7:12 すると、主が夜ソロモンに現われ、彼に仰せられた。「わたしはあなたの祈りを聞いた。また、わたしのために、この所をいけにえをささげる宮として選んだ。
7:13 もし、わたしが天を閉ざしたため雨が降らなくなった場合、また、いなごに命じてこの地を食い尽くさせた場合、また、もし、わたしの民に対して疫病を送った場合、
7:14 わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。
7:15 今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。
一、傷ついた国
9月11日がふたたびめぐってきました。2001年9月11日から早くも二年の月日が流れました。グラウンドゼロもすっかり片付き、そこに建てられる建物の計画もほぼできあがり、ニューヨークも、アメリカも早いテンポで日々の営みにもどりつつあります。あの日のことは、早くも「過去」になろうとしています。
しかし、9月11日を「過去」のものにしてしまうには、あまりにも早すぎると思います。あの日に、愛する人々を亡くした人々の悲しみはまだいやされていません。あの出来事を目の当たりにした人々の中には、今でも、ポリスカーやファイヤートラックのサイレンを聞いただけで、恐怖がよみがえってくるという人々も多くいます。
9月11日は、イラク戦争に道を開きました。イラク戦争は「終わった」と宣言されましたが、「終結宣言」のあとも、イラクの人々をはじめ、アメリカ兵や他の国の兵士たちの命が失われつづけています。
9月11日は、アメリカ中を不景気にし、私たちが生活するシリコンバレーは、その影響をまともに受けています。
9月11日を境に、アメリカの安全についての神話が崩れました。パールハーバーを別にして、アメリカは、外国によって襲われたことはありませんでした。ところが、9月11日には、メインランド、しかもアメリカ第一の町が狙われたのです。誰もが「アメリカは安全」と信じて疑わなかった「信仰」がくずれたのです。しかも、アメリカの安全を脅かしたのは「戦争」ではなく「テロ」でした。「戦争」なら外交手段によって防ぎ、もし、戦争になった場合を想定してそれに備えることができます。戦略を練って、犠牲を最小限にとどめることも出来ます。国民が力を合わせて、国の安全を脅かすものに対抗することもできます。しかし、テロは、何の前ぶれも、宣戦布告もなく、突然起こります。防ぎようがないのです。あのテロは、アメリカに住む私たちに、今まで味わったことのない恐怖を与え、不安をもたらしました。
また、これを機に、マイノリティに対する排斥思想が広がりつつあります。アメリカは、さまざまな民族が平和に暮らしている数少ない国のひとつですが、9月11日を境に、民族や人種の間に不信感が生まれつつあります。テロリストたちは、アメリカで飛行機を操縦する勉強をしていたのですが、それとは知らないアメリカ人は、その人たちが外国から来て困っているだろうと、親切にしてあげていたそうです。「お人よしにもほどがある。」と思われるかもしれませんが、その「お人よし」なところがアメリカの素晴らしいところだと思います。しかし、そうした親切が「利用」されたことを知った人々は、特定の民族を疑ったり、嫌ったりするようになりました。アメリカは、隣人同士が独立しながらも、信頼しあって生活してきた国です。それが互いに警戒しあいながら生活しなければならないとしたら、ほんとうに残念なことです。
9月11日から二年、アメリカは、依然として傷ついており、この地はいやしを必要としています。
二、いやしの方法
今朝の聖書は、ソロモン王が神殿を建てた時にささげた祈りに対する神の答えです。ソロモンは、神殿を建て終えた時、こう祈りました。少々、長くなりますが、大切な祈りですので、歴代誌第二6章から、その一部を読んでおきましょう。
「また、もし、あなたの民イスラエルが、あなたに罪を犯したため、敵に打ち負かされるようなとき、立ち返って御名をほめたたえ、この宮で、御前に祈り願うなら、あなたご自身が天からこれを聞き、あなたの民イスラエルの罪を赦し、あなたが彼らとその先祖たちにお与えになった地に、彼らを帰らせてください。彼らがあなたに罪を犯したため、天が閉ざされ、雨が降らない場合、彼らがこの所に向かって祈り、御名をほめたたえ、あなたの懲らしめによって、彼らがその罪から立ち返るなら、あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたち、あなたの民イスラエルの罪を赦し、彼らの歩むべき良い道を彼らに教え、あなたの民に相続地としてお与えになったあなたの地に、雨を降らせてください。もし、この地に、ききんが起こり、疫病や立ち枯れや、黒穂病、いなごや油虫が発生した場合、また、敵がこの地の町々を攻め囲んだ場合、どんなわざわい、どんな病気の場合にも、だれでも、あなたの民イスラエルがおのおの自分の疫病と痛みを思い知らされて、この宮に向かって両手を差し伸べて祈るとき、どのような祈り、願いも、あなたご自身が、あなたの御住まいの所である天から聞いて、赦し、ひとりひとりに、そのすべての生き方にしたがって報いてください。あなたはその心を知っておられます。あなただけが人の子らの心を知っておられるからです。」(6:24-30)
