13:1 さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。
13:2 彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。
13:3 そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。
13:4 ふたりは聖霊に遣わされて、セルキヤに下り、そこから船でキプロスに渡った。
「使徒の働き」は大きく三つに分けることができます。1〜7章には「エルサレムでの伝道」、8〜12章には「ユダヤ・サマリヤでの伝道」、13〜28章には「地の果てまでの伝道」が記されており、使徒13章は、「地の果てまでの伝道」の第一歩として、バルナバとサウロが最初の伝道旅行に出かけたことが、書かれています。きょうは、聖霊の導きについて学ぶのですが、その前に、バルナバとサウロが、そこから遣わされたアンテオケ教会のことを少し見ておきましょう。
一、アンテオケ教会
アンテオケはエルサレムから直線で400マイル北にある町で、現在ではトルコに属し「アンタキヤ」と呼ばれています。この町に教会ができたいきさつは、使徒11:19-26にあります。
アンテオケの教会にはバルナバ、サウロの他に、シメオン、ルキオ、マナエンといった指導者がいました。アンテオケ教会は、さまざまな面で神の祝福を受けていましたが、その中でも、最も大きな祝福は、良い指導者に恵まれていたことでした。物事を成し遂げるには、「物資」や「お金」、それらを活用するための「方策」などが必要だと言われます。これらは、英語では、「M」で始まる言葉、material, money, method で表すことができるのですが、こうしたものよりももっと大切な「M」で始まるものがあります。それは man、「人材」です。それで、どの企業でも、人材を確保するために努力し、多くの人件費を使っています。それは、一般のビジネスだけでなく、教会のミニストリーでも同じです。神は、物資や金銭、方策よりも、人を用いて物事をなされます。エルサレム教会で、問題が起こったとき、教会はどうしたでしょうか。どうやって問題を解決するかという方策を話し合ったのでなく、七人の「聖霊と知恵と信仰に満ちた人」を選びました。問題を解決するのが「方策」よりも、「人」だからです。
1節に名前があるシメオンは「ニゲル」とも呼ばれています。「ニゲル」というのは「黒い」という意味のラテン語です。ローマ帝国はアジアとヨーロッパだけでなく、地中海に面する北アフリカをも領土にしていて、そこでは、ローマの文化が行き渡り、ラテン語が使われていました。シメオンの先祖は北アフリカ出身だったのでしょう。
次に名前の上がっている「ルキオ」は「クレネ人」で、彼の先祖も北アフリカのクレネの出身でした。使徒11:20に「ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた」とありますが、この「幾人かのクレネ人」のひとりがルキオだったと思われます。
三人目のマナエンは「国主ヘロデの乳兄弟」と言われています。この「ヘロデ」は、ヘロデ大王の息子のひとり、ヘロデ・アンティパスのことです。「乳兄弟」というのは、宮廷で王子を育てるとき、臣下の同年齢の子どもを王子の兄弟がわりに一緒に育てるという慣わしがありました。マナエンは、成人するまで、ヘロデ・アンティパスと一緒に、ヘロデの宮廷で育ったのでしょう。アンティパスは、バプテスマのヨハネを殺害し、イエスを侮辱した人物になりましたが、マナエンはイエスの弟子となり、主の教会に仕える者となりました。同じ環境で育っても、アンティパスは物質的には恵まれていても、神から離れ、神からも見捨てられた惨めな生涯を送りました。けれどもマナエンは、迫害によって目に見えるものは失っても、神に愛され、神を愛する豊かな生涯を送りました。多くの人は、持って生まれた素質によって人生の大部分はすでに決められている、また、その他の部分は生まれ育った環境によって決まると信じていますが、決してそうではありません。その人がどのような人生を送るかを決めるのは、その人が何を選ぶかによります。キリストへの信仰を選ぶのか、不信仰を選ぶかによるのです。若者たちへのアドバイスに、“Choose Christ.”(キリストを選ぼう)という言葉がよく使われます。しかし、これは、年齢に関係なく、すべての人に、どんな場合でも、当てはまるアドバイスだと思います。何かの決断をするとき、それはキリストに信頼することに基づいているだろうか、また、イエスに従うことになるのかを考えて、選びましょう。信仰の選択が、この世においては幸いな人生を、世を去ったのちは永遠の幸いをもたらすのです。私たちは、多くの人が、キリストを選び、この幸いを見出すよう、心から祈っています。
二、聖霊の導きと祈り
さて、きょうの本題に入りますが、聖書はアンテオケ教会のキリスト者が、共に集まり、断食をして祈っているときに、聖霊の導きがあったと書いています。聖霊の導きが祈りのうちに示されたのです。
聖霊の働きと祈りとは切り離せないものです。しかも、心を合わせ、ひとつになり、熱心に祈る祈りを通して、聖霊は働かれます。使徒1:14に、「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた」とあるように、弟子たちは、ペンテコステの日を迎えるまで九日の間、祈りに専念しました。そして聖霊を受けました。
使徒4:24−31には、人々が「みな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて」祈った結果、一同が「聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした」とあります。祈りが人々にイエス・キリストを証しする力を与えました。
使徒10章には、コルネリオに天使が現われて、彼に、「ペテロを招きなさい」と告げたのは、彼が祈っていた時だったとあります。コルネリオは、すぐに三人の使いをペテロのところに送りました。彼らがペテロのいた家の戸口に立ったとき、聖霊がペテロに語りかけました。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」(19-20節)聖霊がペテロ導いたのも、ペテロが祈っていた時でした。このように、聖霊の導きは祈りの中で与えられてきました。それは、今も変わりません。聖霊の導きは、それを求めて真剣に祈る人に、必ず与えられます。
