神の道

サムエル記第二22:31-35

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22:31 神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。
22:32 まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神のほかにだれが岩であろうか。
22:33 この神こそ、私の力強いとりで。私の道を完全に探り出される。
22:34 彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。
22:35 戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓でも引けるようにされる。

 一、信仰の道

 日本人は「道」という言葉が好きです。「武士道」という言葉があります。武士とは何なのか、武士は何を目指し、何に導かれて生きるのかということを極めようとすることを指します。お茶を立て、それをいただくことは「茶道」、生花を生け、それを鑑賞することは「華道」と呼ばれます。文字を芸術作品として書くことは「書道」です。剣術も柔術も単なる格闘技ではなく、「剣道」、「柔道」と呼んで、精神的なものが大切にされてきました。

 信仰もまた「道」と呼ばれます。日本の八百万の神々を信じる信仰は「神道」と呼ばれています。聖書でも、キリストを信じる信仰が「道」と呼ばれています。使徒9:1-2に「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった」とあります。このように、キリストを信じる信仰は「この道」と呼ばれ、キリストを信じる人々は「この道の者」と呼ばれています。アポロという伝道者について、使徒18:25に「この人は、主の道の教えを受け…」と書かれています。初代教会ではキリストの教えは「主の道」とも呼ばれていたのです。イエス・キリストご自身が「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6)と言われました。キリストご自身が道なのです。

 日本では、明治期に世界中に著名になった多くのクリスチャンが起こりました。この人たちは武士の家から出た人で、それまで、武士道を追い求めていましたが、道であるキリストを見出し、武士道の精神でキリストに従った人たちです。このように、道を求めた人たちによって、日本にキリスト教が根付いたのです。

 イエス・キリストを他の人に伝えることを「伝道」と言い、信仰を求めることを、仏教では「ぐどう」と読みますが、キリスト教では「求道」(きゅうどう)と言い、信仰を求める人を「求道者」と言います。キリスト教では「きゅうどう」と読みます。ふつう、まだバプテスマ(洗礼)を受けていない人を「求道者」と呼び、バプテスマ(洗礼)を受けた人を「信者」と呼びます。けれども、バプテスマを受けた信者は、もう道を求める必要はないのかというと、決してそうではないと思います。バプテスマ(洗礼)は、そこからキリストに従い、天を目指していく新しい道の出発点なのですから、バプテスマ(洗礼)を受けてはじめて本当の「求道」が始まると言っても良いと思います。「求道者」を辞書で引くと「あることを極めるために他のことをすべて犠牲にして省みない人」とありました。他のことを犠牲にしてまでもキリストを求める。それはキリストの素晴らしさを知り、信仰の喜びを味わっていればこそ出来ることだと思います。もし、「犠牲にする」という言葉が強ければ、キリストに従うのに妨げになるものを捨て、信仰に生きるために不必要なものを整理することができると言い換えても良いでしょう。IPS細胞の研究でノーベル賞を受けた山中伸弥さんは、「まだ研究を極めたとは思っていません。これからが新しい研究の第一歩です」と言っていました。科学の真理でさえも、無限に近い広さを持ち、人類はまだそのほんの少ししか理解していないとしたら、信仰の真理は、さらに無限の広さと深さを持っています。私たちも初心に立ち返って、主の道を求め続けたいと思います。聖書は「わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。あなたの目は、わたしの道を見守れ」(箴言23:26)と教えています。信仰の道をさらに求めて励んでいく、そんな私たちでありたいと思います。

 二、神の道

 さて、今朝の箇所は、それまでサウル王に追われていたダビデが、サウル王の死によって、イスラエルの王となったときに歌った歌です。ダビデの生涯は実に波瀾万丈でした。ダビデは八人兄弟の末っ子で、羊飼いでしたが、巨人ゴリアテを倒したことから、一躍ヒーローとなり、サウルの婿となり、戦士となりました。ところがサウルに妬まれ、命を狙われ、各地を転々としなければなりませんでした。けれども、ダビデは、神に頼り、そのつどサウルの手から守られてきました。逆にサウルの命を奪う機会が何度もあったのですが、ダビデは決してサウルに手をかけませんでした。

