教える力

テモテ第二2:2

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2:2 多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。

 一、子どもへの伝道

 執事会では、聖書から一箇所を選び、みんなでそれを唱えてからミーティングを始めています。一月の執事会では、山下先生がルカ18:16を選びました。そこには「イエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。『子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。』」と書かれています。子どもは、イエスの話を理解できるわけでもないし、イエスの手伝いができるわけでもない。ましてや献金をしたり、伝道したりはできない。子どもは邪魔になるだけだと弟子たちは考え、イエスに近づこうとした子どもを退けようとしたのでしょう。しかし、イエスは、神の国は子どものためにもあり、子どももまた神の国のために働くことができると言われました。子どもは大人よりも素直にイエスを信じますし、イエスを信じた子どもは両親や祖父母にイエスのことを伝えることができます。山下先生は、アメリカのクリスチャンの大部分は18歳以下で信仰を持っているし、子どもによって信仰に導かれた大人の数も多いと話してくれました。私は、山下先生のことばをうなずきながら聞いていました。私自身が16歳で信仰を持ちましたし、子どもが素直に神を信じるのを数多く見てきたからです。

 日本でのことですが、ある地域で行なっていた土曜日の子ども会にタカシ君という元気な男の子が来ていました。無駄口をたたいてはいつも叱られていたのですが、雨の日も、雪の日も休まずに子ども会に来ていました。彼は、中学生の時、突然、父親を亡くしました。そして、そのことがきっかけとなって、はっきりと信仰を持つようになりました。教会が伝道所を開設することになった時、彼は高校を卒業して就職したばかりでしたが、チャータメンバーのひとりになり、その信仰を成長させていきましたが、彼の信仰の基礎は子どもの頃に据えられたものでした。アメリカに来て、すぐに、家内は日本語のVBSのお手伝いをしたことがあります。たった数日の間に、子どもたちが「わたし、イエスさま大好き。」と言って、子どもたちに聖書のお話をしてあげた家内のところに寄ってくるようになりました。それだけではなく、子どもたちは家に帰って、母親や父親にイエスさまのことを話し、お祈りをするようになったのです。

 私たちはの多くは「伝道」というと、おとなへの伝道を考えます。おとなが礼拝に来やすいように、チャイルド・ケアをしてあげましょう。おとなが聖書の勉強をしている間、ベビーシッターをしてあげましょうと考えてきました。それは、もちろん必要なことですが、おとな中心の発想です。こどもを中心にして考えたらどうなるでしょうか。子どもはおとなに連れてきてもらわなければ教会に来ることはできませんが、子どもが神を信じ、イエスを大好きになり、教会に来たくてしょうがなくなったら、今度は親が子どもに連れられて教会に来るようになります。おとなに連れられて来る子どものために「チャイルド・ケア」をするのでなく、こどもに連れられてくるおとなのために「ペアレント・ケア」をしてあげるということがあってもいいのではないでしょうか。土曜日のユース・グループに来ている親たちは、子どもがユース・グループで時間を過ごしている間、バイブル・スタディをしていますが、これはその実例かもしれません。子どもたちにも神を教え、イエスを伝え、しっかりと信仰を育ててあげましょう。子どもがイエスを信じて変わっていけば、子どもを連れてくるためだけに来ているおとなたちも、やがて本気で神を求めるようになるでしょう。

 神のこと、神の国のことは、子どもには難しくて分からない、こどもは信仰を持つことがえきないということは、決してありません。子どもは、おとなよりももっと素直に神のことばを受け入れ、また、はっきりした信仰を持つことができます。また、子どもは神の国の働きに役に立たないというのも当たっていません。イエスが五千人以上の大群衆にパンを与える時、おとなたちは誰一人役に立ちませんでした。イエスの役に立ったのは、自分の持っているパンと魚を差し出したひとりの少年だったのです。子どもは、神の国にとって、また、キリストの教会にとって大切な宝です。D.L.ムーディがある伝道集会から返ってきて、教会の秘書に「今日は二人半救われたよ。」と言いました。秘書が「おとなふたりと子どもひとりですね。」と答えますと、ムーディは「いや、おとなひとりと子どもふたりだ。おとなは人生の半分を終わっているから半分だが、子どもたちは、これから長い人生があるからふたりなんだよ。」と説明しました。ムーディは、子どもが神の国にとって、また、キリストの教会にとって大切な宝であることを良く知っていました。ムーディは、子どもの伝道と教育に力を注ぎ、シカゴの彼の教会は、多くの人を救いに導く教会となったのです。私たちも、子どもを主に導くこと、その信仰を育てることにもっと真剣に取り組みたいと思います。

