父・子・聖霊の神

コリント第二13:11-13

オーディオファイルを再生できません
13:11 終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。
13:12 聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。すべての聖徒たちが、あなたがたによろしくと言っています。
13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。

 「ペンテコステ」の次の日曜日は「三位一体主日」です。「クリスマス」に神の御子が世に来られ、「ペンテコステ」に聖霊が来られて、「父・子・聖霊」なる神が明らかになりました。教会によって呼び方は違いますが、今日から「三位一体節第○○主日」、あるいは来週から「三位一体後第○○主日」といって、日曜日を数えます。今年度はアドベントが12月1日で、ペンテコステが5月31日でしたから、アドベントから12月までがちょうど六ヶ月、三位一体主日から次のアドベントまでもおよそ六ヶ月となります。

 一、三位一体

 「三位一体」とは、おひとりの神が「父・子・聖霊」であり、「父・子・聖霊」がおひとりの神であることを言い表している言葉です。英語で “Trinity” といいますが、この言葉は聖書にはありません。後に作られた言葉です。しかし、「三位一体」という言葉そのものが聖書に無いからといって、聖書が「三位一体」を教えていないわけではありません。イエスは「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)と言いました。また、イエスに替わって遣わされる聖霊を「もうひとりの助け主」(ヨハネ14:16)と呼びました。ここで使われている「もうひとりの」という言葉には「同質・同格のもの」という意味があります。車の部品にはその車のメーカーが造る「純正品」と、他の部品メーカーが造る「代替品」があります。どちらも品質はほとんど変わらないのですが、中には粗悪な代替品もあります。それで「代替」というと、本来のものより劣るものというイメージがあるのですが、聖霊がイエスの「替り」であるという場合、聖霊がイエスに劣るということではありません。イエスが父と等しい「子なる神」であるように、聖霊もまた、父と御子と等しい「聖霊なる神」です。

 「父・子・聖霊」が一緒に出てくる箇所は、創世記のはじめから黙示録の終わりまで、聖書にいくつもありますが、そのひとつは、マタイ28:19です。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け(なさい)」とあります。「父、子、聖霊の御名」というところで使われている「御名」は「単数」の “name” です。「父、子、聖霊」は三人ですから「複数」の “names” になるはずですが、「単数」の “name” が使われているのは、「父、子、聖霊」がおひとりのお方、三位一体のお方だからです。

 このように、「三位一体」という言葉は、「おひとりの神が父と御子と聖霊であり、父と御子と聖霊はおひとりの神である」“One in Three, Three in One” ということを言い表しています。これは、人間の論理では理解できないものです。アウグスティヌスは417年に書いた『三位一体論』の中でこんなふうに言っています。「私が神について何かを書こうとするのは、子どもが海の水をバケツで汲みだそうとするようなものだ。神の真理は人間の力で理解できるようなものではない。人間の知性で理解し尽くせるものなら、それはもはや神の真理ではないだろう。私が三位一体について書こうとしているのは、それを明らかにするためというよりは、三位一体が否定されないためである。」神から特別な知恵を受けていたアウグスティヌスほどの人でさえ、そう言っているとしたら、私たちはなおのことです。人間のどんな言葉も、神を表し尽くすことはできません。聖書には「三位一体」の神が明らかに示されているのに、「三位一体」という言葉が使われていないのは、「三位一体」という言葉さえ、神を知り、神を説明するのには十分ではないからだと思います。もちろん、「三位一体」という言葉がいらないというわけではありません。この言葉は大切にされなければなりません。しかし、「三位一体」を「三」と「一」、「一」と「三」という数字のパズルのように考えても、「三位一体」の神を知ることにはつながらないのです。

 二、キリストの恵みと神の愛

 では、どうすれば良いのでしょうか。コリント第二13:13にも、「父・子・聖霊」が一緒に出てきますが、そこには「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」と書かれています。神の御子であるイエスがくださる「恵み」、父なる神がくださる「愛」、聖霊がくださる「まじわり」。これはみな私たちが体験できるものです。この体験を深めていくとき、私たちは「父・子・聖霊」の神をさらに深く知っていくことができるのです。では、この三つを順に見ていきましょう。

 最初は、主イエス・キリストの「恵み」です。ここで「父・子・聖霊」の順ではなく、「御子イエス・キリスト」から始めているのは、私たちが父なる神に至るのは、イエス・キリストを通してだからです。私たち、罪ある人間は、キリストの「恵み」なしには、聖なる神に近づくことができないからです。

 「恵み」には「それを受けるにふさわしくない者に与えられるもの」という意味があります。私たちのうち誰一人として神が求める正しさに達している人はありません。たとえ、犯罪を犯すことがなくても、自分は間違ったことをしたことがない、誰をも傷つけたことはないと言える人がいるでしょうか。たとえ、人の目に触れなくても、また、自分でも気がついていなくても、私たちは、どこかで間違った行いをし、言葉や態度で他の人を傷つけてしまうことがあるのです。そして、なにより、心の奥底まで見通される神の前に、私たちは不信仰で、不誠実な思いを抱いてきました。そんな私たちが、罪を赦され、神の前に正しい者と認められるのは、神の一方的な恵み以外にありません。私たちの罪を赦すため、私たちの罪をすべて引気受け、十字架を背負ってくださったイエス・キリストの恵みが私たちを救うのです。エペソ2:8に「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」とある通りです。「私を救うものはキリストの恵みの他何もない」と、キリストの前にへりくだり、その恵みを受け取る、その信仰が、私たちを救うのです。あなたは、この「キリストの恵み」をすでに受け取っているでしょうか。

