兵士の心構え

テモテ第二2:1-6

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2:1 そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。
2:2 多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。
2:3 キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。
2:4 兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。
2:5 また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。
2:6 労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。

 一、兵士

 アメリカでは、明日「メモリアル・デー」を迎えます。メモリアル・デーは、南北戦争の後、亡くなった北軍の将兵の墓を飾ったデコレーション・デーから始まりました。第二次世界大戦の後は、すべての戦没兵士を記念する日となりました。私は、テキサスではまだメモリアル・デー・サーヴィスに出たことはありませんが、カリフォルニアでは毎年、墓地でのサーヴィスを行っていました。そして、そのたびに、きょうの箇所を思い起こしていました。「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。」これは、パウロがテモテに宛てた言葉ですが、イエスから私たちに与えられた言葉でもあると思います。私たちはみな、霊的な戦いのために召集された「キリストの兵士」だからです。

 伝道とは、サタンの支配を突き崩して、人々をそこから解放することです。ですから、伝道そのものが「霊の戦い」です。また、この世の力は、神のもとに立ち帰ったキリスト者をもう一度自分たちのところに引き戻そうとして、戦いを挑んだり、誘惑したりしてきます。闇の力は、私たちの罪や弱さを通して働きかけてきます。一般にも「人生は戦いだ」と言われますが、信仰者は、他の人や、自分の欠点と戦うだけでなく、神に逆らう目に見えない力と戦っているのです。そうしたことは、エペソ人への手紙にくわしく書かれていて、そこにはキリストの兵士が身につけなければならない武具のことも教えられています(エペソ6:10-18)。そのことはいつか学びたいと思いますが、きょうの箇所では、兵士の心構えが教えられていますので、それを学んでおきましょう。

 兵士の心構えについて、4節に「兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです」とあるように、「キリストの兵士」には、私たちを兵士として召集されたお方、主の軍勢の指揮官であるキリストに従うことが求められています。「兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません」というのは、その通りで、兵士たちは、日常ではない戦時に召集されます。生活の場から戦場に遣わされます。自分のことや、家族のことを後まわしにして、上官の命令に従い、それに服従するのです。しかし、私たちの場合、霊の戦いの場は、日常の生活の場と重なっています。私たちは日々の生活、つまり家庭や職場の中で、さまざまな誘惑や戦いに直面するのです。家庭をしっかりと守り、職場で良い証しを立てること自体が霊の戦いを勝利に導くのです。日常をおろそかにしてよいということでは決してありません。

 しかし、もし、私たちが、あまりにも日常のことに縛られ、そのことで思い煩うようになっていたら、神の国のために戦うどころか、神の国の恵みや力を得ることすらできません。ここで、「日常生活に掛かり合わない」と言っているのは、イエスが「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(マタイ6:33-34)と言われたのと、同じ意味です。信仰者は日常を決しておろそかにしません。家庭を持っている人なら、家族のことに心を配ります。仕事を持っている人なら、それを忠実にやり遂げます。それはとても大切なことです。しかし、そのことで気持ちが一杯になって、神のことも神の国のことも忘れてしまってはなりません。家庭を守るのも、仕事に励むのも、それを通して神に仕えるためだからです。

 大切なのは、「徴募した者を喜ばせるため」ということです。兵役についたことがなくても、軍隊のことがよく分からなくても、「イエスに喜んでもらいたい」という気持ちは、誰でも分かるでしょう。その気持ちを大切していくなら、私たちも「キリストの兵士」として、神の国のために役立つ者となることができるのです。

 二、競技者

 次に、5節は、私たちは信仰の「競技者」であると言っています。古代のオリンピックは、もともとは、ギリシャやローマの神々に献げる宗教儀式でもあったので、ローマ帝国でキリスト教が公認されてからは、古代オリンピックも廃止されました。けれども、新約聖書の時代には、そうした競技会が盛んに行われ、各地に競技場がありました。聖書は、コリント第一9:24-27、ピリピ3:13-14、また、ヘブル12:1-2などで、信仰を競技、とくに競走にたとえています。イエス・キリストの恵みによって救い出された者はみな、天を目指す信仰のランナー(走者)です。聖書は、この競走を最後まで走り抜くなら、賞を受けることができると教えています。

 今でこそ、金メダル、銀メダル、また銅メダルが賞として与えられ、プロ・スポーツの場合、莫大な賞金を受けますが、ギリシャやローマの時代には、良い成績をおさめた者には棕櫚の枝が授けられました。その中でも、他に抜きん出た者には Laurel(月桂樹)の木の葉で作った冠、月桂冠が与えられました。こうしたものは、やがて枯れて、朽ちていくものですが、信仰の競走を走り抜いた人には、「朽ちない冠」(コリント第一9:25)が与えられるのです。私たちが将来受ける冠は、「義の冠」(テモテ第二4:8)、「いのちの冠」(ヤコブ1:12、黙示録2:10)、そして、「栄光の冠」(ペテロ第一5:4)とも呼ばれています。オリンピックの金メダルよりも、ノーベル賞のメダルよりも、この世のどんなものにも比べることのできないものが、最後まで信仰を保つ者を待っているのです。

