福音による解放

使徒13:38-39

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13:38 ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。
13:39 モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。

 きょうは、パウロが、ピシデヤのアンテオケで語ったメッセージをとりあげます。それは使徒13:16-41にあって、三つに分けることができます。

 一、旧約に預言されている福音(16-26節)

 最初のセクションは16-26節で、福音は、すでに旧約で預言され、約束されていたことが語られています。パウロは、そのメッセージを、「出エジプト」から始めました。「出エジプト」は、イスラエル民族に起こった出来事ですが、それは、全人類がイエス・キリストによって救われることの予告や雛形でした。イスラエルがエジプトで奴隷であったように、すべての人は罪の奴隷です。イスラエルの人々の代わりに過越の子羊がほふられたことによってイスラエルがエジプトの奴隷から解放されたように、イエスも神の子羊となって十字架で血を流し、信じる者を罪の奴隷から解放してくださったのです。

 罪や悪習慣に浸っている人は、「止めようと思えばいつでも止められる」と言うのですが、実際は、自分で自分がしていることを止められないでいます。罪は、人を奴隷にするのです。しかし、自分の罪を認め、そこからの救いを願い求めるなら、救い主イエスが私たちを罪の奴隷から解放してくださいます。

 パウロの話は、出エジプト後のイスラエルの歩みからダビデに及びました。そして、23節に「神は、このダビデの子孫から、約束に従って、イスラエルに救い主イエスをお送りになりました」と、イエスのことを語りました。イエスを「ダビデの子」として紹介しています。

 聖書には同じ名前の人が幾人か登場しますが、「ダビデ」という名の人は、イスラエルの二代目の王、ダビデのほかありません。「ダビデ」という名には「愛された者」という意味があり、ダビデは、神に愛され、神を愛した特別な王でした。ダビデ以後、数多くの王が立てられましたが、その誰もが「ダビデのようであった」か、「ダビデのようではなかったか」で評価されているほどです。イエスもまた、神のひとり子として特別なお方でした。バプテスマのとき、天から「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という声があったように、イエスは永遠の先から、神が愛しておられた神のひとり子でした。

 ダビデは、王としての油注ぎを受けたあとも、先の王、サウルからしつこく命を狙われました。老いてからは、肉親や臣下に裏切られ、いったんは、王位を追われました。ダビデが受けた苦難は、イエスがお受けになった苦難の預言にもなっています。

 それから、パウロはイエスが旧約が予言していた救い主であるという、バプテスマのヨハネの証言について語りました。

 ある人たちは、旧約はユダヤの人の物語で、ユダヤ人でない私たちには関係がないと言う人もいますが、決してそうではありません。聖書は旧約と新約の二つで成り立ちます。旧約がなければ、新約を正しく理解することができず、新約がなければ旧約も正しく解釈することができません。新約にも神が世界を創造されたことが書かれていますが、創世記や詩篇、その他のところには、神の創造のみわざが見事に描かれており、それによって私たちは、神が、全知全能のお方、唯一の生ける神であることを知ることができます。国際宇宙ステーションへの宇宙船が打ち上げられたとか、惑星探査機からデータが送られてきたなどのニュースを聞くたびに、この広大な宇宙を造られた神の栄光を思うことができます。また、小さな草花を見たり、小鳥のさえずりを聞く時も、神のいつくしみを思うのです。

 また、イエスが宣べ伝えた「神の国」にしても、旧約時代に、神がイスラエルをご自分の民として選び、外敵から守り、豊かな収穫を与えてくださったことや、神殿を与え、そこでの礼拝を通して、神との交わりを与えてくださったことなど、目に見える具体的なもの、雛形があればこそ、本来のものがどんなものかを思い見ることができるのです。旧約は、神の存在やご性質、天の霊的なことを、地上の具体的な事柄を通して見せてくれているのです。

 パウロは、次のセクションに入る前に、26節で、一区切り置いて、こう言いました。「兄弟の方々、アブラハムの子孫の方々、ならびに皆さんの中で神を恐れかしこむ方々。この救いのことばは、私たちに送られているのです。」「神を恐れかしこむ方々」とは、ユダヤ人でない人々のことです。旧約に預言され、約束され、準備されてきた「救いのことば」は、「アブラハムの子孫」、つまり、ユダヤの人々だけでなく、神を求め、信じ、敬う、あらゆる人のためのものだと言っています。ですから、旧約も私たちの聖書です。

 私たち異邦人も、イスラエルの人々と同じように、神によってずっと以前から愛されており、救いにあずかるようにと、招かれていたのです。イエスはユダヤ人として生まれました。十字架と復活は、エルサレムで起こった出来事です。けれども、イエス・キリストによる救いは、イスラエルのためだけではなく、全人類のためのものでした。エレミヤ31:3に「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに誠実を尽くし続けた」という言葉があります。神が私たちを愛して、イエス・キリストによる救いをくださったのは、決して、神が、思いつきや気まぐれでなさったことではありません。神の永遠の愛がイエス・キリストによる救いをもたらし、神の忍耐深い愛が、全人類の救いを成就したのです。旧約の物語は、神の愛の物語です。

 二、十字架と復活の福音(27−37節)

