12:1 そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、
12:2 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
12:3 それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕えにかかった。それは、種なしパンの祝いの時期であった。
12:4 ヘロデはペテロを捕えて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過越の祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。
12:5 こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。
きょうの箇所の5節は、原文では、「祈りが教会によってささげられていた」とありますが、日本語では、「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた」と訳されています。「人々が教会で祈っていた」というのなら、誰もが使う表現ですが、ここでは、「教会は祈っていた」と言われています。この表現は、私たちに、祈りについて、いくつかの大切なことを教えてくれます。きょうは、そのことを学びましょう。
一、祈りの家
まず、第一に、この言葉は、教会が祈りの家であることを教えています。
イザヤ56:7に「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ」とある通り、旧約時代、神殿は「祈りの家」と呼ばれていました。ところが、イエスの時代には、神殿が巡礼に来る人々を相手に商売をする場所になっていたので、イエスは、鞭をふるって商売人を追い出し、「宮清め」をなさったのです(マルコ11:17)。
アメリカでは地域の必要に答えて、教会は様々な用途に用いられます。私の知っている教会では、毎2回、駐車場が、市のリサイクル・イベントに使われます。また、今年のウィンター・ストームでは避難所になりました。私がコロナのワクチン接種を受けたのは、St. Philip Methodist Church という教会でした。教会で、さまざまなイベントやバザーが行われたとしても、それがちゃんとした目的をもってなされるなら、決して悪いことではありません。しかし、教会から祈りが消えて、そこが単なるソーシャルの場やイベント会場になってしまうとしたら、それは聖霊を悲しませると思います。
日本では、カラオケ会場でコロナウィルスに感染する人が多いので、いくつかの教会では、礼拝のとき、賛美を小さな声で一節だけしか歌わないようになったそうです。人々が教会で大きな声で歌っているのを聞いて、「カラオケをやっている」と誤解されないためなのだそうです。一般の人々は教会をイベントの会場だと考えていたとしても、私たちは、教会が、まず、何よりも、そこで祈りがささげられる「祈りの家」であることを覚えていたいと思います。
使徒2:42に「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」とあります。ここで「堅く守り」と訳されている言葉には、「専念する」という意味があります。しかも、この「専念する」という言葉は、「使徒たちの教え」だけでなく、「交わり」、「パン裂き」、そして「祈り」のすべてにかかります。つまり、教会は、そのはじまりの時から「使徒たちの教え」と「交わり」と「パン裂き」、そして「祈り」に専念していたのです。この四つは、弟子たちが選んだことではなく、キリストによって教会に与えられた使命ものです。教会は御言葉を聞き、祈り、聖餐を共にして交わる場です。人々は祈るために教会に集まり、集まったときには、かならず祈りました。人々は主の名を呼んで祈りました。
それで、弟子たちは「御名を呼ぶ者たち」と呼ばれました(使徒9:14、9:21)。弟子たちは自分たちを「祈る者」、教会を「祈りの家」と考えました。祈りは、弟子たちのアイデンテティであり、教会のしるしでした。今日の私たちも、「教会は祈りの家」、「クリスチャンは祈る人」であることを人々に知ってもらえるようになりたいと思います。
私たちが内面に抱えている課題や、人生の様々な問題は、最終的には祈りによって神のところに持っていく以外に解決できないものが多くあります。そのような時、人々が神を求め、祈るために教会に来るようになって欲しいと思います。「私のために祈ってください」と、教会の祈りを求めるようになって欲しい、祈りによって解決を見て、神を信じ、キリストに従う者となって欲しいと、心から願っています。
二、一致した祈り
次に、「教会は祈っていた」という言い方は、みんなが心を合わせ、一致して祈ったことを表しています。教会はそれまでは宗教指導者たちから迫害を受けていました。ところが、今回は、紀元41年にユダヤの王となったヘロデ・アグリッパ一世から迫害を受けました。彼は、生まれたばかりのイエスを殺害しようとしたヘロデ大王の孫で、ヘロデ一族はバプテスマのヨハネを殺し、イエスを十字架に追いやり、今、十二弟子のひとりヤコブを殺し、ペテロを殺そうとしていました。こんな大変なときには、教会のだれひとりももれることなく、こぞって、熱心に祈ったことでしょう。そのことが、「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた」という言葉に表されています。
祈りには、一定の法則が見られます。まず、悔い改め、へりくだる祈りに、神は耳を傾けてくださいます。ダビデ王は自分の罪を心から悔い改めて祈ったので、赦しを受けました。ダビデはその体験から、「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」と言っています(詩篇51:17)。ヨシヤ王は預言者から神の言葉を聞いたとき、心を痛め、神の前にへりくだりました。それで神はヨシヤに「あなたは心を痛め、神の前にへりくだり、わたしの前にへりくだって自分の衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる」と語ってくださいました(歴代誌第二34:27)。イエスは、「パリサイ人と取税人の祈り」のたとえで、パリサイ人の「立派な」祈りではなく、取税人の「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」という祈りが神に受け入れられたと言っておられます(ルカ18:10-14)。また、熱心に、あきらめずに祈る祈りや、神が聞いてくだると信じて祈る祈りが聞かれることがなどが、聖書に教えられています。