 二、子どもの教育

 では、子どもを教え、育てるのは誰でしょうか。それは、まず何よりも両親です。箴言に「わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。」(箴言1:8)とあります。父、母が子どもに神を教え、聖書の真理を伝えるのです。子どもがサンデー・スクールやチュルドレンズ・チャーチで時間を過ごすのは、一週間のうちのたった一時間にすぎません。子どもの信仰を育ててあげるには、その時間だけではとても足りません。家庭で、子どもといっしょに賛美したり、祈ったり、聖書を読んだりする機会がどうしても必要です。そうした時間を「家庭礼拝」と呼び、かつては、日本でもアメリカでも家庭礼拝を持つことが奨励されました。家庭礼拝のためのバイブル・ストーリの本もたくさん出版されていました。ところが、子どもが小さいうちから、家族が揃って食事をすることがなくなってきたため、家庭礼拝もまた姿を消しつつあります。かつては、両親は、ベッドタイム・ストーリに聖書のお話を聞かせてあげ、子どもに手を置いて祈って、休ませてあげるというのが普通でしたが、今では親は親でいろんなことに忙しく、子どもは子どもで宿題を片付けるのに大変ということで、「もう遅くなった。さあ、早くベッドに入って寝てしまいなさい。」と言うだけで終わってしまっているようです。

 私たちは、大変忙しい時代に生きています。それに、シリコンバレーという、その忙しさを加速させるような地域で働き、生活しています。そうして、いつしかそれに流されてしまっています。そんな中で、わたしたちは、クリスチャンとして、また、神を求める者として、自分の人生で何がほんとうに大切なものなのかをいつも見つめていたいと思います。それができれば、子どもにいちばん大切なものを分け与えることができ、どのように子どもと一緒に時間を過ごせばいいかが分かってくると思います。すくなくても、子どもといっしょに心をあわせて祈る時を大切にすることができると思います。日本のある伝道者は野球チームができるほどの大家族でしたが、どんなに忙しくても、食事の時には、家族全員が食卓につき、みんなで手をつないで祈ってきましたと、あかししていました。多くのクリスチャン・ホームが親と子が心を合わせて祈る祈りのすばらしさを体験しています。それによって家族に一致が生まれてきますし、神は、そのような祈りに喜んで答えてくださいます。子どもとともに祈ることによって、理屈抜きで、子どもたちに目に見えない神を見せてあげることができます。子どものために、たくさんの時間をとってあげられたら、それにこしたことはありませんが、たとえ、短い時間でも、子どもとともに祈る時間があれば、子どものたましいはそれによってどれだけ満たされることでしょうか。子どもの勉強を見てあげる、身の回りの世話をしてあげるというだけが、「子育て」ではありません。子どものたましいを、神のことばと祈りによって養ってあげることがほんとうの「子育て」です。

