昇天の意義

使徒1:6-11

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1:6 さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。
1:7 彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。
1:8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
1:9 こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。
1:10 イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて
1:11 言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。

 先週の木曜日はイースターから四十日目、主イエスが天にお帰りになった「キリストの昇天日」でした。「キリストの昇天日」はドイツ、フランス、オランダ、デンマーク、ノルウェー、ベルギー、ハンガリーなどヨーロッパの数多くの国で国の祭日になっていて、盛大に祝われています。アメリカでは昇天日から三日後の日曜日を「昇天主日」(Ascension Sunday)として祝います。きょうが、その日です。

 キリストの昇天は、復活の延長で、それを見える形で表したものに過ぎないと言われた時代もありましたが、今は、キリストの昇天の意義がもういちど見直されています。キリストの昇天には、神学の議論だけではなく、わたしたちの信仰にとって大切なことがいくつもあります。そのすべてを一度にお話しすることはできませんので、今朝は、三つのことに絞ってお話ししたいと思います。

 一、キリストの栄光

 第一に、キリストの昇天は、キリストが栄光の主であることを教えています。昇天は、地上での働きを終えた、主イエスが、もとからおられた栄光のうちに戻っていかれたものです。主イエスは、昇天によって、ご自分が本来は栄光の主、栄光に輝く神であることを、見える形で多くの弟子たちに示されたのです。

 主イエスは、十字架の前にも、ご自分が栄光の主であることを示されたことがあります。ある山の上で、それまで普通の人と変わらないお姿であったイエスが、栄光に輝く姿に変わられました。この出来事は「主イエスの変貌」(Transfiguration of Lord Jesus)と呼ばれていますが、栄光に輝く姿こそが本来のお姿であり、貧しき人、悲しみの人、苦難のしもべとしての姿こそ、主イエスの「変貌」の姿だと言って良いと思います。この時、主の栄光の姿を見たのはペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけでした。しかし、昇天では、もっと大勢の弟子たちが、主イエスの栄光のお姿を見ることができました。弟子たちは、キリストの昇天によって、イエスこそ主であるとの信仰の確信をさらに強められたのです。

 ルカによる福音書には、昇天の様子が次のように書かれています。

それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。祝福しておられるうちに、彼らを離れて、天にあげられた。彼らはイエスを拝し、非常な喜びをもってエルサレムに帰り、絶えず宮にいて、神をほめたたえていた。(ルカ24:50-53)
十字架によっていったん失った主を、復活によって取り戻したのに、その主が再び去っていかれるのですから、喜ぶよりも、悲しむのが普通だと思うのですが、弟子たちは「非常な喜びをもってエルサレムに帰った」というのです。なぜでしょう。弟子たちは、いったい何を喜んだのでしょう。もうすぐ、聖霊を受けるからでしょうか。キリストの証人となるという使命を授かったからでしょうか。主が、もう一度帰ってこられるという約束を与えられたからでしょうか。

 もちろん、そのどれもが大きな喜びですが、それに勝る喜びは、弟子たちが信じ、従い、仕えてきたイエス・キリストこそまぎれもない神であり、栄光の主であるという事実だったと思います。イエスがたんなる預言者のひとりに過ぎなければ、その十字架の死には贖いの力はなく、復活も起こりませんでした。弟子たちは、イエスこそ神であり、主であることを改めて確信しました。イエスが栄光の主であるなら、天こそが主がおられるのにふさわしいところです。主は天におられ、全世界の人々によって礼拝されるべきです。ですから、弟子たちは、イエスが去っていかれることを悲しむよりも、主が栄光のうちに天に帰っていかれることを喜んだのです。

 主イエスを信じる者にとっての一番の喜びは、主イエス・キリストこそまことの神であるという確証を与えられることです。主の栄光を仰ぎ見、この主を礼拝すること以上の喜びはありません。ですから、弟子たちが主イエスを礼拝したように、わたしたちも主を礼拝するのです。

 二、天へのさきがけ

 第二に、キリストの昇天は、キリストがわたしたちの「さきがけ」(ヘブル6:20)となってくださった、天への道を開いてくださったことを教えています。「さきがけ」というのは、本格的な事業がはじまる前に、最初に派遣される人のことを言います。トヨタがカリフォルニア、ケンタッキー、ニューヨークにある子会社を集めて、4,000人規模の北米本社をプレーノに作ろうとしています。予定では再来年(2017年)までに販売、生産、管理部門がスタートするそうです。そのため、もうすでに従業員の異動が始まっているそうで、そうした人たちのことを「さきがけ」と言います。

 イエスが「さきがけ」と呼ばれるのは、イエスが天に行かれたあと、数知れない人々がイエスのおられる天に迎えられたからです。イエスは「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(ヨハネ14:1-3)と言われました。主は、この言葉の通り、天にわたしたちのための場所を用意してくださり、イエスに従ってきた人々を天に迎えてくださいました。

 死後の世界のことは聖書を調べても分からないことが多くあります。しかし、イエスが天に昇っていかれたことによって、わたしたちもまた、やがて、主がおられるところに迎えられるということを確信することができます。天は人間の空想によって作られたものではなく、確かな現実です。キリストの昇天はそれをわたしたちに教えてくれるのです。

 イエスに従った弟子たちの多くは、ユダヤの国の再興を期待していました。それで、昇天の際に「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」とイエスに尋ねました。主イエスはそれに答えて、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない」と言われました。弟子たちの心を、地上の国ではなく、天の国に向けさせたのです。天こそ、わたしたちの帰るべきところです。弟子たちのつとめは、全世界に対してキリストの証人となり、人々がキリストに続いて天に帰ることができるようにすることなのです。

