3:14 けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、
3:15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
3:17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
一、聖書に従って
私たちは昨年12月から今年の7月まで、およそ8ヶ月の間、ルカが書いた「使徒の働き」や使徒たちが書いた手紙から、使徒たちがどのようにイエス・キリストを伝えたかを学んできました。そこから分かることは、使徒たちが「聖書に基づいて」イエス・キリストを伝えたということです。
ペテロはペンテコステの説教でヨエル書や詩篇を引用して、ペンテコステの出来事と、イエスの復活を語りました(使徒2章)。ピリポはイザヤ書からイエスのことを宣べ伝えています(使徒8章)。パウロは、安息日にはユダヤの会堂に行き、そこで朗読される律法と預言に基づいてイエスがキリストであることを語りました(使徒13章)。使徒17:2に「パウロはいつもしているように、会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた」とあります。また、聞いた人々もパウロが教えたことが「はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べ」ました(使徒17:11)。聖書に基づいて語られた福音を聖書に基づいて確認する。そうすることによって聖書に基づいた信仰が築かれていったのです。それが使徒たちの時代の宣教、伝道でした。
ローマ人への手紙は、パウロがイエス・キリストを信じる信仰について順を追って書いたもので、そこでは、「福音は…聖書において前から約束されたもの」(ローマ1:2)と言われています。また、「聖書何と言っていますか」(同4:3)、「聖書はこう言っています」(同10:11)、「聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか」(同11:2)などと、パウロは聖書に訴えて、信仰の真理を解き明かしています。
そして、コリント第一15:3-5にはこうあります。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」福音で「最も大切なこと」はイエス・キリストが「死なれ」、「葬られ」、「よみがえられた」ことだと言っています。そして、この箇所は、キリストの死も復活も、聖書に従って起きたことだと教えています。ここでは「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれた」、また、「聖書に従って三日目によみがえられた」とあります。「聖書の示すとおりに」と「聖書に従って」とに訳し分けられていますが、もとの言葉は同じです。イエスが私たちの罪のために死んでくださったことも、私たちの救いのために復活されたことも、「聖書に従って」なのです。つまり、イエス・キリストの救いは聖書が預言し、聖書に従って成し遂げられ、聖書によって示されて私たちのところに届けられたということです。テモテ第二3:15には「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができる」との言葉は、聖書から離れて、私たちの救いはないという明白な真理を述べているのです。
二、聖書への攻撃
「聖書は真実な神のことば。」これは19世紀になるまで、誰も否定しなかった真理の大前提でした。ところが、進化論的な思想が神学の分野に入ってくるようになり、聖書や聖書に基づく信仰も「進化」して生まれたと考える人たちが出てきました。シュライアマハー、リッチュル、ハルナックといった人たちです。この人たちの神学は一般に「自由主義神学」と呼ばれます。伝統や権威から自由になって、人間の理性だけで聖書を理解しようとしたからです。そして、理性だけで理解できない部分を聖書から削りとろうとしました。たとえば創世記の天地創造からノアの洪水にいたる出来事は実際に起こったことではなく、古代の「創造神話」や「洪水神話」がユダヤ人の手によって聖書に加えられたというのです。神話的の形をとって語られている中から道徳的なメッセージを取り出して、それを現代に当てはめて生かすことが大切であると言い、それを「非神話化」と呼びました。自由主義神学では、人間は善良なものであって、この世界を限りなく良くしていく力を持っている。聖書は人を罪から救うというよりは、人間の善良さを励ます書物だと考えました。
また、自由主義神学では、今までモーセや預言者たちによって記されたとされてきた旧約の大部分は、ユダヤの人々がバビロンから帰ってきてから書かれたものであると主張しました。なぜなら、聖書にはいたるところに捕囚からの帰還が預言されているからだと言うのです。「預言はない」という前提を持てば、聖書を書いた人たちはその出来事が起こってから、それを預言の形で書いたということになります。マタイ、マルコ、ルカの福音書はエルサレムが滅びることを預言していますから、こうした福音書はみな紀元70年にエルサレムが滅亡した後に書かれたことになります。しかし、聖書学の研究によれば、マタイ、マルコ、ルカの福音書はそれ以前に書かれていることが分かっています。
私たちは自由主義神学をとりませんが、だからといって理性を否定して、盲目的に聖書を信じ込んでいるのではありません。使徒の後継者たちが書き遺した歴史資料、考古学や聖書学、言語学などの学問的な証拠に基づいて、そう信じているのです。19世紀は自由主義神学の盛んな時代でしたが、同時に重要な考古学の発見が相次いだ時代でもありました。1884年には、4世紀頃のものとされている「シナイ写本」が発見され、1947年には「死海写本」が発見されました。「死海写本」には紀元1世紀、イエスと弟子たちの時代の旧約の写本があって、この発見は、今日私たちの持っている聖書がどんなに正確なものであるかを証明するものとなりました。
