3:8 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。
3:9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
3:10 しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。
3:11 このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、
3:12 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。
3:13 しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。
一、人の忍耐
何事も「待ち望む」のには忍耐が要ります。聖書は「だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい」(ヤコブ5:7)と教えています。忍耐なしに成功がないことは、多くの実例が教えています。
ウルワースは最初、四つ店を開きましたが、三つは失敗して閉店しなければなりませんでした。しかし、彼は、忍耐して、後に、全米にチェーン店を持つまでになりました。ペリー提督は七回、北極を目指しましたが、すべて失敗しました。しかし、忍耐して八回目に北極点に到達しました。エディソンは電球のフィラメントを見つけるのに、なんと1600もの材料を試しました。オスカー賞で有名なオスカー・ハマスタインの「オクラホマ」は最初の6回のショウはすべて失敗でした。しかし、忍耐の結果、「オクラホマ」は2,248回ものショウを重ねることになったのです。ベーブ・ルースは714本のホームランを打ちましたが、その倍以上の空振りをしています。それでも忍耐を重ね、その記録はハンク・アーロンに破られるまで続きました。
ユリシーズ・グラントは、軍務についている時に酒を飲み、酔っ払ったため、軍を辞めさせられました。それでビジネスをしましたが、失敗し、農業も試してみましたが、それも失敗しました。彼は、働き盛りの四十代に、薪ひろいをし、それを道端で売って生活するという苦境に遭いました。しかし、それでも彼はあきらめず、忍耐に忍耐を重ねて、ついに第18代のアメリカ大統領になったのです。
今年8月25日に亡くなったマケイン上院議員は、ベトナム戦争で、乗っていた飛行機が撃ち落とされ、捕虜となりました。マケイン氏の父親は海軍大将であり、太平洋軍の司令長官にもなりましたので、彼の釈放は早いと思われましたが、「自分より先に捕虜になった人から順に釈放されるべきだ」と言って、特別扱いされることを拒否しました。マケイン氏は生命にかかわるような重症を負っていたにもかかわらず拷問や強迫を受けながら、ハノイで五年半の捕虜生活に耐えました。後に彼は政界に進出しましたが、その時の忍耐が彼を支え、大統領候補にまでなることができました。
二、信仰の忍耐
一般社会の事柄でも忍耐が必要なら、信仰のことにおいては、なおのことです。ヘブル10:36は「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である」と言い、聖書には、忍耐によって約束のものを手にした信仰者のことが、数限りなく書かれています。
ノアは何年もかけて方舟を作り、洪水となって水が引くまで、一年間も方舟に閉じ込められていました。ノアの方舟は、フットボールのコートぐらいの大きさがあったと言われています。結構広いようですが、そこには様々な種類の動物と、その食糧が満載されており、ノア夫妻と三人の息子夫妻がそこで生活するには窮屈だったに違いありません。
洪水が起こったとき、空は厚い雲で覆われ、昼間でも太陽が見えませんでした。その暗黒の空から滝のような雨が降り、地は裂けて水が溢れ出しました。方舟は今にも沈みそうになるほど、揺れに揺れたことと思います。そんな日が四十日も続きましたから、方舟での一年は、10年にも、20年にも感じられたのではないかと思います。雨がやんでも、外は一面が水、また水です。方舟は到着すべき陸地を失いました。そのときの不安はどんなだったかと思います。
しかし、ノアは待ちました。じっと、水が引いていくのを待ちました。やがて船底が地面の上に着きました。ノアはハトを三度放って、水が乾いたことを確かめました。けれども、まだ方舟から出ることなく、なお数カ月待ちました。ノアは神が「方舟から出なさい」と言われるのを待ったのです。
わたしたちの人生には、ノアのように、何もできないで、ひたすら時を「待つ」しかない場合が多くあります。そんな時、忍耐を試されます。「奇跡が起こる五分前に信じることをやめてはいけない」という言葉があります。あと、ほんの僅か、忍耐していたら、結果はもっと良くなっただろうという後悔は、皆さんも味わったことだろうと思います。ノアも長い人生でそんな失敗をしたことがあったでしょう。しかし、彼は失敗を教訓として、神の言葉があるまで、忍耐して待ちました。そして、その忍耐は報われ、ノアは洪水の後の新しい世界を切り開いたのです。
アブラハムは、召命を受けてから約束の子イサクを得るまで25年かかっています。アブラハムは神の約束を待ちきれずに、勇み足をしてしまいましたが、もう一度信仰に立ち返りました。そして、忍耐の後に神の約束の成就を見ました。
エジプトに売られたヨセフは、13年の間、不遇の時を過ごし、忍耐を強いられました。しかし、彼の「信仰の忍耐」は報われ、エジプトの宰相となり、家族を救う者となったのです。