 子どもの信仰を育てるのは親の責任ですが、同時に教会も、そのための役割を果たします。教会は、子どもの信仰を育てたいと願っている家庭をサポートする、大きな家族、「神の家族」だと言っても良いでしょう。さいわいなことに、サンタクララ教会は、「神の家族」として、子どもを持つ家庭をサポートし、また子どもたちを育ててきました。多くの人たちが、サンデー・スクールやユース・グループで献身的に奉仕してくれています。IFF では、ノン・クリスチャンの夫を持つ人たち、シングル・マザーやサポートの必要な母親たちのための祈り会があります。日本語部でも「ヤング・ファミリー」では信仰的な子育てについて学んでいます。子ども礼拝や、子どもクラスでは、子どもの親たちのほとんどが教師として働いているだけでなく、すでに子育てを終えた経験豊かな方々も教師として働いてくれています。去年から、ユースが子どもクラスのヘルパーをしてくれるようになりました。子どもたちはお兄さん、お姉さんがいっしょなので、とても楽しく時間を過ごしていると聞いています。子どもを持っていない方々も、「子ども祝福礼拝」などのイベントを積極的にサポートしてくれています。また、"Adapt A Child" といって、おもにご高齢の兄弟姉妹が子ども礼拝や子どもクラスの生徒たちをひとりづつ分担して、祈っています。子どものいる人もいない人も同じように子どもに愛を注いでいることを感謝しています。私たちは、こうして教会をあげて良い働きをしていますが、時々、それが神の目にどんなに価値あるものかを忘れてしまうことがあります。すぐに成果が見えないと、がっかりしてしまったり、負担が多く感じられると辞めてしまいたくなることもあります。そんな時、もう一度、私たちは、教会の宝である子どもを教え、導き、育てるという素晴らしい働きをしているのだということを思い起こしましょう。神が、そのために私たちを必要としておられるのだということを覚えていたいと思います。

 三、教える力

 さて、最後に、子どもを教え、導く力はどこから来るのかということを見ておきましょう。今日の聖書は、「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」と言っています。これは、使徒パウロが、殉教を前にして、テモテに言い残したことばです。使徒パウロはやがて世を去っていきます。しかし、神のことばはパウロの死とともに消えていくのではありません。神のことばは、パウロが手塩にかけて育てた、パウロの信仰の子、テモテに引き継がれました。今度は、テモテも訓練すべき人を見つけ、その人に神のことばを引き継ぐようにと教えているのです。パウロからテモテへ、そしてテモテからその弟子に、その弟子からそのまた弟子へと、神のことばが継承されていくこと、それが神の方法でした。私たちも、私たちにゆだねられた子どもを神のことばを継承していくものとして育てていかなくてはなりません。

 今日の箇所に、「他の人にも教える力のある忠実な人たち」とありますが、そのような「教える力」は、いったいどこから来るのでしょうか。それは、学校の教師が持っているような技術のことなのでしょうか。特別、子どもに好かれるようなキャラクターのことでしょうか。そのようなものがあれば良いかもしれませんが、そうしたものが無ければ、子どもを信仰に導くことができない、子どもの信仰を育てることができないというのではありません。すべての親が、学校の教師のようなことができるわけではありませんし、子どもの人気者になれるわけではありません。そうしたものがなくても、子どもを育て導くことができます。実際、私たちはそうしてきたのです。では、私たちにとっての「教える力」とは何でしょうか。

 第一に、それは神を体験していることです。神に出会い、キリストの救いを受け、聖霊によって力づけられているという体験が、子どもを教える力となります。歴史や数学なら体験がなくても他の人に教えることができますが、神のことは、自分自身が神に出会っていなければ、決して教えることはできません。イスラエルの人々は、親から子へと神の救いを伝えてきましたが、それはイスラエルの人々が、エジプトからの救い、ペリシテ人からの救い、バビロンからの救い、アンティオコス朝シリアからの救い、また、ヒットラーが率いたドイツ帝国からの救いを体験してきたからでした。私たちも、イエス・キリストによる罪からの救いを体験しているなら、その体験に基づいて子どもに信仰を伝えることができるのです。

