9:1 聖徒たちのためのこの奉仕については、いまさら、あなたがたに書き送る必要はないでしょう。
9:2 私はあなたがたの熱意を知り、それについて、あなたがたのことをマケドニヤの人々に誇って、アカヤでは昨年から準備が進められていると言ったのです。こうして、あなたがたの熱心は、多くの人を奮起させました。
9:3 私が兄弟たちを送ることにしたのは、このばあい、私たちがあなたがたについて誇ったことがむだにならず、私が言っていたとおりに準備していてもらうためです。
9:4 そうでないと、もしマケドニヤの人が私といっしょに行って、準備ができていないのを見たら、あなたがたはもちろんですが、私たちも、このことを確信していただけに、恥をかくことになるでしょう。
9:5 そこで私は、兄弟たちに勧めて、先にそちらに行かせ、前に約束したあなたがたの贈り物を前もって用意していただくことが必要だと思いました。どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。
一、信仰生活の指示
ある人が聖書「"Bible" とは "Basic Instructions Before Leaving Earth" である」と言いました。Basic の B、Instructions の I、Before の B、Leaving の L、そして Earth の E で B・I・B・L・E、Bible となります。"instructions" と言えば「指示」、「命令」のほか、「取り扱い説明書」という意味があります。神は私たちひとりひとりに、かけがえのない「いのち」を与えてくださいました。「いのち」は英語で "life" ですが、英語の "life" には「いのち」の他、「生活」、「人生」という意味もあります。神の与えてくださった「いのち」によって、日々の「生活」をいとなみ、日々の生活が積み重なって「人生」になります。自動車をはじめ、さまざまな製品のメーカーは製品といっしょに「取り扱い説明書」を用意します。私たちの "life" のメーカー(造り主)である神は、それをくださったとき、それをどう扱うかという「取り扱い説明書」も同時にくださいました。それが「聖書」です。
聖書は日常の生活においてもたくさんの知恵に富んだ指示を与えています。学問の世界でも、ビジネスの世界でも、また、医療の分野でも、多くの人々がその知恵を学んで成功を収めています。しかし、聖書がほんとうの意味で教えようとしているのは、この世の営みのことよりも、信仰生活に関することです。クリスチャンでない人々でも、聖書の原則を実行して、その分野で成功しているのなら、クリスチャンは、なおのこと、聖書の教えに従って、もっと豊かな信仰生活を送ることができます。聖書は、「インストラクション」以上の書物で、神のお心を示し、私たちのたましいを養ういのちのことばですが、聖書のそのような深さ、豊かさを味わい知るためにも、まずは、聖書が信仰生活について教えていることに従いたいと思います。
アメリカの製品には、小さな家具や掃除機、こどものおもちゃなど、自分で組み立てなければならないものがたくさんあります。そんなとき、説明書を良く読まないで組立てようとすると、うまくかなくなったり、部品を壊してしまったりします。電動工具など、説明書をよく読まないで間違った使い方をすると、せっかくの製品を壊わしてしまったり、自分が怪我をしてしまうことがあります。同じように、私たちの人生に与えられている聖書の指示を無視してしまうと、大きな後悔を残すことになってしまいます。どんなことにも、聖書の指示をよく読み、それに従って、信仰生活の喜びを味わいたいと思います。
二、献金の指示
信仰生活で、大切なものは数多くありますが、献金はそのひとつです。主イエスは「山上の説教」で、「施し」(マタイ6:2-4)と「祈り」(マタイ6:5-15)と「断食」(マタイ6:16-4)の三つを、神が喜んでくださる「善行」として取り上げておられます。「施し」は献金に通じるもので、「施し」をするときには、こうしなさいと言われたイエスの指示は、献金のときに心得ておきたい教えです。
使徒パウロも献金について具体的に教えています。その中から三つのことを覚えておきましょう。
第一は、献金の動機です。コリント第二9:5に「どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください」とあり、9:7には「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます」と教えられています。献金は、義務として強いられてするものではなく、神への感謝にあふれて献げるものです。また、献金はいやいやながらするものではなく、自分が良くしてもらったのだから、他にも良くしてあげたいという好意から出てくるものです。また、献金は惜しみながらするものではなく、喜んでするものです。聖書ははっきりと、「神は喜んで与える人を愛してくださいます」と言っています。そして、この「喜び」は「救いの喜び」です。自分の罪がどんなに大きく、その罪を赦すために、イエス・キリストがご自分の命までも投げ出してくださったかを知っている人は、罪の赦しの喜び、救いの喜びをたましいのうちに持っています。献金は、その喜びの表現です。神は救いの喜びから溢れ出た献金を喜んでくださるのです。
