神が愛される人

コリント第二9:6-15

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9:6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
9:7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
9:8 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
9:9 「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。
9:10 蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。
9:11 あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。
9:12 なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。
9:13 このわざを証拠として、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、彼らに、またすべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめることでしょう。
9:14 また彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた絶大な神の恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになるのです。
9:15 ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。

 一、与える人

 "Give-and-take." ということばがあります。良い意味では、互いに対等の関係で、意見を交換しあい、協力しあうことをさします。あまり良くない意味では、政治家と官僚、あるいは企業が「持ちつ持たれつ」の関係で「癒着」していることをさしたりもします。また、「論功行賞」といって、手柄を立てなければ褒美をもらえないので、そのために人々が報いだけを求めて目立つことをするのを表わすときも、このことばが使われます。

 "Give" と "Take" のバランスが保たれていればいいのですが、人は、どうしても "Take" のほうに傾いてしまいます。"Give him an inch and he'll take a yard."(1インチを与えると1ヤードを取られてしまう)ということわざがあるほどです。日本では「ひさしを貸して母屋を取られる」と言います。"Give"(与えること)をしないで、"Take"(得ること)ばかりを求めていると、その人の人生はみじめなものになってしまいます。ひとつを手にいれたら、もうひとつ欲しい。ふたつを手にいれたら三つ目が欲しいと、欲望がどんどんふくらんで来ます。たえず、「あれも欲しい。これも欲しい」という思いで一杯になり、与えられている感謝、満たされている喜びを味わえなくなるのです。「人は『得る』ことだけで満足できない」というのは本当です。得ることばかりを求めている人は、他の人から敬われたり、慕われたりすることがありませんから、どんどん孤独になっていきます。

 日本で、一時、「くれない度」ということばがはやりました。人に与えるよりも、人から得ることばかりを考えていると、「あの人は私に親切にしてくれない」「声をかけてくれない」などと、「~してくれない」を連発するようになります。その人の心が「くれない」に染まり、不満の多い人は真っ赤になっていく、その度合いが「くれない度」というのだそうです。すこし人をからかったような言葉ですが、自分の「くれない度」はどうだろうかと反省してみたいと思います。

 この「くれない度」を下げるには、得ることだけを求める "Taker" にならないで、与えることを喜ぶ "Giver" になるよう努めれば良いのです。イエスは、「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい」(マタイ5:40-41)と言われました。「1インチでも譲ろうものなら、1ヤードを取られてしまう」ということわざが表わしている世界と、全く逆のことを教えられました。イエスは「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒20:35)と言われ、使徒パウロは「神は喜んで与える人を愛してくださいます」(コリント第二9:7)と教えています。「神は喜んで与える人を愛してくださいます」は英語で "God loves a cheerful giver." と言います。得ることだけを求める "Taker" は、人から尊敬されないばかりか、神に愛されることもありません。神は「喜んで与える人」"Cheerful Giver" を愛してくださいます。そのような人はこの神の愛を感じながら、喜びをもって人生を歩むことができるのです。

 二、与える人になるには

 では、どのようにしたら「与える人」になることができるのでしょうか。私たちは、誰も、人から認められたい、神からも愛されたいと願っています。けれども人の関心を買うために人に何かをしてあげるとしたら動機に問題がありませんか。神の愛を勝ち取るために奉仕をしたり、献金をしたりするとしたら、それは、「論功行賞」という意味での "Give-and-take" になってしまいます。「こんなにしてあげたのだから、こうしてもらって当然だ」という態度で何かを与えたとしても、それは、見返りとして何かを得るためにしたことであって、本当に与えることにはなっていない、与える人ではなく、得る人になっています。私たちはそのようにして人の尊敬を得ることはできませんし、ましてや神の愛を受けることはできません。