 第二に、「教える力」は、学ぶことから来ます。良く学ぶ人が、人を良く教えることができます。自分自身が絶えず新しく学んでいなければ、決して他の人を良く教えることはできないでしょう。私は大学や神学校でいろんな先生がたの講義を受けましたが、一番おもしろくなかったのは、「私はこの道の権威である。」というような態度で教える教授の講義でした。その教授の書いた本を読んでそれを丸飲みにするだけのものでした。それに対して若い教授たちは、もっと幅広くさまざまな考え方を紹介してくれ、学生といっしょになって、課題に取り組み、それを探究してくれました。同じように、子どもに聖書を教える時も、「自分には聖書の知識があるから大丈夫。」と思っている人よりも、子どものレッスンを自分もいっしょになって学ぼうとする人が良い教師になれるのです。お互いがお互いから学ぼうとする謙虚な姿勢が「教える力」となります。自分は長年教師をして来たから人から、もう人から学ぶことなどないと言うような人は、そこで教師としても、人間としても成長がストップしてしまうでしょう。また、子どもに教えてやろうとするよりも、子どもといっしょに学ぼう、子どもから教えらようとする姿勢が大切です。イエスは「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」(ルカ18:17)と言われました。おとなも子どものように素直に、謙虚になりなさいということなのですが、素直さや謙虚さにおいては、子どもがおとなを見習うのでなく、おとなが子どもを見習わなければならないのです。おとなは子どもの教師にならなければなりませんが、別の意味ではおとなは子どもを教師にしなければならないのです。

 第三に、「教える力」は、神への信頼から来ます。よく、完璧な父親、母親でなければ子どもに信仰を教えることはできないと思い込んでいる人がいますが、そうではありません。私たちが子どもに教えようとしているのは、信仰です。信仰とは、自分がどれだけ宗教的か、立派なクリスチャンかを見せびらかすことではありません。自分の無力を知って神に信頼することが信仰です。私たちが子どもの模範になるというのは、自分を大きく見せることによってではなく、自分を小さくし、神を大きく見せることなのです。小さい子どもにとって、両親、とくに父親は、何でも知っていて、何でもできる、神さまのような存在です。ところが、その父親もまた、助けを求めて神に祈っている、そんな姿を見て、子どもは神の偉大さを実感していくのです。私たちは、さらに謙虚になって、神が託してくださった子どもたちを導きたいと思います。

 詩篇96:1-3に「新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。」とあります。ここには二種類の伝道が描かれています。ひとつは、「日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。」とあるように世代から世代への伝道です。親から子へ、おとなから子どもへ、先の世代から次の世代へと、神のことばが伝えられていくのです。もうひとつは「主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。」とあるように、ある地域から他の地域へと広がっていく伝道です。エルサレムから始まった福音はイスラエルだけでなくアジア全土に広がり、エーゲ海を越えて、アジアからヨーロッパに伝わり、ヨーロッパからアメリカに、そして再びアジアに伝えられました。旧約時代のイスラエルの伝道は、主に、世代から世代への伝道でした。そして、新約時代になって、地域から地域への伝道が強調されるようになりました。それで、多くの人は、伝道とはアメリカ中に教会を建て、世界中に宣教師を送ることであると考えてしまうようになりました。しかし、それが伝道のすべてではありません。世代から世代への伝道が忘れられてはなりません。地域から地域への伝道は、世代から世代への伝道があってこそはじめて、実を結ぶのです。私たちは、次の世代に福音を伝えていくという伝道、次の世代を育てていく教育を大切にし、そのために進んで奉仕する者になりたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは子どもを愛してくださっています。そして、おとなたちに子どもを信仰に導き、その信仰を養い育てるようにと命じてくださっています。しかし、多くのおとなは子どもを教えることなどとても出来ないと思いこんでいます。もし、それができないなら、あなたは、その人々に子どもを与えなかったでしょう。親であれば、誰もが子どもを教えてきましたし、また教えることができるはずです。子どもが好きな人もいれば子どもが苦手な人もいるでしょう。そのような人々も、子どもが好きとか嫌いとかいう次元を乗り越えて、あなたにあって子どもを愛し、その愛によって、子どものために奉仕できるように導いてください。子どもを教えることによって、あなたから、また子どもから多くのことを学ぶことのできる私たちとしてください。子どもを神の国に招いてくださっている主イエス・キリストのお名前で祈ります。

1/29/2006