雲がイエスを包み

使徒1:9-11

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1:9 こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。
1:10 イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。
1:11 そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」

 先週の木曜日はイースターから40日目、イエスが天にお帰りになった「主の昇天日」でした。この日になじみのない人は「そんな日があったんですか」と言うかもしれませんが、「主の昇天日」はドイツ、フランス、オランダ、デンマーク、ノルウェー、ベルギー、ハンガリーなどヨーロッパの数多くの国で、「国民の祝日」になっています。昇天日は木曜日ですので、アメリカでは、昇天日から三日後の日曜日を「昇天主日」として祝います。きょうがその日です。

 「主の昇天日」や「昇天主日」が忘れられがちな日であるように、イエスの昇天についても、その前後のイースターやペンテコステとくらべて、その意義を考えることが少ないのですが、イエスの昇天からは多くのことを学ぶことができ、それらは、私たちの信仰の励ましとなり、生活の導きとなります。ですからこのことについて、もっと学びたいのですが、そのすべてを一度にお話しできませんので、きょうは、イエスの昇天について、三つのことに絞ってお話ししたいと思います。

 一、イエスの栄光

 第一に、イエスの昇天は、イエスが「栄光の主」であることを教えています。イエスは人となって世に来られ私たちと変わらない生活を送られました。いや、私たちよりも、もっと貧しく、苦しい人生を歩まれました。イエスはガリラヤ地方のナザレの村で育ちましたので「ナザレのイエス」と呼ばれました。ユダヤの人々はガリラヤ地方を軽蔑しており、まして「ナザレ」などという小さな村など目にもとめませんでした。「ナザレのイエス」という呼び名には「田舎者のイエス」といった響きがありました(ヨハネ1:46)。また、ヨセフは「大工」でしたので、イエスも「大工の子」と呼ばれました。「大工」はギリシャ語で「テクトーン」、英語の〝technician〟にあたります。「工員」、「作業員」、「肉体労働者」などといった意味で使われました。職業に貴賤はありませんし、ユダヤでも自分の手を使って働くことは奨励されていました。けれども、イエスに反対するユダヤの「知識人」たちは、「大工」という言葉に軽蔑の意味を込めて使いました(マタイ13:55)。

 彼らは、ことごとくイエスに反対し、イエスを信じる者を会堂から追い出すという決定をしていました。彼らは、イエスをなき者にするため、イエスがどこにいるかを知っている者は報告するように、という命令さえ出していました(ヨハネ11:57)。イエスは「お尋ね者」のように追い回されたのです。

 そんなイエスの姿を見て、イエスから離れていく人々が次々生まれました。しかし、十二弟子たちは、イエスに対して、「あなたは生ける神の子キリストです」と、信仰の告白をしました(マタイ16:16)。そのころ、イエスはエルサレムに行こうとしておられました。そこには、イエスをなき者にしようと企んでいる人々が待ち構えており、イエスはそこで捕まえられ、罪に定められ、そして、十字架にかけられようとしていました。縄でしばられ、ムチで打たれ、さらには、裸にされて十字架でさらし者とされるのです。弟子たちは、そんなイエスを見て、「イエスはほんとうに神の子だろうか」と疑い出すかもしれません。

 それでイエスは、エルサレムに向かう前に、三人の弟子を連れて高い山に登られました。その山で、イエスのお姿が光り輝き、モーセとエリアが現れました。すると、雲がイエスを包み、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という天からの声が聞こえました(マタイ17:5)。イエスを包んだこの雲は、荒野で造られた最初のテント造りの神殿にも、ソロモンが作った石造りの神殿にも満ちています(出エジプト記40:34-35、列王記第一8:10-11)。この雲は、神の臨在と栄光を表すものでした。イエスは、雲に包まれたご自分を姿を見せることによって、ご自分が天の栄光を身におびている神の御子であることを示されたのです。

 同じことが、イエスの昇天のときも起こりました。9節に「こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった」とあるように、イエスは栄光の雲に包まれて天に昇っていかれました。イエスは、私たちを救うため、天に栄光を残して、地に来られたのですが、十字架の苦しみを受けて救いを成し遂げ、よみがえって、天に戻るとき、世に来られる前に持っておられた栄光を表されたのです。イエスは、それを目に見える形で示すことによって、弟子たちに、イエスが神の御子であり、栄光の主であることを確信させてくださったのです。

 第一テモテ3:16にこうあります。「だれもが認めるように、この敬虔の奥義は偉大です。『キリストは肉において現れ、霊において義とされ、御使いたちに見られ、諸国の民の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。』」イエスが「栄光のうちに〔天に〕上げられた」ことは、「信仰の奥義」、大切な信仰の要点の一つです。使徒信条も、「〔主は…〕天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と、イエスの昇天を告白しています。私たちも、イエスの昇天を覚えるたびに、「あなたこそ生ける神の子キリスト、栄光の主です」との信仰の告白をささげたいと思います。

 二、天へのアクセス

 イエスの昇天は、第二に、信じる者に天へのアクセスが開かれていることを教えています。イエスは、最後の晩餐のあと、イエスが世を去ろうとしていると聞いて動揺している弟子たちにこう言われました。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネ14:1-3)イエスは、信じる者がかならず天に迎え入れられることを保証するために、ご自分が「さきがけ」(先駆者)となって、天に入られたのです。