 信仰は競走です。しかし、それは、他の人と競う競走ではありません。多くのマラソン選手が、「マラソンは、結局のところ自分との闘いです」と言っているように、マラソンなどの長距離競走では、他の人と競うよりは、自分のペースをどれだけ守ることができるかで結果が変わるそうです。信仰のレースでは他の人とは競いあいません。それぞれに、その人に与えられたコースあって、それをひたすらに走るのです。ある人のコースは短くて、なだらかであっても、別の人のコースは長くて険しいかもしれません。他の人のコースと自分のコースを比べてうらやんだり、自分のコースから離れたりせずにゴールまで走り抜けば、どんなタイムで到着しようが、皆が優勝できます。誰もが栄光の冠をキリストから授けていただけるのです。

 そのために私たちに必要なことは、ものごとに自制し、決められたルールに従うことです。競走に参加する人が、普段から節制し、からだを鍛えるのと同じです。コリント第一9:25に「また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです」とあり、また、テモテ第二2:5には、「競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません」とあります。

 さらに、ヘブル12:2には、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」と教えられています。私たちのゴールはイエス・キリストです。ピリピ3:14に「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」とある通りです。この世で人々は財産、学歴、地位、名誉、肩書きなどを求めて、まるでラット・レースのように競いあっています。ある人が言いました。「ラットレースに勝っても、人はラットのままだ。」ほんとうにその通りです。一度しかない人生です。勝利が約束され、報いが待っている信仰のレースを、そのゴールであるイエスを見つめながら、走り続けたいと思います。

 三、農夫

 最後に、6節は、私たちは神の国の「農夫」であると言っています。「労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです」とあるように、神の国のための労苦をいとわないなら、「収穫」を得ると教えています。「収穫」とは兵士が勝ち取る勝利、競技者が得る「賞」と同じで、神から受ける最後の「救い」です。それは「神の国」そのものと言ってもよいでしょう。報いとして神の国を受け継ぐのです。

 農夫は畑をよく耕さなければなりません。また、そこに水を引きます。畑が水源より高いところにある場合は、古代には、水車を使って水を汲み上げました。水車を風で動かすことができないときは、それにペダルをつけ、足で踏んで、水を汲み上げました。それは大変な労苦でした。そうして、畑地を潤してから種を蒔きます。種を蒔いたからといってすぐに芽が出るわけではありません。その芽を鳥がついばんだり、動物が食べたりしないように見張りをしなければなりません。肥料をやったり、雑草や害虫を取り除くなど、農夫は、じつに多くの苦労をします。

 しかし、そんなに労苦しても、必ずしも収穫を得られるとは限りません。農作は、その時、その時の気候に依存しています。テキサスでは2月の寒波で農作物に大きな被害が出ました。わが家でも、せっかく大きく育った灌木が駄目になってしまいました。寒さに強いものに植え替えましたが、それが育つには、また何年もかかかるでしょう。農夫は、作物が育つかどうかを天候に任せなければなりません。同じように、信仰者も、神の国のために福音の種を蒔きますが、それが実を結ぶかどうかについては、神に任せ、神の働きに信頼するしかないのです。それでヤコブ5:7に、「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています」と、私たちに、忍耐と信頼、つまり、「待ち望む」ことを教えているのです。

 しかし、忍耐し、信頼する者、主を待ち望む者には収穫の喜びが約束されています。聖書は「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」(詩篇126:5)と言っています。

 私たちは、キリストの兵士として、キリストに忠実な者でありたい、また、信仰の競走を走る者として自らを節制することができるように、そして、農夫のような忍耐を持ちたいと願っています。しかし、どうしたら、そのような忠実さや、自制や、忍耐を持つことができるのでしょうか。それはどこから来るのでしょうか。答は、1節の「そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」という言葉にあります。私たちは、兵士が持つ忠実さ、競技者が持つ自制、農夫が持つ忍耐に欠ける者です。けれども、神が「そのようでありなさい」と命じられるときには、かならず、それができる力を備えていてくださいます。神のご命令には必ず恵みが伴います。神は、私たちに何の力も、助けも与えないまま、何事かをせよと命じられることはありません。神は忠実さも、自制も、忍耐も「キリスト・イエスにある恵み」として私たちに与えてくださるのです。

 そして、このキリストの恵みを実際に、私たちに手渡してくださるのが聖霊です。「忠実」も、「自制」も、「忍耐」も、すべて、ガラテヤ5:22-23の「御霊の実」のリストにあります。足りない私たちであっても、聖霊が助けてくださいます。キリストの恵みによって強くされます。このことを信じて、キリストの兵士、信仰の走者、また神の国の農夫として、キリストに仕え、信仰の道を走り、収穫の時を待ち望みたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、忠実さにも、自制にも、また忍耐にも乏しい私たちですが、あなたは、キリストの恵みによって私たちを強め、聖霊によって支えてくださいます。たとえ躓くことがあっても、そのことを信じて立ち上がり、最後の勝利を、天の報いを、豊かな収穫を喜ぶ者としてください。恵み深い主イエスのお名前で祈ります。

5/30/2021