 そもそも、神の愛は、私たちが神に何かを与え、それと引き換えに得るものではないからです。ローマ11:35に「だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか」とあるとおりです。聖書は「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(ヨハネ第一4:10)と教えています。神は、私たちが神のために何一つ良いことをしなかったとき、いや、できなかったときに、すでに私たちを愛してくださいました。ヨハネ3:16が言うように、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」のです。神は、ご自分の最愛の御子を、私たちの罪の身代わりとして、十字架で死なせるために、お与えになりました。神こそが、本当の「与え主」("Giver")です。私たちは、この神の愛を、ただへりくだって、信仰によって受け取るのです。そして、この神の「与える愛」を受けることによって、「与える人」へと変えられます。神の愛をさらに深く知ることによって、「与える」ことを学び、実行することができるようになるのです。

 神の愛は、「私が与えて、受ける」という意味の "Give-and-Take" で得るものではなく、「私が受けて、与える」という意味では "Take-and-Give" と言って良いでしょう。まず、神の愛を受けることが大切です。神の愛を受けてこそ、私たちは、ほんとうの意味で、神のために、また、他の人のために喜んで、また、進んで与えることができるようになるのです。神の愛を知らないまま「与える人」になろうとしてもそれは、見せかけや自己満足で終わってしまうでしょう。神の愛に満たされていないで「与え」ようとしても、それは苦しいばかりで、決して長続きはしないでしょう。

 ですから、「与える人」になるには、「与える」という行動を起こす前に神の愛を想い見る必要があります。聖書は「私たちが神の子どもと呼ばれるために、…御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう」(ヨハネ第一3:1)と言って、神の愛を深く想い見るよう教えています。神の愛は、大きな海、深い湖のようです。それをちらっと見る、少しだけ眺める、ちよっと指で触れる、つま先を浸してみるというのでなく、その中にどっぷりと浸かってみませんか。ソークモードの祈りの中で、神の愛を想うのです。そのようにしてまず私たちのたましいが神の愛に満たされ、そこから行いに進んでいくとき、その行いは神に喜ばれるものとなり、実を結ぶものとなります。祈りは、天国とこの世、神の力と人間の行いを結びつけるものです。祈りなしにばたばたと行動しても、そこに神の愛が伴わず、結局は人間の力だけによる活動で終わってしまいます。

 百メートル、二百メートル、四百メートルなど、トラック競技をする選手たちは、"Ready, Set, Go!"(位置に着いて、用意、ドン!)で競走を始めます。選手たちは、コースのスタートラインに身をかがめ、意識のすべてを競走に集中します。それはほんの一瞬のことですが、その「準備」があってはじめて自分の力を生かすことができるのです。どんなことにも「備え」が必要です。私たちも、神の愛に生きるためには、神の愛を想い見る祈りという準備が必要です。日々の祈りによって、また、週ごとの礼拝によって、愛の神に触れていただき、「与える人」へと変えられて、「与えること」を実行していきたいと思います。

 三、与える人の模範

 次に、「与える人」になった人たちの良い模範に見習うことは、とても役に立ちます。その模範は、聖書の中にも、歴史の中にも、また私たちの身の回りも数えきれないほどあります。今朝は、その中から、2010年12月5日に亡くなられた、M.A. Thomas 先生のことをご紹介しましょう。

 インドで「マザー」と言えば、「マザー・テレサ」をさしますが、「ファーザー」と言えば、「トマス先生」をさします。トマス先生は文字通り、インドで一万人の孤児たちの「父」となったからです。

 トマス先生はインドの南、かつて「マドラス」と呼ばれ今は「チェンナイ」と呼ばれる町の貧しい家庭に生まれました。先生はバイブル・カレッジに入る前から、自分たちよりももっと貧しい人たちがインドにはたくさんいることを聞き、そうした人々に神の愛を伝えたいと願っていました。カレッジを卒業して、トマス先生は、マドラスから1000マイルも離れた、インド北西ラジャスタン州に向かおうとしていました。結婚したばかりで、奥さんは最初のこどもを妊娠していました。そのとき持っていたお金はたった200ルピー(約8ドル)しかありませんでした。どうやって、ラジャスタンに行けば良いのでしょうか。行った先で生活が成り立つのでしょうか。そんな保証はどこにもありませんでしたが、トマス先生は信仰によって、一歩を踏み出そうとしていました。実際、歩いてでもラジャスタンに行こうとしていたのです。

