すべての人の主

使徒10:30-36

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10:30 するとコルネリオがこう言った。「四日前のこの時刻に、私が家で午後三時の祈りをしていますと、どうでしょう、輝いた衣を着た人が、私の前に立って、
10:31 こう言いました。『コルネリオ。あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前に覚えられている。
10:32 それで、ヨッパに人をやってシモンを招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれている。この人は海べにある、皮なめしのシモンの家に泊まっている。』
10:33 それで、私はすぐあなたのところへ人を送ったのですが、よくおいでくださいました。いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。」
10:34 そこでペテロは、口を開いてこういった。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、
10:35 どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。
10:36 神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。

 福音は「エルサレム」で始まり、「ユダヤとサマリヤの全土」に広がり、やがて「地の果て」(全世界)に届けられるようになりました。「使徒の働き」はそのことの記録です。「使徒の働き」の全体は「エルサレム」、「ユダヤとサマリヤ」、「地の果て」という順序で三つに分けることができます。第一部(1〜7章)「エルサレム篇」、第二部「ユダヤ・サマリヤ篇」(8〜12章)、第三部「地の果て篇」(13〜28章)というわけです。

 一、コルネリオを訪ねたペテロ

 きょうの箇所は、「使徒の働き」の第二部「ユダヤ・サマリヤ篇」に属するのですが、これは第三部「地の果て篇」の前触れともなっています。ここでローマからカイザリヤに派遣されていたコルネリオという百人隊長がイエス・キリストを信じ、救われ、聖霊とバプテスマを受けているからです。「イタリヤ隊」と言うのですから、彼の部隊はイタリヤ人で構成されており、隊長である彼もイタリヤ人だったのでしょう。「コルネリオ」はイタリヤによくある名前です。福音が彼に届けられたのは、やがてそれがローマに届き、ローマから地の果て、世界中に伝えられるようになることを予告するかのようです。

 コルネリオは異邦人でしたが、ユダヤの人々が信じるまことの神を信じていました。2節で彼は「敬虔な人」と呼ばれています。コルネリオがユダヤ人にまさって敬虔な人であったことはその通りなのですが、この「敬虔な人」というのは、割礼を受けてユダヤ人になることはなくても、まことの神を信じて、御言葉を聞き、神に祈る人々のことを指しました。コルネリオも毎日の祈りを欠かさない人でした。彼はある日の祈りの時、はっきりと神のお告げを聞きました。それは、カイザリヤから南に35マイルほどのヨッパの町にいるペテロを招くようにというものでした。コルネリオはすぐにヨッパに使いをやりました。今なら1時間ほどで行ける距離ですが、当時は歩いて12時間はかかりました。コルネリオの使いは途中一泊して翌日ヨッパに着き、お昼ごろペテロのいた家に向かっていました(1-8節)。

 ペテロのほうはと言えば、その日の正午の祈りの時、不思議な幻を見ました。それは、天から大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来る幻でした。その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などが入っていました。そして、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声がしたのです。ユダヤの人たちには食べてはいけない動物がありました。それでペテロは、「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません」と答えました。すると、天からの声がこう言ったのです。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」同じ幻が三度もあり、ペテロは、この幻の意味を考え込んでいました。コルネリオの使いがペテロを訪ねてきたのは、ちょうどその時でした(9-20節)。

 ペテロはカイザリヤに行くようにと聖霊の示しを受け、翌日カイザリヤに向けて出発しました。途中で一泊して、その翌日の午後、コルネリオの家に到着しました。ユダヤ人が外国人の仲間になったり、その家を訪問したりするのは、律法にかなわないことと考えられていました。ペテロがコルネリオを訪ねるのは勇気と決断の要ることでしたが、それを促したのが、ペテロが見た幻でした。ペテロはそれによって信仰においては、ユダヤ人も異邦人も区別がないことを示されたのです。すべてを導いておられる摂理の神は、ユダヤ人で福音を語るペテロにも、異邦人で福音を聞くコルネリオにも、具体的な導きを示し、この二人を出会わせてくださったのです(21-23節)。

 神は、今も、同じことをしてくださいます。ですから、私たちは「神を求める人、福音に耳を傾ける人に出会わせてください」と祈る必要があります。その時、神は、私たちのところに求める人を送り、また、私たちを福音を聞きたいと願う人のところに導いてくださるでしょう。日系二世の豊留真澄先生は、同胞に伝道する難しさを身をもって体験しました。しかし、どうしても、この人たちが世を去る前に福音を伝えたいと願い、「心と心の伝道」という伝道方法をあみだしました。その中で先生は「伝道は祈りから始まる」と教えています。ピリポがエチオピアの役人のところに導かれ、ペテロがコルネリオのところに導かれたように、私たちも神の導きを祈り、それに従いたいと思います。

 二、ペテロを迎えたコルネリオ

 コルネリオの家についたペテロは「そこで、お尋ねしますが、あなたがたは、いったいどういうわけで私をお招きになったのですか」(29節)とききました。コルネリオは、四日前の出来事をそのままペテロに語りました(30-32節)。それだけではなく、こう付け加えました。「いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。」(33節)

 コルネリオはペテロの到着を待つ四日間を無駄にしませんでした。「コルネリオは、親族や親しい友人たちを呼び集め、彼らを待っていた」のです(24節)。この時代には電話などありませんから、いつペテロが到着するか分かりませんでしたが、人々は忍耐深く待ちました。御言葉を聞くために集まったのです。