 三、天を見上げる信仰

 第三に、キリストの昇天は、わたしたちに天を見上げる信仰を教えています。弟子たちは、イエスの姿が雲に包まれて見えなくなっても、まだ天を見上げていました。みな、その厳かな光景に心を奪われていたのでしょう。そんな弟子たちに天使は言いました。「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう。」これはイエス・キリストの再臨の約束です。弟子たちはこのあと、エルサレムに行き、約束の聖霊を待ち望んで九日間を過ごします。弟子たちはずっと天を見上げていたままではなく、主が命じられた通りのことをしたのです。

 しかし、この時以降、弟子たちの信仰は天を見上げるものとなりました。まもなく、天におられる主を礼拝する礼拝がはじまりました。弟子たちはさまざまな困難に直面しましたが、いつも天からの助けを呼び求めました。ステパノは、殉教のとき、「天が開けて」、キリストがそこにおられるのを見ました(使徒7:55-56)。サウロは「天からの光」に照らされて、教会を迫害する者から、キリストの使徒へと変えられました(使徒9:3)。ペテロは天からの幻によって、ユダヤ人以外の人々も、キリストを信じる信仰によって等しく神の民となることを知りました(使徒10:11)。聖書はクリスチャンに対して「あなたがたは…上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない」(コロサイ3:1-2)と教えています。「上にあるものを思う」、つまり、「天を見上げる」のが、クリスチャンの信仰なのです。

 初代教会で歌われた「栄光の賛歌」は、初代のクリスチャンがいかに天を仰ぎ、そこにおられるキリストを讃え、キリストに信頼し、キリストをあかししていたかを示しています。

天の いと高き ところには神に栄光、
地には善意の人に平和あれ。
われら主を ほめ、主を たたえ、
主を拝み、主を あがめ、
主の大いなる栄光のゆえに感謝し奉る。
神なる主、天の王、全能の父なる神よ。
主なる御ひとり子、イエス・キリストよ。
神なる主、神の小羊、父の み子よ。
世の罪を除きたもう主よ、
われらを あわれみたまえ。
世の罪を除きたもう主よ、
われらの願いを聞き入れたまえ。
父の右に座したもう主よ、
われらを あわれみたまえ。
主のみ聖なり、主のみ王なり、
主のみいと高し、イエス・キリストよ。
聖霊とともに、父なる神の栄光のうちに。 
アーメン。
ローマ皇帝は自らを至高者とし、皇帝礼拝をクリスチャンに強要しました。しかし、クリスチャンたちはそれに屈することなく、「主のみ聖なり、主のみ王なり、主のみいと高し、イエス・キリストよ」と賛美して、天におられる栄光の主への信仰を貫き通しました。

 現代のわたしたちは、クリスチャンといえども、上にあるものを思い、天にあこがれることが乏しくなりました。迫害の時代や戦争の時代、貧しさや苦しみの中を生きた人にとって、天は慕わしいところであり、また唯一の希望でした。「毎日の生活が大変で、神を仰ぎ、神に仕える余裕などない」と言われることがあります。しかし、実際は逆のようです。平和な時代、豊かな社会に生きるわたしたちのほうが、天を見上げることがかえって難しくなってきているのです。つらいことがあっても、友だちに話して気を紛らわせる。落ち込んでも、気晴らしができる場所や方法が、どこにでもあって、元気を取り戻す。そんなふうにしていると、聖書を読み、祈っていても、神の言葉に目が開かれ、生かされ、導かれるという体験が少なくなってきます。聖書は、そこから天を、天におられるキリストを見る「窓」のようなものです。そこから天の光をとりこむのですが、その窓にカーテンがかかったままになっていたら、天の光が差し込んでこないのです。また、祈りは、わたしたちの霊が天に上る「はしご」のようなものなのですが、その「はしご」が立てられないで、横に寝かせられたままになっていたら、わたしたちの祈りは天と地をつなぐものとなりません。聖書を通して天をかいま見る、祈りを通して天とつながる、そこに、神を信じる者たちの真の幸いと喜びがあります。神を知らなかったときには決して見ることのなかった天の光、かつてはあじわうことのなかった満たしを得ることができるのです。これは他のところでは得ることのできない幸いです。わたしたちの心が地上のことだけに向けられているなら、この幸いを体験できないのです。

 そんな残念なことにならないよう、わたしたちの心に天の光を迎え入れましょう。日々の生活を天の光で照らしてふりかってみたいと思います。天は、わたしたちの主がおられるところ、そこから日々の力を受け取るところ、わたしたちも、やがて、そこに行くところなのですから。

 第一テモテ3:16は、主の昇天日に心に刻むのにふさわしい言葉です。ご一緒に、この言葉を唱え、天におられる栄光の主を仰ぎましょう。

確かに偉大なのは、この信心の奥義である。
「キリストは肉において現れ、
霊において義とせられ、
御使たちに見られ、
諸国民の間に伝えられ、
世界の中で信じられ、
栄光のうちに天に上げられた。」

 (祈り)

 父なる神さま、この世のこと、地上のことばかりに心を奪われているわたしたちに、天を仰ぐようにと教えてくださり、感謝いたします。わたしたちの日々の祈りのときが、毎週の礼拝が、天を仰ぐときとなりますように。栄光のうちに天におられる主を賛美した、世々の聖徒たちに倣うことができますように。天の父の神の右の座におられる主イエスのお名前で祈ります。

5/17/2015