2:6 エリヤは彼に、「ここにとどまっていなさい。主が私をヨルダンへ遣わされたから。」と言った。しかし、彼は言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、ふたりは進んで行った。
2:7 預言者のともがらのうち五十人が行って、遠く離れて立っていた。ふたりがヨルダン川のほとりに立ったとき、
2:8 エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。すると、水は両側に分かれた。それでふたりはかわいた土の上を渡った。
2:9 渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」と言った。
2:10 エリヤは言った。「あなたはむずかしい注文をする。しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない。」
2:11 こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。
一、天に昇ったエリヤ
列王記第一は、イスラエルの王、アハブの死で終わっていました。列王記第二は、アハブの子、アハズヤの病気のことから始まっています。アハズヤは病気のため、王になってたった2年で亡くなりました。アハズヤには男の子がいなかったので、アハズヤの兄弟、ヨラムが王となりました。
ヨラムが王となって間もなく、エリヤが世を去る時がやってきました。列王記第二2:1に「主がエリヤをたつまきに乗せて天に上げられるとき…」とあるように、エリヤは普通の仕方で世を去るのではなく、「たつまきに乗って天にあげられ」ました。もちろん、それはたつまきに巻き込まれて死ぬということではありません。エリヤが天に上げられる時、超自然の「火の戦車と火の馬」が現れていますので、この「たつまき」も、単なる気象現象ではなく、超自然のものだったと思われます。エリヤは「火の戦車と火の馬」に乗り、たつまきのようにして天に昇っていったのでしょう。普通、人は死んでそのからだは土に葬られます。天に昇るのではなく、地に下るのです。しかし、エリヤは生きたまま天に昇りました。これは、主の特別なとりはからいで、聖書の人物では、他にエノクだけしか体験していません。
エノクはアダムから七代目の人で創世記5章のアダムの系図の中に出てきます。アダムの系図にはこう書かれています。「アダムは全部で九百三十年生きた。こうして彼は死んだ。」(5節)「セツの一生は九百十二年であった。こうして彼は死んだ。」(8節)「エノシュの一生は九百五年であった。こうして彼は死んだ。」(11節)「ケナンの一生は九百十年であった。こうして彼は死んだ。」(14節)マハラルエルの一生は八百九十五年であった。こうして彼は死んだ。」(17節)エレデの一生は九百六十二年であった。こうして彼は死んだ。」(20節)古代の人々、とくにノアの洪水以前の人々は、驚くほど長寿で、何百年と生きています。しかし、どんなに長生きしても「こうして彼は死んだ」という言葉で生涯が終わっています。アダムが罪を犯し、その結果世界に死が入ってきました。だれひとり、この死から逃れることができないという厳粛な事実が描かれています。
ところがエノクについてだけは、こう書かれています。「エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(21〜24節)エノクもまた世を去りました。しかし、「死んだ」とは言われないで、「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」と言われています。ヘブル11:5には「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました」と書かれています。「エノクは神とともに歩んだ」とありますが、その生涯は敬虔な生涯で、エノクは神と共に歩み、そのまま神のところに引き上げられたのだと思います。
旧約時代には人は死んでよみに下っていくということ以上のことは知らされてはいませんでした。しかし、新約時代には、私たちの人生が死で終わるのではないことが、イエス・キリストのよみがえりによって明らかになりました。イエス・キリストが復活し、天に昇っていかれたように、イエス・キリストを信じる者も、キリストの復活の命、つまり、永遠の命を受けて、地上の命を終えた後も、その命によって、天で生き続けるのです。そして、キリストが再び来られる日に、キリストが復活されたように、私たちのからだも復活します。キリストを信じる者は死に閉じ込められることはないのです。キリストを信じる者も、生涯の終わりに死を体験します。しかし、それは、キリストを信じる者にとっては、この世界から次の世界へと進んでいく通過点にすぎないものになのです。
