3:6 兄弟たちよ。主イエス・キリストの御名によって命じます。締まりのない歩み方をして私たちから受けた言い伝えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい。
3:7 どのように私たちを見ならうべきかは、あなたがた自身が知っているのです。あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、
3:8 人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。
3:9 それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。
3:10 私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。
3:11 ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。
3:12 こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。
3:13 しかしあなたがたは、たゆむことなく善を行ないなさい。兄弟たちよ。
3:14 もし、この手紙に書いた私たちの指示に従わない者があれば、そのような人には、特に注意を払い、交際しないようにしなさい。彼が恥じ入るようになるためです。
3:15 しかし、その人を敵とはみなさず、兄弟として戒めなさい。
9月の第一月曜日は、Labor Day です。これは「労働者の日」という意味で、ヨーロッパの May Day、日本の「勤労感謝の日」と同じようなものです。Labor Day は最初オレゴン州で制定され、1894年からは、アメリカとカナダで全国的に守られるようになりました。この日には、以前は労働組合の集会などもあったようですが、今では、金曜日の午後から出かけて月曜日に帰ってくる、家族の小旅行を楽しむ日になっています。今朝は、Labor Day にちなんで「労働の意味」についてご一緒に考えてみたいと思います。
一、労働の特権
新約聖書が書かれた時代のギリシャやローマの文化では、「労働」は奴隷がすることで、尊ばれることではありませんでした。自由人は、労働を奴隷に任せて、学問や芸術などを楽しんだのです。彼らは学問を重んじましたが、子どもを教育することは「労働」だと考え、それを奴隷にまかせました。ローマ皇帝の子どもたちを教育した有能な哲学者たちも、身分は奴隷でした。ギリシャやローマの文化では、労働は、いやしく、価値のないもとみなされていたのです。
しかし、聖書は、労働を高く評価しています。神がアダムをお造りになって、エデンの園に置かれましたが、アダムは、エデンの園で毎日遊んで暮らしていたのではありませんね。彼は、そこを耕し、守るという労働を与えられていました。「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」(創世記2:15)とある通りです。創世記1:27には、神が人間に「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と言われたとあります。神が人間を造り、この世界に置かれたのは、人間が神にかわってこの世界を治めるためでした。世界を治めるといっても、それは人間が自然を好き勝手にして良いという意味ではありません。神が定めてくださった自然界のルールに則してそれを守っていくということです。アダムが、エデンの園を耕し、そこを守るように命じられたのは、世界を治め、守るという、人間に与えられた使命を果たす第一歩だったのです。私たちは、労働を通して、神にかわって世界を治めるという神からの使命を果たすのです。ですから、労働には、それによって日々の糧を得る、金銭を得るという以上の意味があるのです。労働はそれがどんなものであっても、神がこの世界をお治めになっておられる、その支配に参加することなのです。私たちの教会にも、カウンティや州政府、あるいは連邦政府の仕事をしておられる方がいて、そういう人たちは「私は、このカウンティの福祉の仕事をしている。」「私は、この州の農業の仕事をしている。」「私は、国全体のセキュリティに関わる仕事をしてる。」ということが実感できるかもしれませんが、実は、どんな職業であれ、すべて働く人は、その労働によって、カリフォルニヤやアメリカだけでなく、世界を治める仕事に関わっているのです。たとえ、小さな部分の清掃の仕事であっても、それは地球の環境を守るという大きな仕事につながっています。どんな労働も、神とともに世界を治める仕事にかかわるものであり、決して、いやしいものでも、意味のないものでもありません。
アメリカの歴史をふりかえってみますと、この広大な大地が切り開かれいったのは、たんに軍隊の力によってでも、政治の力によってでも、開拓に出ていった人々の筋肉と汗、知恵と勤勉さ、勇気と忍耐によってだったことがわかります。アメリカは、開拓者たちの肉体労働によって作りあげられてきた国です。そんな意味でアメリカの国は「労働者の国」と言っても良いかと思います。ですから、アメリカでは、日本にくらべて、職業で人を差別することが少ないように思います。どんな職業の人でも、自分の仕事を誇りにし、胸を張って働いていますが、素晴らしいことです。こうした誇りを持つことができるのは、労働が神からいただいた特権であり、神の働きに参加することであるとの信仰が、アメリカの国にはあるからでしょう。神を信じることによって、労働を喜び、誇ることができるのは、さいわいなことです。
二、労働の祝福