 私たちの救いはキリストの恵みで始まり、恵みで終わります。ですから、ローマ人への手紙からピレモンへの手紙まで、パウロのすべての手紙は、「キリストの恵みがあるように」で始まり、「キリストの恵みがあるように」で終わっています。ジョン・マッカーサー先生がご自分の番組に “Grace to You” というタイトルをつけていますが、それはこの言葉からとられたものです。信仰生活は、恵みから恵みへと成長していくことです。もし、信仰生活で行き詰まるようなことがあるなら、それは「キリストの恵み」を見失っているからかもしれません。そんな時は、もういちどへりくだって「キリストの恵み」を仰ぎ見たいと思います。

 次は、「神の愛」です。この愛は、御父が御子を愛された愛から始まっています。旧約の神は「怒りの神」で、新約の神は「愛の神」であるなどという通説がありますが、これは、神を信じない人、また、聖書をきちんと読んでいない人が言っている大きな誤解です。神は、新約時代になってやっと愛の神になったのではありません。神は旧約時代も、その前も、永遠の先から愛の神です。永遠の先から御父と御子は互いに愛し、愛される関係の中にありました。「父・子・聖霊」は、静かに三つ並んで存在しているのではありません。御父と御子が聖霊の愛で愛し、愛されているという、ダイナミックな愛の関係の中に存在しておられます。この愛の神が、御子を愛する愛で、私たち、人間を愛し、人間の救いのために御子をさえ惜しまずにお与えになった神なのです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)この言葉はイエスが神の御子でなく、神が御子の父でなければ、神が「三位一体」のお方でなければ意味を持ちません。私たちは「三位一体」の愛の神によって愛され、その愛によって救われるのです。

 三、聖霊のまじわり

 最後は「聖霊のまじわり」です。これは、聖霊が生み出してくださる、私たちと神、また、私たち互いの「まじわり」を意味しています。「まじわり」は英語で “fellowship” と訳されますが、それは、「お付き合い」という意味ではありません。それはギリシャ語で「コイノニア」と言い、この「コイノニア」という言葉には、“fellowship” という言葉では訳しきれない、もっと深い意味があります。King James Version はこの箇所の「コイノニア」を “communion” と訳しています。“Communion” は、聖餐にあずかることを指す言葉です。コリント第一10:16の「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか」というところで使われ、「あずかること」と訳されています。聖餐にあずかることによって私たちはキリストと一つになり、「キリストのからだ」として一つにされていくのです。これは教会の霊的な一致のことを言っています。

 聖書はいたるところで「一つ心になりなさい」「一致を保っていなさい」と勧めています。しかし、教会が保っていなければならない「一致」とは、皆が同じ取り決めにしたがって行動し、仲良くしていればよいといういうものでもありません。それは、「父・子・聖霊」の神が「一つ」であるような「一致」、神から来る一致、キリストにある一致、聖霊による一致です。イエスは最後の晩餐の後で、教会の一致を願い、「わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです」(ヨハネ17:22)と祈りました。「父」と「御子」が、その本質において同じであるばかりでなく、「父」と「御子」は同じ愛で、人を救うという同じ目的をもって行動しました。「父」と「御子」は、その思いにおいても完全に一致していました。そのように、教会の一致は、父が御子を愛し、御子が父を愛した「愛」に生きることにあるのです。イエスは「神を愛する」ことを第一の戒め、「隣人を愛する」を第二の戒めと呼び(マタイ22:37-40)、それに加えて、第三の戒めとして「互いに愛し合う」という戒めを弟子たちに与えました。ヨハネ13:34では「新しい戒め」と呼ばれています。この「第三の戒め」は「父・子・聖霊」の神のうちにある「一致」が、教会の一致に移し替えられてはじめて守ることができるものです。

 「聖霊のまじわり」とは、この愛を聖霊が私たちに注いでくださることから始まります。ローマ5:5に「なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」とある通りです。「父・子・聖霊」の「三位一体」の神を信じるとは、この「聖霊の愛」を受けることです。そして、その愛によって、神を愛し、キリストに従い、キリストを信じる者が互いに愛し合うことです。きょうの箇所で「一つ心になりなさい。平和を保ちなさい」と言われていることは、聖霊が与えてくださる愛によって、はじめてできることです。そして、その愛から生み出されるものが、キリストを信じる者の「まじわり」(コイノニア)なのです。

 このように、「三位一体」は、頭で理解するものではなく、神を礼拝し、キリストに従う生活の中で、キリストの恵み、神の愛、聖霊のまじわりを体験することによって、理解されるものなのです。アレクサンドリアの大司教アタナシオス(373年没)は、「三位一体」を否定したアリウス派によって何度も追放され、流刑にあいましたが、それに耐えて、「三位一体」の信仰を守りました。それで、「三位一体」についての信仰のステートメントが作られたとき、彼の名前がつけられ、「アタナシオス信条」と呼ばれました。この信条にはこう書かれています。「誰でも、救われるには、(おおやけに全教会によって認められた)公同の信仰を持つ必要がある。…そして、その公同の信仰とは、三位において唯一の神を、唯一の神を三位において礼拝することである。」「アタナシオス信条」には三位一体について事細かなことが書かれていますが、大切なことは、「三位一体」は理論ではなく、礼拝の体験の中で知るということです。礼拝のたびごとに、「キリストの恵み、神の愛、聖霊のまじわり」を体験し、その祝福の中に生きることによって、私たちは「父・子・聖霊」なる神を、さらに知り、愛し、崇めるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたの愛のうちに礼拝をささげることができ感謝します。これは、キリストの恵みによって救われ、聖霊によってあなたとのまじわりの中に導き入れられたからです。この週も、あなたに守られ、あなたの御子に支えられ、あなたの御霊に導かれて歩むことができますように。私たちをあなたの愛と恵みとまじわりのうちに留めてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

6/7/2020