ソロモンの祈りはとても具体的です。イスラエルが敵地に出かけてそこで負けた時、雨が降らなかった時、ききんや疫病、さまざまな植物の病気がはびこった時、敵が攻め込んで来た時、さまざまな災害や病気の時、民が神に向かって叫び求めるなら、その願いを聞いて、救いを与えてくださいと、祈っています。ソロモンの時代、イスラエルは平和で、豊かでしたが、そのような状態がいつまでも続くとはかぎりません。どの国にも良い時があれば、悪い時もあります。やがて困難に直面し、国が傷つき、いやしが必要な時がやってくるでしょう。そのような時、ソロモンはどうしたら良いかを知っていました。それは「祈る」ことでした。
ソロモンの祈りは、「苦しい時の神だのみ」のように聞こえます。宮本武蔵は「神仏は敬して頼らず」ということばを残しました。つまり、神や仏は、敬うことはあっても、苦しくなったからといってそれに頼るのは、虫が良すぎる。苦しい時は、歯を食いしばり、人一倍努力し、自分の力で乗り越えていくのだ、と言う意味です。日本人の多くは、そういう生き方が潔いと考えているようです。ヨーロッパにも「日ごとの恵みを神に感謝するのは美しいことだが、自分たちの問題を神におしつけるのは醜いことだ。」という考えがあります。しかし、私たちを深く愛しておられる神は、私たちが苦しみの中にある時こそ、私たちと共にいて、私たちを強め、支え、導くお方ではないのでしょうか。神は言われます。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇50:15)神が私たちに求めておられる信仰は、私たちがそこそこの善良な生活で満足するとか、神に頼らずともやっていける平穏無事な生活を感謝するということ以上のものです。私たちは自分の力で生きているように思ってはいても、ほんとうは神によって生かされているのだということを、心から認め、神に信頼しながら日々を生きるということなのです。日々に神への信頼を忘れなければ良いのですが、私たちは、そのことを忘れて、どうにもならない問題を招いてしまうことがあります。神は、私たちの受ける苦しみを通して、ほんとうに頼るべきものは神なのだということを思い起こさせてくださるのです。苦しみの時のほうが、平穏な日々よりも、神の力や恵みをもっと深く、体験できることもあります。苦しみの日に神に祈ること、それが、私たちにできる最善のことなのです。
問題にぶつかり、そこで行き詰まってしまった人々は「あらゆる手をつくしました。」と言うのですが、実は、していないことがあるのです。それは祈ることです。「あのことも試しました。このこともやってみました。」と言うのですが、祈りを試してみたでしょうか。どんな方法がだめでも、残されたひとつの方法があります。それが祈りです。私たちは祈る時、ひざをかがめ、眼を閉じ、手を組みます。これは、「私はもう立ち上がれません。何も見えません。この手で何もすることができません。」と、自分の無力を認めた姿ですね。イスラエルの人々は両手を上げて祈りましたが、これも「もうお手あげです。」ということ表わしているのかもしれません。たとえ、私たちがどんな状態に置かれても、何もできなくなったとしても、祈ることはできます。祈りがある以上、そこに希望があります。祈る人、熱心に祈り続ける人は誰も、失望で終わらないのです。
三、いやしの約束
ソロモンはこうも、祈りました。「彼らがあなたに対して罪を犯したため―罪を犯さない人間はひとりもいないのですから―あなたが彼らに対して怒り、彼らを敵に渡し、彼らが、遠くの地、あるいは近くの地に、捕虜として捕われていった場合、彼らが捕われていった地で、みずから反省して悔い改め、その捕囚の地で、あなたに願い、『私たちは罪を犯しました。悪を行なって、咎ある者となりました。』と言って、捕われていった捕囚の地で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた彼らの地、あなたが選ばれたこの町、私が御名のために建てたこの宮のほうに向いて祈るなら、あなたの御住まいの所である天から、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの言い分を聞き入れ、あなたに対して罪を犯したあなたの民をお赦しください。」(6:36-39)ソロモンは、神がイスラエルをさまざまな苦難から救ってくださるばかりでなく、イスラエルの人々が罪を犯して、神に背くようなことがあっても、その罪を悔い改め、神に立ち返るなら、神は、人々の罪を赦し、神の民として回復してくださるということを、信じて祈ったのです。国家や社会の、目に見えるものが回復するだけでなく、その社会や国家を形づくっている、人々のたましいもまた、回復されなければ、本当のいやしにはなりません。
すべての場合がそうとは限りませんが、個人の場合でも、国の場合でも、人の罪や社会の悪が、苦しみや危機の原因になっていることがあります。そのような場合には、単に問題をかわし、危機を避けるというだけでは、本当の解決にはならないのです。問題の原因である罪を悔い改め、危機をもたらした悪を取り除かなければならないのです。ですからソロモンは、「彼らが…、みずから反省して悔い改め、…『私たちは罪を犯しました。悪を行なって、咎ある者となりました。』と言って、…心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り、…祈るなら、…あなたに対して罪を犯したあなたの民をお赦しください。」と祈ったのです。