第二は、献金の額です。聖書は、「十分の一は神のもの」と教えていますから、与えられたものの、十分の一を神にお返しすることを基準に献金の額を決めると良いでしょう。収入が増えると、「十分の一」も増えます。しかし、多く与えられた人は、それによって少ししか与えられていない人の分をカバーしてあげることができるのですから、十分の一を惜しまないようにしましょう。ある実業家が、祈りました。「神さま、私の事業を祝福してください。そうしたら、きちんと十分の一をささげます。」神はこの祈りに答えて彼の事業を祝福し、彼は莫大な収入を得ることになりました。十分の一をささげてもまだありあまるお金があったのに、この人は十分の一を惜しむようになりました。すると、とたんに彼の事業は傾き出しました。彼は慌てて、神との約束を守り、神もまたその事業も守られたという話を聞いたことがあります。
また、コリント第二9:7は「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい」と教えています。献金の額は、あの人があれだけしているから、私もそうしなければならない、みんなあまり献金していないから、私もほどほどにしておこうというように、自分のまわりの人を見て決めるものではありません。聖書は、「ひとりひとり…心で決めたとおりにしなさい」と、それは、私たちのひとりびとりの心が神の心と向き合って決めることだと教えています。イエスがレプタ2枚をささげたやもめを誉められたのは、彼女が手持ちのお金すべてを神に献げたからです。彼女は、十分の一どころか、十分の十を神にささげ、明日の一日を完全に神の手におまかせしたのです。神の前で、信仰の心をもって、なにをどう献げるかを決めた人は幸いです。
第三は、献金の時です。コリント第一16:2に「あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、…手もとにそれをたくわえておきなさい」とあるように、献金は「週ごとに」、「主の日」の「礼拝」で献げるのが良いのです。初代教会の時代には給料は日給制でした。一日ごとに給料をもらい、それで次の一日の生活を支えたのです。人々は毎日もらう給料から献げるべきものをとりわけ、それを日曜日に教会に持って行き、礼拝のときに神に献げました。
そして、コリント第二9:5には「そこで私は、兄弟たちに勧めて、先にそちらに行かせ、前に約束したあなたがたの贈り物を前もって用意していただくことが必要だと思いました」とあるように、礼拝で献げる献金は前もって準備しておくよう教えられています。献金の時間になってからあわてて財布を開いたり、チェックを書いたりするのでなく、前もって、できれば土曜日に準備できれば良いと思います。ある人が、「私は、土曜日には車にガソリンを入れ、道路に向かって前に向け、献金だけでなく、着ていく服、履いていく靴まで用意してから、翌日の礼拝で朗読される聖書を開いて読み、礼拝の祝福のため、奉仕者のために祈って、早く休みます」と話してくれました。私が「すごいですね」と言うと、その人は、「いや、習慣になってしまえば、なんということはないですよ」と言っていました。こんな良い習慣は早く身に着けたいものだと思います。
礼拝に出れなくても献金を送ってくださる方があります。感謝なことです。けれども、健康や事情が許されて、礼拝に出席し、自分の手で献金を献げることができたら、もっと素晴らしいと思います。創世記に「アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持ってきた」とあります。「自分自身で」というのは、みずから進んでということとともに、手間暇をかけて最良の子羊を選び、自らの手で神に供えたということを言っているのでしょう。アベルはまるで自分自身をささげるかのようにして、ささげものをささげたのです。それで聖書は「主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた」と、「ささげ物」だけでなく、それをささげたアベルを喜ばれたと言っているのです(創世記4:4)。神は、私たちのささげ物だけでなく、それをささげる私たち自身が礼拝で神の前に近づく姿をご覧になりたいのです。ささげ物を携えて、礼拝に来る私たちでありたく思います。
三、献金の祝福
コリント人への手紙9:1-5には献金についての指示が語られていましたが、続く6-15には献金の祝福が語られています。