使徒12:25に、「任務を果たしたバルナバとサウロは、マルコと呼ばれるヨハネを連れて、エルサレムから帰って来た」とあります。この「任務」というのは、飢饉にみまわれたエルサレム教会に救援物資を届けることでした。バルナバとサウロがその任務にあたりました。ふたりは、アンテオケとエルサレムとを往復する間に、この旅行が終わったら、アンテオケからさらに西に足を伸ばして伝道旅行に行こうと話しあったのかもしれません。しかし、そういったことは軽々しく決めてよいことではありませんので、ふたりは教会に帰ってから、そうした考えを人々に話し、導きを待ちました。そのことについてさまざまな意見が出たことでしょう。しかし、ふたりは、人々の意見だけで物事を決めることをしないで、聖霊の導きに委ねました。その導きを得るため、皆で祈ることを提案しました。2節の「彼らが主を礼拝し、断食をしていると…」とある、「彼ら」は、教会全体を指しています。教会の全員が聖霊の導きを求めて祈りに専念しました。聖霊は、その祈りに答えて、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」という明確な導きをくださったのです。
これは私たちにも当てはまります。私たちは、何か、決定しなければならないことがあった時、できるかぎりの情報を集め、人からのアドバイスをもらいます。情報を集めることも、アドバイスをもらうことも良いことです。しかし、最終的に物事を決めるときには、静かに祈り、落ち着いて聖霊の導きを求めることが信仰者には必要です。自分で結論を出すのでなく、「聖霊が導かれるなら、それに従います」という、謙虚な心で祈るとき、信じる者の内にいてくださる聖霊が、確かな導きを与えてくださるのです。
三、聖霊の導きと教会
聖霊は祈りを通して導きを示してくださることを学びましたが、次に、聖霊が教会を通して導きを示されるということを考えてみましょう。
3節では「彼らは…ふたりを…送り出した」とありますが、4節では「ふたりは聖霊に遣わされて」とあります。バルナバとサウロは、伝道旅行に、教会によって送り出され、聖霊によって遣わされています。これは、聖霊と教会がひとつになって、その働きをしていること、また教会が、聖霊のエージェントとして用いられていることを言い表しています。同じような表現は、使徒15:28にもあります。そこには、「聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました」と書かれています。「聖霊と私たち」というのも、聖霊と教会がひとつのもの、また、教会が聖霊のエージェントであることを言い表しています。
バルナバとサウロは、教会は聖霊なしには成り立たないものであることをよく知っていましたが、同時に、聖霊が教会を用い、教会を通して働いてくださることもよく知っていました。それで、自分たちに与えられた伝道旅行のビジョンを教会に諮ったのです。ふたりとも、聖霊に満たされた人物で、キリストの使徒でしたから、ふたりでものごとを決めることができたかもしれませんが、自分たちのうちに働かれる聖霊は、他の信仰者にも住まわれていることを信じ、教会を通して、客観的にも聖霊の導きを受け、それに従おうとしたのです。
私たちも同じようでありたいと思います。自分は聖霊に導かれていると思っても、教会に諮って、そのとおりにならないこともあります。すべてのことには時があります。それがみこころにかなうものであったとしても、今はその時ではなく、他のことが優先されなければならないかもしれません。聖霊の導きが、いつでも自分の願いと一致するとは限りません。聖霊が教会全体のことを考慮しておられるように、私たちも、聖霊の導きを確かめるために、「教会」を考慮に入れる必要があります。聖霊の導きは、それが確かなものであれば、同じ聖霊を宿している他の信仰者たちにも、示されるはずです。私たち一人ひとりは「聖霊の宮」ですが、同時に、教会は全体として「聖霊の宮」です。ですから、一人ひとりが聖霊の導きを求めて祈るとともに、その祈りを教会の指導者や信仰の仲間にも祈ってもらい、ともに聖霊の導きを求めていくことが、私たちには必要です。そのようにして、私たちは、聖霊の導きを主観的にだけでなく、客観的にも確かめることができ、間違いのない歩みができるようになるのです。
きょうは、聖霊の導きと聖書について話すことができませんでしたが、聖書のほんらいの著者は聖霊ですから、聖霊が聖書に矛盾する導きをなさるわけがありません。聖書によって聖霊の導きを確かめることをおろそかにしてはいけません。けれども、私たちは聖書の全部を知ってはいませんし、どんなに優れた人でもひとりの人がすべてを理解しているわけではありません。ひとりよがりになることなく、説教やバイブルスタディを通して、教会が、二千年の歴史を通して蓄えてきた御言葉の知恵、知識に学ばなければなりません。
右に行くべきか、左に行くべきかといった決断が迫られるときは、人生の中でそんなに何度もあるわけではありません。しかし、信仰生活では、毎日、さまざまな場面で、小さな決断が求められるでしょう。そうしたことでも、「聖霊よ、導いてください」と祈り求め、答を得、それに従うことをしていきましょう。そうした日々の決断が信仰によってなされるとき、大きな決断も正しくできるようになります。祈りのうちに聖霊の導きを聞き、教会に助けられ、聖書によって導きを確認し、平安のうちに歩み、幸いな人生へと導かれていきましょう。
(祈り)
信じる者を聖霊によって導いてくださる神さま。あなたは、私たちが聖霊の導きを間違えずに受け取ることができるため、祈ることを教え、教会を備え、御言葉を与えてくださいました。どうぞ、日々の信仰の歩みにおいて、聖霊の導きを祈り求め、それに従うことができるよう、助けてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
4/18/2021