 なぜでしょうか。それは、ダビデが、「自分の道」ではなく、「神の道」に生きていたからでした。ダビデには人望がありましたから、命を狙うサウルを返り討ちにしても、人々の同情を買うことはあっても、大きな非難を浴びることはなかったと思います。しかし、それはダビデの選択の中には入っていませんでした。イスラエルでは、祭司と預言者と王が香油を頭に注がれてその職務に着きました。油注ぎは神の直接の任命を示すものです。ダビデは、その神からの油注ぎを尊重して、サウルに手をかけなかったのです。「主が油を注がれた者に手をかけてはいけない」と言ってそのことをしなかったのです。

 ダビデは、神を尊ぶゆえに神が聖別されたものをも尊重しました。そこにサウルとダビデの違いがあります。サウルは、祭司たちがダビデを匿ったということを聞き、祭司アヒメレクと一族の祭司たちを自分のところに呼びつけました。サウルは部下に祭司たちを殺せと命じましたが、家来たちは神が油注ぎをもって任命した祭司に手をかけることを拒みました。それでサウルは、エドム人ドエグに命じて、祭服をまとった祭司たち85人を殺させました。サウルは、神を敬うことも、恐れることもなく、神が油注がれた者に手をかけるという、最も恐ろしい罪を犯しました。しかも、それを悔い改めることがありませんでした。サウルは神の道ではなく、自分の道を追い求め続けたのです。

 しかし、ダビデは違いました。ダビデは決して罪も過ちもない完全な人ではありませんでした。しかし、ダビデは罪を犯し、間違いがあったとき、それを悔い改め、神に赦しを求め、神のみこころを第一にして生きました。ダビデは軍人であり、政治家でしたから、戦略も政略も使いました。しかし、ダビデは決して自分の戦略、政略の道を第一にしませんでした。ダビデは「神の道は完全」(31節)と言っています。神の道は人にはすべて理解できなくても、最終的には善をもたらす、完全な道であることをダビデは信じ、その道に歩んだのです。ダビデは自分の野望を達成しようと自分の道を突き進むことなく、常に、神の定められた道を歩み、その道に忠実であろうとしました。そのようにして、ダビデはイスラエルで最も尊敬される王となったのです。

 三、私の道

 「神、その道は完全」と言って、神をほめたたえたダビデは次に「(神は)私の道を完全に探り出される」(32節)と言って、今度は自分の道をふりかえっています。神の完全で、高く、大きな道にくらべ、「私の道」、つまり、私たちの人生の道は不完全で、小さなものにすぎません。しかし、神は、そんな私たちの道、歩みにも目を留めてくださるのです。

 私たちは地球全体からみれば小さな点にもならないようなところでうごめいている生き物で、地球が太陽を百周回るかまわらないかのうちに息絶えていく存在です。宇宙から地球を見れば、そこには国境などないのに、どの国も、ここは俺達の土地だ、自分たちの島だと、陣取り合戦を繰り返しています。

 また、豊かな国はどんどん無駄遣いをし、貧しい国はますます貧しくなっています。最近、英国の学会が、世界で年間約40億トンの食料が生産されているのに、そのうちの12億から20億トン、ほぼ半分が食べられずに無駄になっているという研究結果を発表しました。味も栄養も変わらないのに、小さかったり、大きかったり、形がすこし歪んでいたりして、市場に出す規格に合わないという理由だけで、作物が捨てられているというのです。それに、スーパーマーケットに並んだ食べ物の3〜5割が、いわゆる賞味期限や消費期限が過ぎて捨てられています。世界の七人にひとりが食べ物がなくて亡くなっていくというのに、なんという無駄でしょうか。

 私たちは、神はあまりにも偉大で、そんな人間たちの愚かな歩みにいちいち目を留めてはおられないと思ってしまうことがあります。特に、社会に悪がはびこり、自分がその悪の犠牲になっていると思えるようなときには、預言者ハバククのように「あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう。なぜ、裏切り者をながめておられるのですか。悪者が自分より正しい者をのみこむとき、なぜ黙っておられるのですか」(ハバクク1:13)と言いたくなるようなことがあります。