 そんなとき、トマス先生は、キャンパス・クルセードを始めたビル・ブライト先生に会いました。ビル・ブライト先生は、トマス先生のあかしを聞いて感動し、ちょうど持ちあわせていた25ドルの現金をトマス先生に手渡して、「アメリカに戻ったら毎月サポートを送る」と約束しました。ビル・ブライト先生は、その約束を守り、2003年に亡くなるまで毎月サポートを送りました。トマス先生と奥さんは、ビル・ブライト先生から頂いた25ドルで、列車の切符を買い、ラジャスタンのコタという町に着きました。1960年8月のことでした。

 コタの町で、トマス先生は早速、一番人通りの多い交差点に立って、福音を語りました。たちまち捕まえられ、牢に入れられ、叩かれ、この町から出ていくように命じられました。ところが、牢から釈放されると、また、同じところに行って、同じように語り出したのです。それでまた、たちまち、捕まえられました。ところが、トマス先生は二度も捕まえられても、喜びにあふれていました。町の裁判官が不思議に思って、「お前は何しに来たのか。なぜ町を出ていかないのか」と尋ねると、先生は「私は、この町の人たちにグッド・ニュースを知らせるために来たのです。神が私をこの町に遣わされたのですから、私はここを去るわけにいかないのです」と答えました。裁判官は「グッド・ニュースとは何か」というので、トマス先生はイエス・キリストの福音をあかしし、神は、貧しい人たちをかえりみていてくださると語りました。裁判官はそれを聞いて興味を示しましたが、トマス先生に一晩の投獄を命じました。しかし、退去命令を取り消しました。

 それから、50年の間、トマス先生は孤児院を建て、病院を建て、カレッジを建て、多くの人々に神の愛を伝えました。トマス先生が最初に建てたコタの町の孤児院には今も1500人の孤児が手厚い保護を受けています。トマス先生は偉大な「与え手」("Giver")となりました。ラジャスタンでトマス先生のことを知らない人はいないほどです。先生は、この主のための働きを "Hopegivers" と名づけ、今は、息子の Samuel Thomas 氏がその働きを引き継いでいます。

 トマス先生がラジャスタンの人々に希望を与えたいと願って歩み出そうとしたとき、たった8ドルしかありませんでした。私たちだったら、手持ちのお金を見ただけで、「与え手」("Giver")になるのをあきらめてしまうでしょう。しかし、トマス先生はあきらめませんでした。「与え手」("Giver")になるというのは、自分がどれだけのものを持っているか、あるいは、どれだけ余裕があるかなどとは、関係がないのだということを教えられます。神の愛に満たされ、燃やされ、動かされていること、それが人を本物の「与え手」("Giver")にするのです。

 私たちは自分を見ると、いったい、私は何を与えることができるのだろうと思います。しかし、私たちは皆心を持っています。それを神にささげ、人に与えることができます。時間の制約があるかもしれませんが、その一部をささげ、人のために使うことができるでしょう。私たちには、トマス先生が持っていた8ドル以上のお金を持っています。自分は外国に行って伝道できなくても、宣教師をサポートすることによって、それができます。捧げる額は問題ではありません。大切なことは、ビル・ブライト先生のように忠実にサポートを続けることです。教会の内外にあなたの助けを必要としている人はいないでしょうか。子どもたちを教え導く奉仕者も必要です。最初はどうやって子どもを教えたら良いか分からなくても、熱意があれば、知恵や知識は後で与えられます。

 「神が愛される人」とは誰でしょう。「喜んで与える人」("Cheerful Giver")です。今すぐに、具体的な何かを与えることができなくても、「喜んで与える人」として整えられていれば、いざという時に必要なものを「与えること」ができるようになります。神の前にそのような者として整えられていたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたの愛は実に、与える愛です。私たちが神の子どもと呼ばれるために、あなたは、私に、どんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。そのことを深く思い見、また、人々の良い模範にならい、あなたの愛で生かされて日々を送る私たちとしてください。「喜んで与える人」となって、人々にあなたの真実な愛を証しすることができますように。主イエスのお名前で祈ります。

5/6/2012