私たちが待つべきもの

使徒1:6-11

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1:6 そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」
1:7 イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
1:9 こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。
1:10 イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。
1:11 そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」

 一、主の昇天日

 それぞれの国や民族には、それぞれのカレンダーがあります。ユダヤの人々の間では「ユダヤ暦」というものがあって、人々はそれに従って生活しています。ユダヤ暦では、新年は「ローシュ・ハシャナー」といって、9月の終わりごろ始まります。10月には「贖いの日」(ヨム・キプール)と「仮庵祭」(ハグ・スコット)が続きます。12月には「ハヌカ」、3月には「プリム」があります。「プリム祭」はエステル記9章に書かれています。3月の終わりから4月にかけて「過越祭」(ペサハ)があって、出エジプトを記念します。それから、5月から6月にかけて「七週の祭」(ペンテコステ)があります。「過越」と「仮庵」、「七週の祭」の三つはユダヤのすべての人々が守らなければならないものとされています。ユダヤの暦では今年は5780年で、これは天地創造から数えた数字とされています。

 教会には「教会暦」があり、教会暦の元年はイエス・キリストの誕生から始まっています。2020年は「AD 2020」とも言いますが、「AD」はラテン語で「主の年」を意味する “Anno Domini” の略です。それ以前は「BC」で、“Before Christ” の略です。歴史は、イエス・キリストによって二分されているのです。イエス・キリストは人類に新しい時代をもたらしてくださったのです。

 教会の礼拝のカレンダーもイエス・キリストとそのみわざを中心として組み立てられています。「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(テモテ第二2:8)とある通り、一年は12月の「アドベント」(待降節)から始まります。アドベントの四回の日曜日ののち、クリスマスを祝います。1月6日からエピファニー(公現節)が始まり、この期間、イエスの公生涯をたどります。四十日間の「レント」(四旬節)ではイエスのご受難を覚え、それから「受難週」と「イースター」を迎えます。「レント」は旧約の「仮庵祭」に相当し、「受難週」と「イースター」は「過越祭」に相当します。イエスこそ、屠られた「過越の小羊」だからです。それで、教会は「受難週」から「イースター」にかけての期間をギリシャ語で「過越」を意味する「パスカ」と呼んできました。

 イースターから四十日後はイエスの「昇天日」となります。ヨーロッパでは「昇天日」が休日のところもありますが、アメリカでは、「昇天日」の次の日曜日を「昇天主日」としています。きょうは、その「昇天主日」です。イエスは、昇天のとき、弟子たちに使命を与えるとともに、もうひとつの命令も与えました。きょうはそのことを学びましょう。

 二、弟子たちと聖霊

 昇天の時、イエスが弟子たちに託した使命は、福音を伝えることでした。マルコ16:15にこう書かれています。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」ルカには、「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(ルカ24:47)とあって、福音の中心が「罪の赦し」にあると言っています。マタイでは、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」(マタイ28:19-20)とあって、福音を宣べ伝えることの中に、教育と弟子訓練を含めています。

 では、弟子たちは、イエスを天に送ってすぐに全世界に出て行き、福音を語り、人々を教えたのでしょうか。いいえ、イエスは、弟子たちにこう命じました。「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49)「父の約束してくださったもの」とは何でしょうか。それは「聖霊」です。ヨハネ16:7にこうあります。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」弟子たちは、イエスが自分たちから去って行くことにうろたえましたが、イエスは、弟子たちを見捨てることなく、ご自分に替わる「助け主」である聖霊を遣わすと約束されたのです。

 聖霊は、イエスに替わって弟子たちを助けるだけではありません。それ以上のことをしてくださいます。弟子たちに力を注いで、弟子たちが「キリストの証人」になることができるようにしてくださるのです。弟子たちは、イエスと共に生活をし、その教えを学び、イエスの十字架のお苦しみと復活の栄光を目撃しました。しかし、それをそのまま証しすればユダヤの人たちからは迫害を受け、ギリシャの人たちからは馬鹿にされ、相手にもされません。弟子たちは「キリストの証人」でしたが、キリストを証しする知恵も力も持っていませんでした。そのまま全世界に出て行っても福音を語ることができませんでした。イエスが「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」と言われたように、弟子たちには、出て行く前に「とどまっている」こと、「聖霊を待つ」期間が必要だったのです。

 実際、弟子たちはイエスを天に送ってから、九日の間待ちました。「待つ」といってもぼんやり時を過ごしたのではありません。およそ120名の弟子たちがひとつの場所に集まり、「みな心を合わせ、祈りに専念して」(使徒1:14)いました。そのようにして迎えた二度目の日曜日、それはおそらく主の日の礼拝の時だと思われますが、弟子たち全員に聖霊がくだりました。使徒ペテロが弟子たちを代表して福音を語りました。それを聞いて信じた人々はバプテスマを受け、使徒たちの教えを学び、祈る群れ、教会が生まれました。そのとき、ペテロをはじめ弟子たちがどれほど、大胆に福音を証ししたかは、「使徒の働き」の2章に書かれている通りです。弟子たちは、それまでとはまるで違って、知恵と力と確信に満ちていました。イエスが「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします」(ヨハネ15:26)と言ったように、キリストを証しするのは聖霊ご自身です。弟子たちは、聖霊によって、文字通り「キリストの証人」となって、イエス・キリストを大胆に証ししたのです。