 二番目のセクション、27−37節には、イエスの十字架と復活が語られています。29節に、「こうして、イエスについて書いてあることを全部成し終えて後、イエスを十字架から取り降ろして墓の中に納めました」とありますが、「イエスについて書いてあることを全部成し終えた」のは誰でしょう。イエスの反対者たちです。彼らは、イエスを亡き者にするために策略を巡らし、それを一つひとつ実行に移しました。彼らは、自分たちのしたことがうまくいったのを喜んだことでしょうが、実は、彼らの企みが成就するたびに、救いの計画も成就していったのです。イエスが十字架で息を引き取られたとき、悪が善に勝ったかのように見えました。しかし、実際は、神の義が罪に勝ち、神の愛が悪に勝ったのです。イエスはご自身の死によって、人類を罪と死から贖い出してくださったのです。

 彼らはイエスを墓に閉じ込めました。しかし、誰もイエスを死者の世界に閉じ込めておくことはできません。イエスは復活し、私たちに永遠の命を与える救い主であることが、すべての人に向かって宣言されました。これが福音です。福音の中心は、イエス・キリストの十字架と復活です。十字架と復活が人を救います。その十字架と復活が「わたしのためであった」と信じ、受け入れる人が救われます。ローマ10:9-10に「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」とある通りです。

 三、罪の赦しの福音(38-41節)

 パウロのメッセージの第三番目のセクションは38-41節です。ここで、パウロは、イエス・キリストによって私たちに「罪の赦し」が与えられると言っています。そして、この罪の赦しは、イエス・キリストを信じる信仰によって受けるのであって、「律法」によるのではないと言いました。パウロが「福音」と「律法」を比較しているのは、ユダヤの人々が、「律法」を大切にするあまり、人は律法を守れば救われると考えていたからでした。

 「律法」とは、神が人間に、正しく生きるためにお与えになったものです。一般の「法律」は、社会を営むうえで必要な人と人との関わりを定めたものですが、神が与えた「律法」には、たんに人と人の関係だけでなく、神と人との関係が定められています。「律法の中の律法」といえば、「十戒」ですが、それは、「〜しなさい」「〜してはいけない」というルールを定めただけのものではありません。十戒は、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」(出エジプト20:2)との言葉で始まっており、これが大切です。神は、ご自分を「わたし」と呼び、イスラエルを「あなた」と呼んでいます。神とイスラエル、また広く言えば、神と人との関係、交わりが、そこで言われているのです。神が人に十戒をお与えになったのは、神と人とが、「わたし」と「あなた」という人格の関係で、さらに言えば「愛の関係」で結ばれ続けるためなのです。神はイスラエルに「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である」と言われましたが、これは、キリストを信じる者にも、そのまま語りかけられています。神は、イスラエルだけでなく、キリストを信じる者をも、罪の奴隷から解放してくださったからです。神は、キリストを信じる者の神となり、キリストを信じる者は神の民とされているのです。「わたしはあなたの神、あなたはわたしの民。」これが律法の出発点です。

 ところが、ユダヤの人々は事細かな律法のシステムを作り、その律法のシステムを守ることによって、永遠の命を得、神の国に入ることができると教えていたのです。

 しかし、私たちは、本当に、律法を落ち度なく守ることができるのでしょうか。律法が神との交わりに基づいている以上、それは、表面的に規則を守るということだけで終わらないはずです。心から神を畏れ、神の前にへりくだって悔い改めること、神の恵みを忘れず、それに感謝することなど、そこには、私たちの内面に関わることが要求されています。神の律法は、清く、正しく、純粋で、深いものです。私たちは、神の律法を聞いて、その素晴らしさを誉め、また、喜ぶのですが、では、自分がそれを実行できているかというと、決してそうではないことに気付きます。ユダヤの会堂では安息日に律法と預言者が朗読され、人々はそれをうやうやしく聞いていましたが、それだけでは、律法を守れなかった罪は、解決されないのです。ユダヤ人も外国人も、律法が私たちの罪を示すことはあっても、罪を赦すことはできないことを感じていました。真剣に救いを求める人たちは、人の罪を責める「律法」ではなく、「あなたの罪は赦された」という「福音」を求めていたのです。パウロは38-39節で、こう言いました。「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。」十字架と復活によって勝ち取られた「罪の赦し」をはっきり語っています。

 「信じる者はみな、この方によって、解放される」、この「解放される」と訳されている言葉は、他では「義とされる」と訳されています。ここで「解放される」と訳されているのは、「義とされる」、つまり、神によって「正しい者」と認められ、神に受け入れていただき、「あなたの罪は赦された」と宣言していただくことは、最高、最大の「解放」だからです。恩赦を受けた者は、もう監獄にいる必要はありません。そこから解放されます。同じように、罪の赦しは、私たちを束縛してきた罪から、私たちを解放するのです。

 もちろん、罪から解放されるといっても、勝手気ままにしてよいということではありません。「わたしはあなたの神、あなたはわたしの民」と言ってくださる神に、今度は、私たちが、「あなたは私の神、私はあなたの民です」と告白し、神に近づくのです。赦しの恵みに感謝し、自由な心で、神に従うのです。それができるのは、福音により、罪の赦しを受けた人だけです。福音のメッセージが私たちに与える、この赦しの恵みを、今、イエス・キリストの御手から受け取ろうではありませんか。

 (祈り)

 「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそ…」私たちは、自分の罪を知りながらも、それを悔い改めて、あなたのもとに近づきます。キリストの救いのゆえに、私たちに罪の赦しの言葉を与え、私たちのこころに平安と解放を与えてください。主イエスのお名前で祈ります。

4/25/2021