ある牧師が、死に対する不安を持っている人を励ますために、その人を訪ね、こう話しました。「地上の生涯を終えて、キリストのもとに行くのは、キリストを信じる者にとっては、ドアを開けて、次の部屋に行くのと同じようなものなのです。」すると、来客の邪魔にならないようにと別の部屋に入れてあった犬が、どのようにしてか、その部屋のロックを外し、ドアを開けて、その人の膝のうえに飛び込んできました。その人は「急に犬が飛び込んできて、話を妨げてしまってすみません」と言って牧師に詫びしましたが、牧師はこう言いました。「あなたの犬はドアを開けたら、主人であるあなたがいるのを知っていたんですね。そのように、キリストを信じる者も、死というドアの向こうに、信じる者の主であるイエス・キリストが待っておられることを知っているのです。」その話を聞きいた人は、何の不安もなく主人の膝に飛び込んできた犬を見て、主のふところに飛び込んでいこうという決心ができ、平安を取り戻したそうです。
若い人は、「死」や「死後のこと」などをほとんど考えないかもしれません。しかし、自分の人生を考える時、それが何の希望も、保証もない死で終わってしまうのであれば、人は死ぬために勉強したり、働いたりしていることになります。自分の人生が、そんな無意味なもので良いという人は誰もいないでしょう。若い日のうちに、真剣に人生を考えましょう。聖書は、イエス・キリストを信じ、神に従うなら、永遠に備え、意義ある人生を送ることができると約束しています。多くの人が目に見える一時的なものを求めている中で、目に見えない価値あるものを求めて生きるのは簡単なことではありません。けれども、永遠に備えて生きる生き方が、地上の生涯をも祝福で満たすのです。エノクのように神と共に歩むことによって、エリヤのように自分に与えられた使命を果たすことによって、また、日々に神を恐れる生き方に励むことによって、永遠に備えることができ、それが同時に地上の生活の祝福となるのです。
二、霊の賜物を求めたエリシャ
さて、エリヤはギルガルを出発してベテルへ、またベテルからエリコへ向かいました。そうした町々に預言者の共同体があり、エリヤはその指導者として、世を去る前に彼らと会い、最後の指導を与えようとしたのです。エリシャは、ベテルにも、エリコにも、エリヤについて行きました。エリシャにも、エリヤが世を去る時が来たことが知らされていたからです。
エリヤはエリコからヨルダン川に向いました。エリコの預言者たちは遠くから眺めているだけでしたが、エリシャはエリヤから離れず、エリヤがヨルダン川を渡ると、エリシャも一緒に渡りました。エリヤは、エリシャとふたりきりになってはじめて、エリシャに自分が取り去られることをはっきり語り、エリシャに何をしてほしいかと尋ねました。すると、エリシャは「あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように」と言いました。
「あなたの霊の、二つの分け前」というのは、エリヤに与えられたものの二倍の霊的な力ということです。これは、エリシャがエリヤに勝るものになりたいといった思いから出た求めではありません。おそらくは、エリシャは、エリヤに与えられたのと同じ霊的な力だけでは足らない。自分にはエリヤの二倍の霊的な力が必要だと感じだからだろうと思われます。私たちが霊的なものを求めるのは、自分の弱さを知るからです。自分には力があると思っている人は、そんなに熱心に主の助けを祈りません。しかし、自分の足りなさを知っている人は、何事をするにも主の助けが必要なことを知っていて、それを熱心に祈り求めます。そして、そういう人が能力ある人よりももっと力ある働きが出来、主に喜ばれることを行うことができるのです。
また、「二つの分け前」には、「長子が受ける分」という意味もあります。イスラエルでは、親の財産を子どもが継ぐ時、長子は、他の兄弟の二倍を継ぐことができました。それは、長子の特権であり、また長子の責任でもありました。親の財産を多く受けた長子は、他の兄弟が困ったときには、助けてあげなければならないからです。エリシャは、エリヤから、預言者の共同体全体の指導を引き継ぎます。そのためには他の預言者に与えられているものの二倍の霊的な力が必要だったのです。エリシャは自分に与えられた責任の重さを知っていました。それで、霊的な力の「二つの分け前」を求めたのです。
