝え、教えたからでした。しかし、聖書は、それをパウロとバルナバの働きの成果としてではなく、神ご自身の働きとして描いています。もちろん、パウロ、バルナバのふたりは、自分たちの伝道が実を結んだことを喜び、感謝したことでしょう。しかし、ふたりがそれ以上に喜んだのは、自分たちが何事かを達成できたことではなく、主のみことばが広まったことだったのです。

 一般の社会では、人々は、自分がやりたいと思うことを達成して満足することや、それを人に認めてもらうために努力します。「自己実現」と言われるものです。目標を持ち、それに向かって努力する姿は素晴らしいものですし、目標に近づいていくことを喜びとして励むことは良いことです。しかし、そこに、神を恐れる思いがなかったら、「自己実現」は、わがまま勝手な「自我の主張」で終わってしまいます。自分の目的を達成するために他の人を蹴落としたり、利用するとった醜いものが入り込んできます。そこでは、神から与えられた人生の目的を実現するという正しい生き方はできません。そこでは、自己実現が達成されたとしても、人生の本当の喜び、幸いを体験することはできません。神は、私たち一人ひとりを愛してくださる方です。この神を知り、神の導きを求め、それに従って生きるとき、私たちは本当に幸せな生涯を送ることができます。

 パウロやバルナバは、自分たちが信じる神が、どんなに信頼に足るお方であり、どんな苦難をも、最終的には善に変えてくださることを知っていました。ですから、伝道した先々で石で打たれ、追放されても、それを乗り越えて前進することができたのです。

 私が日本にいたころ、子どもたちが暗誦聖句をするために、聖書の言葉の入ったカードを、サンデースクールで配っていました。その中のひとつに、ひとりの若者が、船の舵を動かす大きな操舵輪を握っている絵がありました。空は曇り、海は荒れています。この若者は、まだ進んだことのない航路を進んでいます。その顔は不安そうです。しかし、その絵には、背後にイエスが描かれています。イエスは若者の肩に手を置き、「恐れるな、私が共にいる」と語りかけ、そして、進むべき方向を指さしています。この若者は、イエスの導きによって、望む港に無事到着するでしょう。

 私たちも、この絵に描かれているように、謙虚に神の導きを求める心、そして、神の導きに従う姿勢を持つなら、どんな困難があっても、それらを乗り越えて進むことができます。パウロは言いました。「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。」(テモテ第二1:12)神は、私たちが信頼して、決して失望させられることのない、真実で、誠実な方です。神のために生き、神に導かれて生きる人生ほど幸いな人生はありません。

 二、異邦人の偶像礼拝

 さて、イコニオムを追われたパウロとバルナバは「ルカオニヤの町であるルステラ」(使徒14:6)にやってきました。この地方はローマ帝国に組み入れられてまだ日も浅く、ローマの文化が十分には行き渡っていませんでした。この地方の人々はローマの言葉であるラテン語や、当時の共通語であったギリシャ語ではなく、ルカオニヤ語という言葉を使う、小アジアの先住民、アナトリヤ人で、生けるまことの神を全く知らない人たちでした。神を知らない異邦人という点では日本人と同じでした。

 ある時、パウロが人々に福音を語っていたとき、そこに生まれつき足の効かない人がいて、パウロの話を熱心に聞いていました。パウロはその人に信仰が芽生えたことを見抜き、大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言いました(8-10節)。すると、生まれてから一度も、自分の足で立つことも歩くこともできなかったこの人が、突然、飛び上がって、歩き出したのです。人々はこんなことを、今まで一度も見たことがありませんでした。それは現代の医学でも不可能です。もし、出来たとしても、長期間のリハビリテーションなしには出来ないことです。それが人々の目の前で一瞬にして起こったのです。この奇蹟は、神があわれみ深く、力あるお方であることを示し、パウロの伝えている福音が真実なものであることを証しするものでしたが、この奇蹟を見た人々は、パウロの伝えていた神をあがめるどころか、ルカオニア語で「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」叫び、「バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼び」ました。ゼウスはギリシャの神々の主神で、ヘルメスはその使者です。ルカオニアの町にはゼウスの神殿があったのですが、「ゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとし」ました(11-13節)。バルナバとパウロは、そのことに驚き、それをやめさせようとして、こう言いました。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。」(15節)