それと同じように、人々が心を一つににして祈るなら、その祈りは聞かれることも約束されています。イエスはマタイ18:19で、こう言っておられます。「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」これは、イエスの約束ですから、これ以上に確かなことはありません。二人、三人が心を一つにして祈れば、それが聞かれるとしたら、もっと多くの人が心をひとつにして祈るなら、どんなに大きなことが起こることでしょうか。以前、ペテロとヨハネがユダヤの指導者たちの尋問を受け、「イエスの名によって語ってはならない」と脅かされたうえで釈放されたことがありました。そのとき、弟子たちは「心を一つにして」祈りました(使徒4:24)。すると、祈っていた場所が震え、一同は聖霊に満たされ、大胆に神の言葉を語るようになりました。一つになって、心を合わせて祈る祈りを神は聞いてくださいます。それは祈りの法則で、この法則に従う者を、神は喜んでくださいます。
三、祈りの力
さて、教会のみんなが心を合わせて祈った祈りは、どのような結果をもたらしたでしょうか。ペテロは鎖につながれたうえ、四人一組みの兵士四組によって監視されていました。一組が六時間づつ、四交代でペテロを牢獄に閉じ込めていたのです。しかし、人間のどんな力も、神の前には無力です。ペテロは御使いに導かれてやすやすと牢獄から出ることができました。ペテロ自身も信じられないような出来事で、ペテロは夢を見ているのだと思ったほどでした。ペテロは牢獄を出て、すぐに、人々が集まって自分のために祈ってくれている家に行きました。ドアを叩く音がしたので、ロダという召使いが行ってみるとペテロの声だったので、人々に「ペテロ先生が来ています」と言いましたが、人々はロダの言葉を信じませんでした。彼らはペテロの救出のために祈っていたのですが、神が、こんなにも早く、超自然の仕方でペテロを救い出してくださるとは、考えていなかったのです。人々は、自分たちの祈りをはるかに超えてみわざをなしてくださる神に、どれだけ感謝したことだろうかと思います。祈りは聞かれるのです。しかも、それは、しばしば、私たちの思いをこえたものです。
これはアフリカのある小さな村の診療所で働いていた宣教師が実際に体験した話です。彼は、二週間おきに町まで生活物資や診療所で使う薬の買出しに行っていました。町に出て再び村に帰るのに二日かかり、途中、野宿をしなければなりませんでした。この宣教師がいつも決まって町に買出しに行くのを知っていた町のならず者たちが、宣教師を襲って、金品を奪おうとしました。寝込んでいる宣教師を見つけて襲おうとしたのですが、宣教師の周りに二十六人の護衛がいるのを見て、彼らは勝ち目がないと思って逃げ出してしまいました。この宣教師は、町に行った時、そのならず者のひとりがけんかをして怪我をしているのを見て、その手当てをしてやっているときに、そのことを聞いたのです。もちろん、宣教師には護衛などだれひとりいません。宣教師は、この不思議な出来事はきっと神の守りに違いないと確信して、神に感謝しました。このことがあって、しばらして宣教師は帰国して、ミシガンの自分の教会で、この話をしました。すると、ある男性が興奮して「それはいつ起きたのですか」と尋ねました。すると、その男性は、その時間をアメリカの時間に換算して、「あなたがならず者に襲われそうになったちょうどその時間に、私たちはあなたのために祈っていました」と言いました。そして、彼は皆に向かって言いました。「その時、一緒に祈っていた人は、皆ここに来ているはずです。立ってください」と言いました。宣教師が立ち上がった人を数えたら、なんと二十六人でした。宣教師をガードしていた二十六人の護衛の数と同じだったのです。一同は、神が人々の祈りを用いてくださったことを確信し、大いに神を賛美しました。
このような証しは、祈りを大切にする教会では、どこででも見られると思います。
よく、「私には祈ることしかできませんが…」と言われることがあります。私は、そんな時いつも「祈りが一番大切なのです。他のどんなことよりも、祈って欲しいのです」と答えます。英語で covet という言葉には「他人の物などをむやみに欲しがる」という意味があって、聖書はそれを戒めているのですが、ひとつだけ例外があります。それは、祈りについてです。パウロの手紙を読むと、いたるところで「祈ってください。私のために祈ってください」と人々にねだっています。私も、英語で手紙を書く時、“May I covet your prayer?” と書くことがあります。他の人に祈ってもらい、また、自分も他の人のために祈る。これこそが、信仰者だけにできる特権、祈りのまじわりです。
祈りには力があります。なぜなら、それは全能の神に届くからです。祈りは必ず聞かれます。祈りを聞いてくださる神は恵み深いお方だからです。皆さんは、イエスを信じ、まことの神に祈る生活を始めていますか。教会で、一緒に祈ることを学び、実行していきましょう。このような祈りが聞かれる。こうすればよいということを知っていても、実行しなければ、いつまでたっても、祈りの力を体験することはできません。きょう教えられたことを実際にやってみましょう。そして、神の御業を見て、神を大いにほめたたえましょう。
(祈り)
私たちの祈りを聞いてくださる、父なる神さま。あなたは、私たちに、「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう」と語っておられます。あなたの言葉の通り、あなたを呼び求め、あなたを捜し求める者としてください。また、そのような人を、多く起こしてください。そして、この場所を、ここから、あなたへの祈りが、香のかおりのように立ち上るところとしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
4/11/2021