 カリフォルニアでは、毎夏、サンタバーバラにあるウェストモント大学で日本語のリトリートをしていました。各地の教会から集まりますので、毎年200名から300名ほどの参加者がありました。あるセッションで私がメッセージをして講壇を降りると、すぐに、ひとりの教会のメンバーがやってきて、こう言いました。「先生、とてもいいメッセージでした。きょうのような話を教会でもしてくださいよ。」実は、そこで話したメッセージは、しばらく前に教会で話したものに手を加えたものだったのです。同じような話は教会で何度もしており、その人も聞いていたはずなのですが、その人はまるではじめて聞いたかのようにして感動したのです。私は、この人に御言葉が届いたことを喜びましたが、それと同時に御言葉が届くためには準備が必要なことを学びました。四日間のリトリートに出席するには早くから日程を確保し、旅費や参加費をセーブしておかなければなりません。また教会をあげてリトリートの祝福を祈り、期待して集会に出ます。そしてリトリートでも朝早くから祈りが捧げられます。そうした備えのあるところに聖霊が働き、神の言葉がその力を表すのです。

 私たちも御言葉を聞くのに、祈って備え、「神の御前に出ております」という姿勢で御言葉に向かいたいと思います。神はそのような人々に語ってくださるのです。

 三、すべての人の主

 ペテロは、コルネリオの返事を聞いて、こう言いました。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。」(34-36節)ペテロは、コルネリオの家に集まった人々を見て、イエスはユダヤ人のためだけの救い主ではない、すべての人の救い主、すべての人の主であることをほんとうに理解したのです。

 もちろん、ペテロはイエスがすべての人の主であることを知っていました。彼はユダヤの最高法院で尋問を受けた時、イエス・キリストを証しして「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」(使徒4:12)と言っています。イエス・キリストの御名だけがすべての人を救うということは、イエス・キリストがすべての人の主であるということです。しかし、「すべての人」の中に異邦人が含まれることは、頭で理解していても、まだ実際には体験していませんでした。今、カイザリヤに来て、「すべての人」の中に、コルネリオという、まったくの異邦人が含まれていることを、ペテロは実際の体験として知ったのです。

 ペテロは続いてイエス・キリストの十字架と復活を語り、「信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる」(43節)と語りました。すると、人々の上に聖霊がくだり、人々は聖霊に導かれるままに賛美を歌い始めたり、異言を語り出したりしました。このようなしるしは、人がキリストを信じるときにいつでも起こることではありません。しかし、当時、ユダヤ人と異邦人との壁はとても厚いものでしたから、異邦人にも信仰によって聖霊が与えられることがしるしとして示される必要があったのです。後にペテロは、異邦人のところに行ったことについて非難を受けました。とりわけ、「ユダヤ主義者」といって異邦人がクリスチャンになるには、まず、割礼を受けてユダヤ人になってからでなければならないと主張する人から攻撃されました。そのとき、ペテロはコルネリオのことを話して、ユダヤ人であっても異邦人であっても、人が救われるのは信仰によってであることを証ししました(使徒11:15-17)。生きた証しが真理を明らかにし、無益な論争に決着をつけるのです。

 イエス・キリストが「すべての人の主」であることが、いちばんよく分かるのは、このように、福音の宣教を通してです。宣教の物語を読むと、どの国の人々も、イエス・キリストの福音によって生活が変わり、人生が変わり、国も民族も変えられていったことを見ることができます。私の友人にアメリカにいるイラン人に伝道している人がいます。あるときバプテスマのためバプテストリーをお貸ししたことがあります。そのバプテスマ式で、ある人は英語で、ある人はペルシャ語で信仰の証しをしました。ムスリムがクリスチャンになるのは大変なことだと思いますが、この人たちは、イエスを信じた喜びを表情と言葉で証ししていました。私は、そこに参加して、「イエス・キリストはすべての人の主」であることを実感することができました。

 この人にはイエスはいらないという人はいません。文字どおり「すべての人」にイエス・キリストが必要です。私は、こどや大人、学生や会社員、主婦や年老いた人、健康な人や病気の人、さまざまな背景を持った人たちが、イエス・キリストによって救われていくのを見てきました。アメリカでは母国や言語の違った人々が救われて共にイエス・キリストを讚える麗しい光景を何度も見てきました。イエス・キリストは「すべての人の主」です。福音がさらに多くの人々に伝えられ、その人たちもコルネリオのように御言葉に耳を傾け、救われ、バプテスマを受け、聖霊によって生かされていくのをもっと見たいと思います。そして、多くの人たちと共に「イエス・キリストはすべての人の主です」と告白し、イエス・キリストを崇めたいと思います。

 (祈り)

 主イエス・キリストの父なる神さま、今では、あたりまえになっている異邦人の救いも、最初にそのことがなされるにあたっては、大きな障壁がありました。しかし、あなたは、ユダヤ人であるペテロをも、異邦人であるコルネリオをも共に導いてくださいました。ペテロはその導きに従って行動し、コルネリオも御言葉を聞く備えをしました。私たちにも、そのような従順で柔和な心を与え、あなたの導きに応える者としてください。私たちに多くの人々の救いを見せてくださり、おひとりの救い主イエス・キリストを共に崇めることができるようにしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

3/7/2021