 ふたりが言った「むなしいこと」、あるいは「むなしいもの」というのは、偶像や偶像礼拝を指す聖書の言葉です。神は、あらゆるものを造られた造り主です。ところが、人類は、造り主である神をあがめることをしないで、造られたものにすぎない太陽、月、星、また、人間や動物などを神々としてあがめ、造られたものの姿を形に刻んでそれを礼拝するようになったのです。「むなしいもの」を礼拝するとき、人は自らがむなしいものになります。列王記第二17:15に「彼らは主のおきてと、彼らの先祖たちと結ばれた主の契約と、彼らに与えられた主の警告とをさげすみ、むなしいものに従って歩んだので、自分たちもむなしいものとなり、主が、ならってはならないと命じられた周囲の異邦人にならって歩んだ」とあります。イスラエルの人々はまことの神を知っていたのに、異邦人の道を歩んだのですが、異邦人はもとから、むなしいものに従い続けており、そして、そのことに気付いていないのです。

 イエス・キリストを信じることは、まず、「天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返る」ことから始まります。使徒信条は「われは、天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と言ってから、「われは、そのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず」と言っています。そのように、神を、天地の造り主、唯一のまことの神と信じ、このお方に立ち返ること、つまり、神への悔い改めの上にイエス・キリストへの信仰が成り立つのです。パウロは、使徒20:21で、「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張した」と言っています。また、テサロニケ第一1:9-10でも、こう言っています。「私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。」人は、「偶像」から「生けるまことの神」に立ち返り、それから、イエス・キリストを信じて救われるのです。

 神が天地の造り主、生ける神であるとの信仰は、イエス・キリストを信じる信仰の基礎です。このことがはっきりしていないと、イエス・キリストを受け入れるといっても、自分たちが今まで信じてきた神々に、もうひとつの神、キリストを加えるだけのものになってしまいます。私たちは、毎週、世界の国々のために祈っていますが、その祈りの課題の中に、「クリスチャンがアニミズムから解放されるように」というものが何度も出てきます。「アニミズム」というのは、さまざまな霊を信じる信仰で、日本の神道も同じです。「日本人は心に神道を根強く持っていて、その上に仏教を着、クリスチャンは、その上にさらにキリスト教という上着を着ている」と言われますが、もし、そうだとしたら、その信仰は本物の信仰ではありません。神道のアニミズムと「天地の造り主、全能の父なる神」を信じる信仰は相容れないものだからです。

 神が天と地の造り主であることは、聖書が教えることですが、神は、聖書を持たなかった異邦人のためにも、大宇宙や自然界のさまざまなものを通して、その存在、知恵や力を証ししてこられました。科学が進んで自然界の成り立ちが分かるようになり、世界が神の知恵と力によって形作られていることがもっと分かるようになりました。聖書に「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」(詩篇19:1)とある通りです。ダラスには ICR(Institute of Creation Research)という団体があって、創造の証拠を研究しており、小さいながらも、充実したミュージアムもあります。学ぶべきことが多くあり、神を知り、また、他の人に神のことを話すのにとても役に立ちます。神がこの世界と、私の造り主であることを知ることによって、世界観、人生観が変わります。そこからイエス・キリストの救いへと導かれていきます。

 バルナバとパウロは、このように、ルステラで、生ける、まことの神を証ししました。そして、ギリシャの神々をはじめ、偶像礼拝をしていた人々が生けるまことの神に立ち返り、イエス・キリストを信じる者へと変えられていきました。同じ神のみわざが、今、この時、ここで行われますように。人々は、パンデミックによって、不安と孤独の中にあります。ほんものの平安と救いは、生けるまことの神にしかありません。多くの人が神を求め、イエス・キリストの救いを受けるよう、なおも、祈り励みましょう。

 (祈り)

 天地の造り主、イエス・キリストの父なる神さま、あなたの知恵と力に信頼します。人を救うあなたのみわざは今も変わりません。この時、ひとりでも多くの人が、正しい信仰へと導かれ、その人生が幸いで満たされますように。イエスのお名前で祈ります。

5/2/2021