古代や中世には、労働をいやしいものと考える人もあれば、それは人間に対するのろいだと考える人もありました。ある人は、聖書がそう言っているのだ言います。創世記4:17-19に、罪を犯し、それを悔い改めようとしなかったアダムに神が語られたことばがあります。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」ここに、神は、人間にとって本来は喜びであるはずの労働をのろわれ、苦しみに変えてしまわれたと書いてあるというのですが、ほんとうにそうでしょうか。聖書は「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。」とは言っていますが、「労働がのろわれた」は言っていません。アダムの罪のために、地がのろわれ、豊かなエデンの園は、耕しても実りの少ない荒地となったのです。のろわれたのは、自然環境です。この自然を治め、守るべき人間の堕落が、自然の破壊をもたらしたのです。神は、自然界に法則を定められたように、神と人の間にもルールを定めてくださいました。人間が神との間に立てられたルールに背いた時から、人は神の定めたルールを無視して自然を治めるようになりました。人間の罪が、人間の内面に影響を与え、人間の内面のゆがみが、社会のひずみをもたらし、社会のひずみが自然を破壊していったのです。
このことは、今の時代に、最もよく見ることができるのではないでしょうか。このままの状態で環境の汚染が進めば地球は三千年しかもたないと、科学者たちは言っていますが、環境の汚染が進まなくても、人のこころの汚染が進めば、人類は三百年ももたないかもしれません。そうだとすれば、私たちの将来は、まったく悲観的なものなのでしょうか。もし、将来がそのように悲観的なものなら、私たちは、何かを目指して働く意欲もわかず、どんな労働も無意味なものになってしまいます。しかし聖書は、いたるところで、世界の回復を約束していあます。ローマ8:20には「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」とあります。人々が救われて神の子どもとされていくことの中に、自然界の救いもあり、また、やがてキリストが来られて、神の子たちがキリストと同じ栄光の姿に変えられる時に、あらゆる被造物も回復の時を迎えるですのです。私たちは、その時を待ち望んでいます。それだからこそ、今の労働に意義を見出し、それに励むことができるのです。
労働は、人間に対するのろいではなく、祝福です。ノアの洪水の後、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、―地の上を動くすべてのもの―それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。」(創世記9:1)と言って、神は、アダムにお与えになった労働の使命を再確認しておられます。神はアブラハム、イサク、ヤコブを選んで、彼らの労働を祝福し、その財産を増やしておられます。箴言には、勤勉に働くべきことが、くりかえし、くりかえし書かれています。箴言には、主婦の働きが認められ、賞賛されています。今日、女性の多くが職業を持つようになり、「主婦だけ」の人が、怠けていたり、働いていないかのように思われるようになってきましたが、ほんとうはそうではなく、主婦の仕事は家庭を守り、支える大切な仕事で、無給の重労働ですね。箴言の一番最後に、主婦の仕事をほめたたえることばがあります。「彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない。その子たちは立ち上がって、彼女を幸いな者と言い、夫も彼女をほめたたえて言う。『しっかりしたことをする女は多いけれど、あなたはそのすべてにまさっている。』と。麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。彼女の手でかせいだ実を彼女に与え、彼女のしたことを町囲みのうちでほめたたえよ。」(箴言31:27-31)。今から三千年も前に書かれた聖書に、こんなふうに主婦の働きが賞賛されているのは驚きですが、ここに書かれているように、専業主婦の方々は決して自分を卑下する必要などないのです。聖書は、男性であれ、女性であれ、どんな立場からの働きであれ、それが神の祝福のもとにあると教えています。
三、労働の目的
ところが、テサロニケのクリスチャンの中に、労働の意味を見失った人々がいました。それで、使徒パウロは、「働きたくない者は食べるな」(テサロニケ第二3:10)と、大変厳しいことばで戒めています。「働かざる者は食うべからず。」というのは、共産主義のスローガンですが、それは、聖書のこのことばから来ているようですね。しかし、共産主義のスローガンと、聖書のことばは少し違っています。聖書は「働きたくない者は」「働こうとしない者は」と言っています。働きたいと思っても仕事のない人、働きたいと思っても健康がそれを許さない人もいるのです。共産主義では、働くことのできない人は生産性のない人として斥けられるのかもしれませんが、聖書ではそうではありません。さまざまな事情で、働きたいと思っても働けない人のことを、私たちは決して無視してはいません。他の人と同じ仕事はできなくても、どの人も、社会の中で何かの役割を果たすことができるのです。その人の笑顔や、ことば、またその存在自体が立派な仕事となる場合もあるのです。目覚しい働きをした人だけが社会に役に立つのではありません。目立たない人々でも、それぞれが果たす役割は、社会にとってなくてならないものなのです。そうであるなら、なおさら、教会では、目立たないと思える人が宝であり、また、なくてならない存在ではないでしょうか。以前奉仕した教会でのことですが、ある姉妹はからだが弱く、お年を召されて、めったに礼拝に来ることができませんでした。それでも、身体の調子の良い時には、娘さんに連れられて、礼拝に出てこられるのですが、そのことでみんながとても励まされたものでした。ご本人は「みなさんに迷惑ばかりかけて…」と仰るのですが、彼女が柔和な笑顔をたたえて、そこにいてくださる、そのことだけでどんなに大きな励ましになったかわかりません。彼女は、そのことによって、他の誰にもできない素晴らしい仕事をしていたのです。聖書が問題にしているのは、働く機会も、健康も与えられているのに、働こうとしない人々のことです。