献金の祝福とは何でしょうか。それは第一に、豊かさとなって返ってくるということです。6節に「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります」とあり、献金は「種」にたとえられています。種を少ししか蒔かなければ、当然収穫も少なくなります。けれども多く蒔けば、多く刈り取ることができます。献金も、喜んで、進んでするなら、それは何倍もの実を結んで自分に返ってくるのです。10節に「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます」とある通りです。
イギリスの船会社の社長の話を聞きました。彼の会社の船が嵐で難破し大きな損害を受け、会社が倒産しそうになりました。資金繰りがたいへん苦しくなりましたが、こんな時だからこそ、持っているものをささげて神の助けを乞わなければならないと、彼は考え、献金を忠実に守り、社内の人々にも、周りの人々にもそれを勧めました。すると、会社が持ち直し、その後会社は大きく発展したそうです。
イエスは、「自分の宝は、天にたくわえなさい」と教えられました。献金とは、天国銀行への貯金であり、神の国への投資です。私たちが献げたものは、消えてなくなったのではなく、その利息や配当とともに天に蓄えられているのです。貯金には利息がつき、投資には配当があります。喜んで与える人は、その利息や配当を天で受け取るだけでなく、この地上でも受け取るのです。献金を惜しんで貧しくなった人はいても、喜んで献金を献げて貧しくなった人はいません。献金を守ることによって負債から救われ、経済的にも祝福を受けた人が大勢います。献げるべきものを惜しんでお金を貯めても、それがいつの間にかなくなってしまう。惜しみなく与えているのに、いつも必要なもので満たされる。これは不思議なことですが、神の国の経済法則はそうなのです。喜んで与える人は、豊かなもので満たされます。
献金の祝福の第二は、神への感謝を生み出すことです。11節に「あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです」とあります。神を信じる人たちのささげ物によって助けられた人たちは、それによって、神が自分たちを顧みてくださった、神が助けてくださったということを知り、神に感謝するようになります。神を知る者はさらに神に感謝をささげ、いままで神を知らなかった人々も、自分たちに聖書が届けられ、福音が届けられたのが、神を信じる人々の献金によってだということを知って、神に心を向け、神に感謝するようになるのです。
まだクリスチャンでない、ある人が、クリスチャンが献金するのを見て、「私は、毎日元気で、不自由なく暮らしています。この感謝をどう表わしたら良いかわかりませんでしたが、あんなふうに献金で表わすことができるのですね。なんと、素晴らしい方法でしょう。私も、献金によって礼拝に参加できるのは、とてもうれしいことです。わずかですが、献金できるほどに生活が満たされていることを感謝します」と話してくれました。感謝はさらに感謝を生み出すのです。
献金の祝福の第三は、福音を証しするということです。13節に「このわざを証拠として、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、彼らに、またすべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめることでしょう」とあります。献金は、キリストが私たちのためにその身をささげられたことに答えてするものです。ですから、献金は、たんなる慈善の行いでなく、キリストが「私のために死なれ、よみがえられ、再び来られる」という「福音」を証しするもの、それによって、キリストの福音が真理であることを自分も確信し、他の人々にそれを証拠立てることができるものなのです。私たちは、学びや祈りだけでなく、献金によってさらに真理を知ることができる、ことばや行いだけでなく、献金によっても福音を証しすることができるのです。それはなんと素晴らしいことでしょうか。
献金について、聖書の教えに従うことにより、私たちは、さらに神のことばの奥義へと進み、「喜んで与える人」を愛してくださる神の愛を確信することができます。このような祝福を多く受けるお互いでありたいと思います。
(祈り)
「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる」神さま、私たちが献げる献金は、もとはといえばあなたから出たもので、私たちはあなたから与えられたもののほんの一部をお返しするにすぎません。それなのに、あなたは、私たちが献げる献金を天に蓄えてくださるばかりか、この地上でも何倍にも実らせ、その豊かな収穫を楽しませ、霊的にも物質的にも、祝福を与えてくださいます。あなたの愛と恵みを覚え、私たちも、献金という恵みのわざに励むことができますように。そうすることによって、いよいよあなたの恵みを深く知り、よりあなたを愛することができますように。主イエス・キリストのお名前で祈ります。
6/10/2012