自由主義神学の立場に立つ人は、聖書の学問的な証拠ではなく、「すべては〝合理的〟に説明されなければならない」という前提で聖書を解釈します。しかし、その前提そのものが間違っています。聖書にかぎらず、どんな学問においても、人間の側の先入観で対象を見ると間違えてしまいます。学問は客観的な証拠によって組み立てられなければなりません。そして、そのような研究から導かれたのが「聖書は真実な神のことば」という結論なのです。
三、聖書の霊感
「聖書は神のことば」といっても、それは、「十戒」の二枚の石の板のように、神がその指で直接書かれたものや、預言者たちが「主はこう言われる」と言って、神が語られた通りの言葉が記されたものばかりではありません。多くの部分は長い年月の間に、さまざまな人々によって書かれたものです。聖書を書いた人々は誠実に、良心的にそれを書きましたが、そこに間違いが入り込まないと言い切ることはできません。それで、人間の限界や弱さをよくご存知の神は、聖書を書いた人たちが誤りなく、それを神のことばとして残すことができるよう特別な働きをお与えになりました。それが、テモテ第二3:16に「聖書はすべて、神の霊感によるもので」とある「霊感」です。
「霊感」(インスピレーション)というと、人間の「ひらめき」といった意味で受け取られがちですが、「聖書が霊感によって書かれた」というのは、人々が、ハッとひらいめいて、その瞬間に、それを忘れないうちに文章を書いたということではありません。聖書がいう「霊感」は、人間の側のひらめきではなく、神のことばが文字となって残るための聖霊の特別な働きを言うのです。
「サムエル記」、「列王記」、「歴代誌」などの旧約の王国の歴史を書いた部分などは、おそらく、何人もの「王国史編纂委員」のような人々によって、さまざまな史料が集められ、討論を重ねながらまとめあげられていったことでしょう。ルカはルカの福音書を「すべてのことを初めから綿密に調べ…順序を立てて書いた」と言っています。聖書のほとんどは、私たちがものを書くのと同じ方法で書かれました。
パウロがコリント人への第一の手紙を書いたのは、コリント教会からの質問状に答えるためでした。パウロはコリント教会で起こっているさまざまな問題を聞き、心を痛めながら、それらの問題に対する最善の解決を探り求めて、一つひとつの質問に答えていきました。パウロはあるところでは「命じるのは、私ではなく主です」(コリント第一7:10)と言い、別の部分では「これを言うのは主ではなく、私です」(同7:12)、また、「私の意見では…」(同7:40)と言って、主イエスがはっきり語られたことと自分の意見とをきちんと区別しています。譲れないものと許容できること、また、命令と推奨とを分けて書いているのです。そこには人間の理性や感情が強く働いています。けれども、聖霊はパウロの理性や感情をも用い、それに働きかけられたのです。それが霊感です。パウロは「私も、神の御霊をいただいていると思います」(同7:40)と言っていますから、霊感を感じながら手紙を書いたことでしょう。
「霊感」については、ペテロもこう述べています。「彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。」(ペテロ第一1:11-12)旧約の預言者たちも、新約の使徒たちも聖霊によって語ったのです。「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(ペテロ第二1:21)
聖書は聖霊によって与えられた。ここに聖書の確かさがあります。現代は、かつての時代よりも情報が簡単に手に入るようになりました。それだけに、何が正しく真実なものかを見極めることが大切になってきました。以前は新聞やラジオ、テレビのニュースを信頼していればそれで良かったのですが、今はそうとは言えなくなりました。「フェイク・ニュース」を正すために「ファクト・チェック」をしましたなどと言われるのですが、その「ファクト・チェック」が「フェイク」であったりすることもあるのです。
私たちの人生を、この社会を、そして世界の将来を教える確かなことば、「聖書」が、今、最も必要な時です。テモテへの第二の手紙は、パウロが殉教前に書いた最後の手紙です。パウロは、こののち教会が迫害に見舞われると同時に、教会内からも様々に間違ったことを教える人々が起こることを見抜いていました。だからこそ、パウロは後継者テモテに、いつの時代にも変わらない確かな神のことばに立つことを教えたのです。
「聖書は神のことば。」これは私たちの信仰の基礎です。当然と言えば当然のことですが、同時に、このことは最も攻撃を受けやすい部分でもあるのです。神に敵対する人たちは「聖書はたんなる人間の言葉に過ぎない」と言います。そうであるなら、聖書のどんな約束も、神の約束ではなく、「そうであったらいいのに」という人間の願望を書いただけのものになってしまい、それに信頼しても意味のないことになります。
しかし、テモテは聖書が霊感によって与えられた「神のことば」であり、聖書に書かれている約束は神の約束であり、信じるなら、必ずその通りになることを知り、確信していました。パウロが「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです」(14-15節)と言っているように、テモテは祖母ロイス、母ユニケから聖書を学び、聖書に親しんできました。そして、パウロに出会い、聖書が示す福音を聞き、信じ、救われ、それを宣べ伝えてきました。私たちも聖書を神のことばと信じる教会で、正しく聖書を学んでいる幸いを感謝しましょう。そして、「学んで確信したところ」に留まり、確かな神のことばに導かれて歩んでいきましょう。
(祈り)
父なる神さま、あなたはあなたのお言葉を聖霊によって書物とし、救いに導く確かなものとして、私たちに与えてくださいました。聖書に信頼する者は決して裏切られることはありません。どうぞ、私たちを、さらに聖書に親しみ、あなたの言葉に信頼し、それによって導かれる者としてください。主イエスのお名前で祈ります。
9/5/2021