パウロは、クリスチャンが勤勉に働くべきことを、ことばだけでなく、模範によっても教えました。パウロには、福音の働きによって自分の生活を支える権利があったのですが、彼は自分の手で働きました。ユダヤでは、職業教育が徹底しており、「職を身につけさせないことは、泥棒を作ることだ。」とさえ言われました。それで、ユダヤ教のラビであったパウロもテント造りの技能を身に着けていました。パウロはテサロニケの町でも、テント造りの仕事をしたのでしょう。「どのように私たちを見ならうべきかは、あなたがた自身が知っているのです。あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。」(テサロニケ第二3:7-10)とある通りです。パウロはミレトという港町で、エペソの教会の指導者たちを招いて、彼らに告別の説教をしたことがありますが、その最後に彼はこう言いました。「私は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」(使徒20:33-35)パウロは、おそらく、実際に両手を差し出して「この両手は…」と言って話したことでしょうが、彼の両手はきっと、テントづくりの仕事のためにふしくれだっていたと思います。
パウロの教えを聞き、その模範を見ながらも、まだ締まりのない歩み方をしている人がテサロニケにはいたのですね。新改訳で「締まりのない」(6,7,11節)と訳されている言葉は口語訳や新共同訳では、「怠惰」と訳されています。たしかに「怠惰」と訳していいのですが、では、この人たちは、何もしないで、だらだらと日をすごしていたのかというとそうではなく、彼らは、忙しく走り回っていたのです。11節に「ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人があると聞いています。」とあるように、なすべき仕事をしないかわりに、人のおせっかいをやいていました。これはテモテ第一5:13「若いやもめは…怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します。」とあるようなことを指しているのだろうと思いますが、ともかく、この人たちは全くの怠け者ではなく、自分のしたいことには熱心だったのです。このことから、何もしないことばかりでなく、的外れなことに忙しくすることも、「怠惰」なのだということが分かります。主イエスが弟子たちを連れてラザロの家に来た時、マルタは接待のために忙しく走り回っていましたが、マリヤはイエスの側でその教えに耳を傾けていました。マルタはマリヤが「怠けている」と非難しましたが、マリヤは、決して怠けていたのではありませんでした。マリヤは、イエスがマリヤに一番して欲しいことをしていたのです。マリヤは、イエスの教えを聞くことによって、最も良くイエスをもてなしたのです。
現代はとかく忙しい時代です。顔を合わせれば「忙しそうですね。」と言うのが挨拶になってしまいました。「忙しそうですね。」と言われて、忙しいのを自慢するようにさえなっているかもしれません。「暇そうですね。」などと言われたら腹を立ててしまうことでしょう。教会でも、みんなが忙しくしています。しかし、何のことで忙しくしているのか、何のために忙しいのか考え直してみる必要があります。パウロは、目的を見失ってむやみに動き回っているだけの人々に「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」と命じています。主イエスは、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネ6:27新共同訳)と言われました。労働を尊ぶということは、働きづめに働くということでも、忙しく動き回れば良いということでもありません。自分のしていることの目的をしっかりと見つめ、それが永遠につながるものかどうかをみきわめて働くということです。今日は主の日、安息の日です。今までしてきたことに一旦終止符を打って、今、自分は何を第一になすべきなのかを考えなおしてみる時です。教会全体としても、何を、何のためにしているのかを見極め、ほんとうにしなければならないことに、みんなが心を合わせて進んでいきたいと思います。
すでに良い働きをしている人々に、聖書はこう言います。「しかし、あなたがたは、たゆむことなく善を行いなさい。兄弟たちよ。」(13節)主にあってなすことは、どんな小さなことでもそれは永遠につながるのです。パウロはコリント第一15:58でこう言っています。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」主のわざが必ずしも評価されるとは限りません。しかし、それは必ず神に覚えられています。主にあってなすことであっても、その時は何の役にもたたないのではないかと思える場合があるかもしれません。しかし、それはやがての日に必ず実を結ぶのです。そのことを思って、主のわざに励んでいきましょう。
(祈り)
父なる神さま、私たちは、何をどうするかに心を奪われやすく、知らない間に、活動だけに没頭して、その目的を見失っていることがあります。それぞれの職業においても、家庭においても、また、教会でも、何のためにこの仕事をしているのかを、もういちどはっきりと示してください。なくてならぬもののために働く、あなたの良き働き人となることができますよう、導いてくさい。今にいたるまで、私たちの救いのために働きつづけてくださっている、主イエス・キリストのお名前で祈ります。
9/5/2004