神は、このようなソロモンの祈りに答えて、7章12節からのことばをソロモンに与えてくださいました。「わたしはあなたの祈りを聞いた。また、わたしのために、この所をいけにえをささげる宮として選んだ。もし、わたしが天を閉ざしたため雨が降らなくなった場合、また、いなごに命じてこの地を食い尽くさせた場合、また、もし、わたしの民に対して疫病を送った場合、わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。」
神は、いやしの神、回復の神です。ソロモンが「―罪を犯さない人間はひとりもいないのですから―」と言ったように、神のように完全な人はどこにもいませんし、神の国のように正義と公平で満ちている国はどこにもありません。私たちは、失敗し、罪を犯します。そのような私たちに大切なことは、失敗しないで生きることよりも、失敗した時にどう対処するかということです。神に喜ばれる生活とは、できるだけ罪を犯さないように、いつもびくびくしたり、そこそこ善良な生活が出来れば良いというようなものでも、罪を認めないでごまかしながら生きることでも、罪の赦しを知らないで絶望の中に閉じこもることでもありません。神の喜ばれる生活は、「みずからへりくだり、祈りをささげ、神の顔を慕い求め、悪い道から立ち返る」、悔い改めの生活なのです。個人も、国家も、そうする時、そこにいやしと回復がもたらされるのです。
ソロモンは「彼らがあなたに対して罪を犯したため…彼らが、…捕虜として捕われていった場合、…私が御名のために建てたこの宮のほうに向いて祈るなら…」と言いましたが、イスラエルが外国の捕虜になるという出来事が、実際にイスラエルに起こりました。ソロモンの死後、イスラエルの国は二つに分かれ、北王国はソロモンからおよそ218年たってアッシリヤに滅ぼされ、南王国は364年たってバビロンに滅ぼされました。イスラエルの主だった人々はアッシリヤに、また、バビロンに捕虜となって連れていかれたのです。南王国がバビロンに滅ぼされた時には、ソロモンの建てた神殿も破壊され、火で焼かれてしまいました。ソロモンは「この宮のほうに向いて祈るなら」と言いましたが、その宮も失われてしまったのです。しかし、地上の神殿は無くなっても、神は天の御座にいて、イスラエルの悔い改めをごらんになり、その祈りを聞いてくださいました。神は、その祈りに答えて、イスラエルの国をもう一度建て直してくださったのです。古代の大帝国アッシリヤも、バビロンも、ペルシャも、アレキサンダー大王の帝国も、滅びて再興されることはありませんでした。しかし、あの小さな国イスラエルは、何度も、よみがえっているのです。「この地をいやそう」という約束の通り、神に向かって悔い改め、祈る人々とその国を、神はいやし、回復してくだるのです。
この約束は、ソロモンの時代から、三千年たった今も、変わることはありません。アメリカの歴代の大統領は、アメリカの国が困難に直面したたびに、この約束にたって祈りました。とくに、南北戦争の時、リンカーン大統領は、全国民に断食の祈りを要請しました。ベトナム戦争では五万人、第二次大戦の時は31万人のアメリカ兵が命を落しましたが、南北戦争の時は北軍36万、南軍25万、合計61万、なんと第二次大戦の二倍もの戦死者を出したのです。リンカーンは、この傷ついた国がいやされるために、「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」とのことばを信じて、全国民に祈りを呼びかけたのでした。アメリカは、その祈りによって、未曾有の危機を乗り越え、発展を遂げることができました。アメリカの素晴らしさは、その広い国土でも、国民の数でも、教育のレベルの高さでも、経済力でも、軍事力でもありません。アメリカの素晴らしさは、この地で、信仰の祈りがささげられ続けてきたことにあります。私たちも、同じ約束に立って、個人のいやしを、家庭の回復を、そして社会と国家のいやしと回復を祈り続けましょう。
(祈り)
主なる神さま、あなたが、私たちのいやしと回復を願い、それを成し遂げてくださることを、心から感謝いたします。今、私たちと、私たちの国は、傷ついています。9・11に、愛する人々を亡くした数知れない人々、イラクでその若い命をささげた兵士たちの家族のために祈ります。あなたの慰めと力を与え、おひとりびとりをいやしてください。9・11とイラクで、負傷し、今も病院にいる方々、不自由な生活を強いられてる方々を助けてください。襲ってくる恐怖や不安、疑問や憤りから救い出してください。シリコンバレーに住む私たちは、アメリカの経済の落ち込みの影響を受けています。仕事をなくされた方々を助け、仕事を求めて祈っている方々の祈りに答えてください。この国では、多くの民族がともに暮らしています。お互いの間に平和と愛と、信頼を与えてください。指導者たちを導いて、国民と、世界の平和のために正しい選択と決断ができるよう、助けてください。教会をリバイブし、人々があなたに対する信仰を取り戻し、道徳を回復することができますよう、助けてください。救い主イエス・キリストのお名前で祈ります。
9/7/2003