エリヤはエリシャに「あなたはむずかしい注文をする」(10節)言いました。霊的な力そのものは、人間が与えることのできるものではないからです。エリヤは、今までエリシャと一緒にいて、エリシャに指導者としての訓練のすべてを与えてきました。しかし、霊的な力そのものは、そうしたことだけで与えられるものではありません。サンデースクールでは、教師は子どもたちに聖書の知識を与え、また、信仰者としての良い手本を示します。しかし、信仰を持ち、それを告白するのは、子どもたちひとりひとりの決心にかかっています。親から子に信仰を伝える時もそうです。親は子どものために祈り、信仰的な感化を与えることができますが、キリストを受け入れ、キリストに従う最終的な決断は、子ども自身がしなければならないのです。私たちたちは、誰かから福音を聞き、誰かに祈ってもらって信仰に導かれ、誰かから訓練を受けて成長してきたのです。霊的な事柄が伝えられるために人が用いられます。けれども、人にはできない部分もあります。神が、とりわけ、神の霊、聖霊が、直接、ひとりひとりに働きかけ、真理を認め、悔い改め、へりくだる心へと造り変えてくださらなければ、最終的には霊的なものが伝わらないのです。
エリシャには神からの賜物を受け取る信仰の備えがありました。エリシャは神の霊の満たしを受けたのです。エリシャが、エリヤを見送ったあと、もういちどヨルダン川を渡って帰ってきたとき、エリコの預言者たちは「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」(15節)のを見ることができました。この後、列王記第二9:10までにはエリシャが行った奇蹟が次々と書かれています。エリシャはエリコの町の水質を改善しました(2:19〜22)。ユダの王ヨシャパテのためにモアブへの勝利を預言しました(3:4〜27)。家中のからっぽの器すべてに油を満たし、預言者の仲間の困窮を救いました(4:1〜7)。不妊の女性を癒し、その子を生きかえらせました(4:8〜37)。毒草から毒を取り除きました(4:38〜41)。わずかなパンで大勢の人を満腹させました(4:42〜44)。アラムの将軍のらい病を癒しました(5章)。エリシャはエリヤが行ったよりも多くの奇蹟を行っています。神はエリシャの求めに答え、じつに「二倍の霊の分け前」を、与えてくださったのです。
聖書は教えます。「わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。」(詩篇2:8)この御言葉で「あなた」と言われているのは、主イエス・キリストです。私たちは毎週、さまざまな国のために祈っていますが、私は、そのたびに、そうした国々が主のものとされるように、それぞれの国に主を信じ、主に従う者が増えますようにと願っています。国々が主のものにされるのは、武力によってでも、経済力によってでもありません。聖霊の力で福音の宣教がなされることです。主は言われます。「わたしに求めよ。」ですから私たちも、「国々を主のものに」とするため、私たちも国々の宣教のため続けて祈りたいと思います。
主イエスは言われました。「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)ヤコブも言っています。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」(ヤコブ1:5)足らなさを嘆くのでなく、それが満たされるよう求めましょう。主は私たちの足らないことを決してお責めにはなりません。主を信頼して求めないことを、お叱りになるのです。
霊的な力、聖霊の賜物について聖書はこう言っています。「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。」(コリント第一12:31)「あなたがたのばあいも同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。」(コリント第一14:12)
信仰を守り、それを証ししていくためには、聖霊の力が必要です。自分たちの足りなさを覚える時、エリシャが求めた以上に霊的なものを求める必要を感じます。今の時代が暗ければ暗いほど、もっと明るい光が必要です。人々の愛が冷えているならば、もっと燃えるような聖霊の愛が必要です。信じられない、従いきれないと言って、中途半端なところに留まるのではなく、「主よ、信じる霊を与えてください。従う霊を与えてください」と祈り求める者となりましょう。
(祈り)
私たちに聖霊を賜る主なる神さま。私たちは、あなたがくださろうとしている聖霊の賜物のことを忘れ、自分の足りなさや弱さを嘆くことがなんと多いことでしょう。霊的なこと、信仰のことにおいて、あなたに大胆に求めることができますように。より優れたものを熱心に求め、天に上げられるその日まで、聖霊の力によって歩むことができますように。主イエスの御名で祈ります。アーメン。
9/15/2019