 天は神の住まいです。そこには死も、悲しみも、叫びも、苦しみもありません。天は全く聖いところ、命にあふれ、栄光に満ちているところです。私たちのたましいは、誰に教えられなくても、天にあこがれ、天を求めています。そうなのに、私たちは罪ある身で、そこに入れません。それが、人類がどんなにしても解決できなかった最大の問題でした。

 しかし、イエスは、十字架で、罪びとの身代わりとなって、罪の刑罰を引き受け、私たちに罪の赦しを与え、天の扉を開いてくださいました。ある人が「天の扉の鍵は十字架のかたちをしている」と言いましたが、天の扉を開く鍵は、まさに、イエスの十字架です。イエスは、その鍵を手にして天に昇られ、天の扉を開き、「信じて天に入れ」と私たちを招いておられるのです。ご自分がまず天に入られることによって、信じる者がすべて、そこに入ることができる道を作ってくださいました。

 私たち一人ひとりが、実際に、天に入り、イエスが用意してくださった場所に住み、そこにあるすべてのものを楽しむことができるには、まだ少し時間があるでしょう。しかし、聖書は、イエスを信じた私たちは、すでに天にいるとも教えています。エペソ2:4-6にこう書かれています。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」「キリスト・イエスにあって」とあるように、イエスが天におられるなら、救われてイエスと結ばれた者は、イエスを通してすでに天にいることになるのです。

 太平洋や大西洋を越えて旅行するとき、到着したらすぐに仕事にとりかからなければならない人は、飛行機を降りる前から時計を現地の時間に合わせ、自分の気持もそれに合わせるようにします。天への旅をしている私たちも、地上にはいても、天の時間に合わせ、天のルールに従ってものごとを考え、行動します。そうすることによって、この地上でも、天の祝福や平安を、先取りして受け取ることができるのす。

 先週、私たちは、「キリストの兵士」として、神の武具を身につけることを学びました。地上では武具が必要ですが、天では、もう武具はいらなくなります。そのかわりに白い衣としゅろの枝を受け取ります(黙示録7:9)。それは、礼拝する者の姿です。勝利の主を賛美するのです。古代から、地上の教会は Church Militant(戦う教会)、天の教会は Church Triumphant(勝利の教会)と呼ばれてきました。クリスチャン一人ひとりも、地上では「戦うクリスチャン」です。しかし、それは勝つか、負けるか分からない戦いではありません。イエスはすでに勝利しておられます。私たちの戦いは必ず勝つ戦いです。天と天の勝利は私たちのものです。この確信を持って、天に迎えられる日まで、歩み続けましょう。

 三、多くの人の救い

 第三に、イエスの昇天は、より多くの人を救うためでした。ギリシャ人がイエスに面会を求めたとき、イエスは言われました。「わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」(ヨハネ12:32)ここで「地上から上げられる」というのは、十字架にかけられることを意味していますが、同時に、地上を離れ天に昇ることも意味しています。十字架、復活、昇天と続く出来事を通して、イエスは、ガリラヤやユダヤの各地でなさった以上に、もっと多くの人々、全世界の人々をご自分のもとに引き寄せると言われたのです。

 イエスは、天に昇られる前に、弟子たちに言われました。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)イエスは、地上におられたとき、ご自分でガリラヤやユダヤの各地を訪ね、神の国を宣べ伝えましたが、天に昇られたのちは、それは弟子たちのすることになりました。弟子たちが福音を伝え、人々を教えるのです。しかも、エルサレムやユダヤ、サマリアだけでなく、アジア、アフリカ、ヨーロッパにも、「地の果てまで」、つまり、全世界のすべての人に福音が伝えられなければならないのです。そのことは、十二使徒や使徒パウロが殉教する前に成就しました。一世代のうちに福音は、ローマ帝国の多くの地域に伝えられていました。ローマ皇帝は、クリスチャンを苦しめましたが、その権力によっても、福音が広がるのを抑えることはできませんでした。昇天され、神の右の座に着かれたイエスが、そこから聖霊を送り、信じる者たちを守り、支え、導いてこられたからです。

 世界には、びっくりするほど高い建物があります。現在一番高い建物はドバイの「ブルジュ・ハリファ」で829.8メートルもあります。次は、マレーシアにある「ムルデカ118」で680.5メートル、三番目が、「東京スカイ・ツリー」で634メートルです。スカイ・ツリーは電波塔としては世界一高いものなのですが、どうしてそんな高いものがいるかというと、電波塔は、高ければ高いほど、より強く、より広く電波を届けられるからです。イエスが、昇天され、天の父なる神の右の座に着かれたのも同じです。イエスは最も高い座に着くことによって、救いの言葉、福音を、より広く、全世界に、また、より強く私たちの心にまで届けてくださるのです。

 「だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むこと」、それは神のみこころでです(使徒17:30、ペテロ第二3:9)。私たちも、このみこころを自分の願いとし、福音がより多くの人に届くよう、天の助けを祈り求めて、励みたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、天を仰ぐことを教えてくださり感謝します。あなたの御子、私たちの救い主イエスはそこに、あなたの右の座におられます。聖霊はそこから注がれ、力も、命も、慰めも、癒やしもそこにあります。地上のことだけにとらわれやすい私たちに、イエスが昇っていかれた天を思う心を与えてください。イエスが再び、そこから来られることを待ち望み、目を覚ましていることができますように。主イエスのお名前で祈ります。

6/1/2025