 しかし、神は言われます。

ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ40:27-31)
そうです。神は私たちの道を見ていてくださるのです。天に太陽や月星のための道を作られたお方が、同時に私たちそれぞれの人生の歩みを顧み、導いてくださるのです。そのことを信じて主を待ち望む者は力を得るのです。

 ダビデは「彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓でも引けるようにされる」(33-34節)と言いました。これは、主を待ち望むことによって与えられる力を言い表わしています。鹿の脚は細い脚ですが、急な崖などもすいすいと上っていく強さを持っています。神が導かれる道はかならずしも平らな道とは限りません。暗い谷間も、苦しい坂道もあるでしょう。神の導きと守りを信じてはいても、ものごとが思い通りに運ばないとき、そのことでいらだったり、不満で心が一杯になったり、失望して落ち込んだりして、不信仰に陥ってしまうことがあります。けれども、神は、そこから私たちを引き上げて、私たちの信仰の脚を強くしてくださいます。神は、私たちの道を導いてくださるだけでなく、そこを歩く力も与えてくださるのです。

 ヒットラーが権力をふるっていたころ、ドイツにウィルヘルム・メンシングという牧師がいました。みんなが「ハイル・ヒットラー」と言って挨拶するのに、彼だけはにっこり笑って「こんにちわ」と言うだけでした。陸軍の将校がそれを咎めて、30分間もまくしたるのですが、メンシング牧師はいつも黙ってそれに耐えるだけでした。やがて、連合軍の空爆が始まり、彼の教会のメンバーがその最初の犠牲となりました。ナチスはこの機会をとらえて、連合軍への憎しみをあおりたてようとしました。空爆で亡くなった人の埋葬式に、武装した軍人たちが大勢かけつけてきました。「連合軍は、一般市民にまで無差別に爆弾を落とす悪魔である」という宣伝をするためでした。人々は、メンシング牧師が連合軍の「残虐行為」に反対する話をしなかったら、今度こそは逮捕されるだろうと恐れていました。メンシング牧師はそのような中でも、ドイツから見て「敵国」であるイギリスやアメリカ、ロシアへの憎しみや報復を口にせず、ただ、すべてのものの上にある父なる神のいつくしみだけを語りました。メンシング牧師の夫人は牧師が講壇に登るたびに、いつもはらはらしていました。メンシング牧師は決してナチスに媚びて人々をあおりたてるような話をしなかったからです。どの説教も平和と博愛の精神に裏打ちされたものでした。祝福が終わると、聴衆たちはいつも「今度こそ、牧師はつかまるだろう」とひそひそ話をしましたが、そのことは起こりませんでした。連合軍に押されて不安になっているドイツ軍の幹部たちは、どんな時も節を曲げないメンシング牧師にかえって敬意を払うようになったのです。戦争が終わった時、あるアメリカ人が、メンシング牧師に、「ナチスの圧迫に屈しなかった秘訣は何ですか」と聞きました。メンシング牧師はこう答えました。「人が悪事をする時、彼は暗闇の中にいるのです。その人はものを見ることができません。夜、家に帰って自分の家が暗いとき、暗闇を追い払うのに、箒やはたきを握るでしょうか。いいえ、まずローソクをつけます。私はただ、ローソクをつけただけです。」メンシング牧師は、みことばの光を掲げ、どんな時も、主の道を歩みました。

 どの時代の信仰者たちも、困難な中で、「主は、主に信頼する者をかならず助けてくださる」と信じて、信仰の道を歩みました。「この神こそ、私の力強いとりで。私の道を完全に探り出される。」このことばに信頼し、私たちの小さな道にも目を留めてくださる主を信じて、そのように歩みたいと思います。この年の私たちの歩みはまだ始まったばかりです。この年、主の道を前に置いて進んでいこうではありませんか。

 (祈り)

 全能の神さま、私たちはしばしば、あなたのみこころの道を忘れて、自分の好き勝手な道に歩んでしまいます。また、あなたのみこころの道を自分たちの小さな考えて量り、誤解してしまうこともあります。そんなとき、あなたが。「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ55:9)と言われたことを思い起こさせてください。思い上がることも、また卑下することもなく、「私の道が、あなたの道に沿うものとなりますように」と願い、歩むことができますように。「道」であり、「真理」であり、「いのち」であるイエス・キリストのお名前で祈ります。

1/13/2013