 三、私たちと聖霊

 今日のキリストの弟子である私たちもまた「キリストの証人」です。私たちは初代の弟子たちのように直接イエスに出会っていませんし、イエスのなさったことを目撃していません。しかし、イエスの十字架と復活を信じて救われた私たちは、イエスがどんなに栄光に満ちたお方であり、しかも、恵み深いお方であるかを知りました。まるでイエスにお会いしたかのように、またイエスに触れていただいたかのように、イエスを体験したのです。聖書に「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています」(ペテロ第一1:18)とある通りです。ですから、私たちも、「キリストの証人」なのです。

 そして、私たちを「キリストの証人」にしてくださるのは、初代の弟子たちを「キリストとの証人」としてくださった、同じ聖霊です。聖霊は信じる者のうちに宿って、内側からキリストを証ししてくださるのです。私たちのうちに宿る聖霊がキリストを証ししてくださること、それは「聖霊の証」と呼ばれており、この「証」は、次の三つの段階を通して与えられます。

 第一に、聖霊は、私たちに罪を認めさせ、悔い改めと回心(Conversion)に導きます。私たちは神の真理に対して無知で盲目でした。神の愛について聞かされても、自分には必要ないと頑固に拒否していました。けれども、ある日、ある時、真理の光に照らされ、罪を認め、救いを求める瞬間がやってきました。それは、ヨハネ16:8-9に「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」とあるように、私たちを回心に導く聖霊の働きだったのです。

 第二に、聖霊は、私たちを信仰の告白(Confession)に導きます。聖書は「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」と言っていますが、私たちを、その告白に導いてくださるのが聖霊です。コリント第一12:3にこうあります。「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語るものはだれも、『イエスはのろわれよ』とは言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』ということはできません。」私たちは、イエスを信じるまでは自分を「主」として生きてきました。すべてのことを自分の力で、自分のためにする生き方しか知らなかったのです。しかし、イエスを知って、イエスの力によって、イエスのために生きる生き方を学びました。自分を「主」とする頼りにならない生き方から、イエスを「主」とする確かな生き方へと変えられたのです。「イエスは主。」聖霊は、私たちを、この信仰の告白に導いてくださいました。

 第三に、聖霊は、「イエスは主」と告白する者を「私は神の子どもとされている」との確信(Confidence)に導きます。ローマ8:14-16にこうあります。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」イエス・キリストを信じた時、私たちに新しい命が与えられますが、その時はまだ母の胎内にいる赤ん坊のようなものです。それからバプテスマを受けて、神の子として世に生まれ出るのですが、バプテスマを受けたばかりの時は、まだ「神の子どもとされた」ことが、何を意味するのかを十分に理解するには至っていないかもしれません。順調な時は「私は神の子にされた」と感じるのですが、難しいことが起こると、「私は本当に神の子になったのだろうか」と心配したりするのです。しかし、信じてバプテスマを受けた者のうちに宿ってくださる聖霊は、信じる者の心の奥深くに「私は神の子」という確信を与え、神を「父よ」と呼んで祈ることができるようにしてくださいます。「御霊ご自身が…あかししてくださいます」とあるように、「聖霊の証」を与えてくださるのです。

 最初の弟子たちが聖霊が降るのを待ったように、私たちも、聖霊の働きを待つ必要があります。回心(Conversion)、告白(Confession)、そして確信(Confidence)というステップを確実に踏んで、まず自分自身のうちに「聖霊の証」を持つのです。この「聖霊の証」によってはじめて、私たちは「キリストの証人」となって、キリストの愛と恵みと真実を人々に証しすることができるようになるからです。

 使徒たちはイエスの昇天のとき、イエスに「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか」と尋ねました。そうしたことは、イエスの再臨の時に起こることです。天使たちが「イエスは…またおいでになります」と言ったように、再臨は確かなことで、必ず起こります。しかし、私たちには再臨を待つ前にしなければならないことがあります。それは、聖霊の証を持ち、その力を受けて福音を伝えるということです。使徒たちがしたように、私たちも、祈りのうちに聖霊を待ちましょう。それによって私たちもまた、「キリストの証人」となるためです。

 (祈り)

 父なる神さま。あなたは真実なお方で、あなたのお言葉も真実です。あなたは使徒たちに、約束の通り聖霊を注いでくださいました。同じように、私たちをも聖霊で満たすと約束してくださっています。聖霊の愛で、喜びで、平安で私たちを満たすとともに、キリストを証しする知恵と力と勇気をも私たちに与えてください。そのために、御言葉と共に語りかけてくださる「聖霊の証」に耳を傾け、それに聞き従う者としてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

5/24/2020