しかし、どんなに忍耐しても、結果が見えないときもあります。みなさんにもそういう時があったことでしょう。私にもありました。問題が大きな岩のように私の前にたちふさがりました。神が「それを押してごらん」と言われたので、私は懸命にそれを押したのですが、どうしてもその岩は動きませんでした。私は「神さま、岩は少しも動きませんでした。何も変わりません」と不平を言いました。すると、神は言われました。「いや、変わったことがあるだろう? ご覧、あなたの腕は強くなっている。」私が岩を押し続けている間に、岩は動きませんでしたが、腕が強くなりました。問題は即座に解決しませんでしたが、神は、私を、問題に取り組むのにふさわしい者にしょうとされたのです。
ローマ5:4-5に「忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す…そして、希望は失望に終ることはない」とあります。たとえ患難があっても、忍耐を働かせるなら、希望が生まれます。「希望は失望に終わらない。」なんと確かな言葉でしょう。しかし、「忍耐」からすぐ「希望」に至るのではなく、「忍耐」と「希望」の間に「練達」があることを忘れないようにしましょう。「練達」とは、新改訳聖書で「練られた品性」と訳されているように、信仰者にふさわしい資質のことです。元の言葉には「合格証」という意味があります。様々な製品は工場で作られたあと、検査に回され、検査に合格すると「合格」(Passed)という印をつけられてから出荷されます。神は、忍耐を通して、信仰者をみこころにかなうものに作りあげてから、確かな希望へと導いてくださるのです。「練られた品性」は信仰の忍耐が与えてくれる、かけがえのない実です。
三、神の忍耐
このように、神は、わたしたちに「忍耐」をお求めになりますが、じつは、神ご自身が、大きな忍耐をしておられることを、皆さんは、考えたことがあるでしょうか。
今朝の箇所は、キリストの再臨を忍耐して待つようにと、教えています。ペテロがこの手紙を書いたとき、クリスチャンは迫害の只中にありました。多くのクリスチャンが財産を奪われ、町を追われ、難民となりました。投獄され、拷問を受け、殉教する人々が増えていきました。信仰を持つ者に患難がやってきたのです。しかし、信仰者は患難に耐え、敬虔な生活に励み、希望に生きました。初代のクリスチャンは、キリストが今にも再臨して、迫害を受けている自分たちを救ってくださることを期待しました。しかし、その時代には主は再臨されませんでした。
クリスチャンが再臨を待ち望んでいることは、一般の人々も知っていることでしたから、人々は、「主の来臨の約束はどうなったのか」(ペテロ第二3:4)と言って、クリスチャンをあざ笑いました。クリスチャンの中にも「ほんとうに主は再臨されるのだろうか」という疑いも起こってきました。
初代教会から二千年経ちましたが、再臨はまだです。それで人々は、「キリストが再臨を約束されて二千年も経っている。もう、その約束は自然消滅したのだ」と考えるようになりました。しかし、ほんとうにそうでしょうか。神の約束は「二千年」という時間が経てば変わり、反故になるようなものでしょうか。いいえ、神の言葉は決して変わりません。「主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである」(8節)というのは、神の言葉の変わらないことを教えています。9節では、今まで再臨が延期されてきたのは、神の忍耐のゆえだったと教えられています。こう書かれています。「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」
再臨の日、それは、イエス・キリストを愛し、キリストが来られるのを待ち望む人々には救いの日ですが、そうでない人々には、審判の日です。その日は、最終判決の日で、そこでわたしたちの永遠が決定されるのです。憐れみ深い神は、ひとりでも多くの人が、悔い改めて、キリストの救いにあずかることができるようにと、審判の日を先延ばしして、待っていてくださるのです。ですから、「二千年も経った今、再臨などないのだ」と言う人は、神が二千年の間、「御子(キリスト)を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」(ヨハネ3:16)に、忍耐を尽くして待っていてくださる、その愛を踏みにじることになるのです。
イエス・キリストは、みずから進んで十字架を取り、その苦難を耐え忍ばれました。キリストはそれによって、神の忍耐を身を持って示してくださいました。わたしたちには、自分ひとりで忍耐する力はありません。わたしたちに必要なのは、わたしたちを忍耐して待ってくださっているこの神の愛です。キリストが、わたしたちに代わって耐え忍んでくださった、その忍耐です。テサロニケ第二3:5にこうあります。「どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせて下さるように。」この祈りを、わたしたちの祈りとしましょう。そして、忍耐によって練られた品性を得、練られた品性によって、確かな希望へと導かれていきたいと思います。
(祈り)
忍耐と慰めの神さま、わたしたちに、なおも、あなたの愛の忍耐を教えてください。キリストの忍耐を学び、それを持たせてください。そして、あなたに喜ばれる品性を身に着け、助けと祝福を受ける者としてください。主イエスの御名で祈ります。
11/25/2018